20
4限目の終了を知らせるチャイムが鳴ってしばらく経っても、有衣は立ち上がれないでいた。
体が鉛のように重い。
周りの声が遠く聞こえ、逆に自分の鼓動や呼吸が大きく聞こえる。
机に突っ伏したまま、有衣は手の中の携帯をぼんやりと見つめた。
直輝とのメールはそこそこ続いているものの、昼休みにしていた頻繁なやり取りは、最近ではほとんどない。
忙しいのだと思っていたが、どうやら違うらしいということに気づいて以来、有衣から送ることにも躊躇してしまう。
なんとなく直輝とシンクロしていたくて行っている屋上も、今は果てしなく遠く感じた。
「有衣、貧血? 顔色かなり悪いよ…」
「うん、今日、二日目…」
心配して近づいてきたみどりに、有衣はなんとか答える。
普段はそうでもないが、毎月一度、このときばかりはかなり貧血がひどくなる。
連日の忙しさによる疲労も関係しているのか、今回はかなり辛かった。
「保健室で休んでたほうがいいんじゃない? それか帰るか…」
「…保健室行く」
「うん。じゃ、一緒に行ってあげるから」
みどりに支えられて立ち上がり、保健室に向かいながら、こんなときでも携帯を手放せない自分に有衣は苦い思いを抱く。
期待することが、やめられないのだ。
だから、躊躇しながらも結局メールを送ってしまうし返信も待ってしまう、という堂々巡りに陥る。
そんなことが、体調の悪さに拍車をかけているような気がして、有衣は重い溜息を吐き出した。
痛い。気分が悪い。…それから、寂しい。
言えば、直輝が心配してくれることはわかっている。
それでも、今のふたりの状況を考えると、こういうことで気を引こうとするのは卑怯な気がして嫌だった。
鳴らない携帯を握りしめながら、有衣の意識は暗く沈み込んだ。
午後の授業が終わり、有衣の荷物を保健室へ持っていこうとしたみどりは、いつもよりひとつ多い鞄に眉を顰めた。
中身はもうわかっている。
制服をきらう直輝を気遣って、有衣はここ何日かわざわざ着替えを持って来ているのだ。
真面目なのはいいが、それで有衣が傷つくのは見るに堪えない。
真っ白な顔色で、ベッドに横たわる有衣を見つめて、みどりは小さくため息をついた。
その気配に有衣は目を覚まし、体を起こすと一瞬くらりとしたが、なんとか大丈夫そうだった。
「…もう、終わったの?」
「うん。どう? 少しは具合いい?」
「んー…大丈夫」
「お願いして今日は早めに帰ってきてもらうとか、できないの?」
有衣の性格上、そういうことは言わないとわかってはいても、みどりはそう聞かずにはいられない。
このまま小さい子どもの世話をしていたら、有衣は本当に倒れてしまいそうに見える。
だが案の定、有衣は首を横に振った。
「大丈夫。それに、心配かけるのやだ」
その言葉に潜む本当の意味を、みどりも知っている。
どうあっても自分では言わないつもりだとわかり、みどりは今度こそ大げさにため息をついた。
なんとか保育園へ行くと、珍しく晴基は寝ていた。
話によると、お昼間に遠足があったようで、疲れてしまったらしい。
起こすのもかわいそうで、そのまま抱いて帰ろうかと思ったが、有衣は荷物も多くしかも今日は体調も悪い。
この状態で、眠って脱力した3歳児を連れ帰るのは、かなり至難の業だ。
どうしようか、と思っていると、見かねた譲が口を開いた。
「俺、今日は暇だし。晴基連れてってやろうか」
「え、大丈夫なの?」
「ああ。それに、顔色超悪いし、荷物も多すぎだし」
「じゃあ、お願いしようかな。…ありがとう」
限界に近い有衣は、譲の厚意に素直に甘えることにする。
結局、譲が晴基を抱っこし、有衣の荷物も持ってくれることになった。
途中で寄るスーパーでも、有衣はベンチに座って待ち、譲がメモを持って買い物をした。
ようやく家につくと、玄関先で有衣は晴基と荷物をそれぞれ受け取る。
晴基をベッドに寝かせ、もう一度玄関に戻って譲に声をかける。
「ほんと助かった。ありがとね」
「それはいいけど。ほんとに大丈夫か? ハルパパにメールとかした?」
「大丈夫。…直輝さんには、言ってないよ。てか、今は言えないし」
「なんか、そういうのって変じゃね? 付き合ってんのに遠慮とか。だいたい、高校生なのがそんなに悪ぃことかよ」
「うん…。でも、ほんとに大丈夫だから。今日は、ありがとう」
譲の言うことも、尤もだ。
内心同調したいと思う面もある有衣だったが、はっきりとは言わずに笑って済ませる。
何を言っても仕方ないと思ったのか、譲はもうそれ以上は何も言わず、お大事に、とだけ言って帰っていった。
年齢のことは、直輝の気が済むのを待つしかないのだと、有衣は思っていた。
それに下手にこちらから何かを言って、本当に離れて行ってしまうことになったら、と思うと怖かった。
譲がエントランスを出ると、ちょうど直輝がタクシーから降りる姿が見えた。
直輝も譲の姿に気づき、驚いたような顔をした。
「こんにちは」
「こんにちは。…どうか、しました?」
「いえ、ハルが寝てしまってて、彼女も具合が悪そうだったので、付き添ってきました」
「そう、ですか」
譲は、直輝が自分を見るその視線の中に、はっきりと嫉妬のような敵愾心のようなものを感じ取っていた。
それは以前から感じていたものだが、今日はさらに強い。
そんなに有衣を思っているなら、どうして有衣にあれほど悩ませたままでいるのか、逆に不思議だ。
強がる有衣は見ていて痛々しいほどで、それを間近に見る譲としては、何とかしてやりたかった。
「ひとつ、お尋ねしたいことがあるんですが。…彼女の、友人として」
直輝を煽ることも忘れない。
案の定、最後の言葉に直輝はぴくりと反応した。
「何でしょう」
「高校生だと、何が悪いんですか」
譲の問いに、直輝はぎょっとしたように譲を見つめる。
つい最近まで自分も知らなかったのに、なぜ譲は知っているのだろう。
有衣の“譲くん”と呼んでいた声が、耳元でちらついた。
「…なんで知ってるんだ、って思いました?」
図星を突かれた直輝は、黙ったまま譲の次の言葉を待つ。
「俺、彼女の後輩なんですよ」
「後輩…じゃあ、君も、高校生なのか?」
「制服着てなければわからないでしょう。でも、中身は同じだ。
あなたにとっての彼女も、そうじゃないんですか。
今日、俺が勝手にここに来たのは、悪かったとは思ってます。
けど、あなたが彼女に距離を置くようなことをしてなかったら、間違いなくあなたを頼りたかったと思いますけど。
…生意気言ってすみません。じゃあ、失礼します」
直輝は、何も言えないまま譲の後ろ姿を見送る。
譲の言葉は、的を射ているだけに直輝の胸に突き刺さった。
慧に、有衣が具合が悪いらしいと聞いて、急いで早退して戻ってきたのだが、人伝の情報に胸が苦しかった。
有衣が自分を頼れない状況を作り上げたのは、自分自身であると直輝もよくわかっている。
直輝は、自身を叱咤し、エントランスへ足を急がせた。
まだ、夕食の準備を始めるには早い時間だった。
買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、有衣は先に掃除をしようと思い立ったが、まず着替えることにする。
鞄に手を伸ばそうとした時、視界の中でチカチカと白っぽい星が瞬くのを感じた。
まずい、倒れる前兆だ。
とにかくしゃがみ込もうとローテーブルに手をついたが、置いてあった写真立てに手が当たって落ちてしまった。
どうにかやり過ごして、落ちた写真立てに目をやると、ストッパが外れ、中の写真が外に出てしまっている。
直輝の亡くなった妻と、まだ生まれたばかりの晴基が映っているものだ。
その写真を手に取り、有衣はぼんやりと眺める。
ここにこの写真と、直輝とふたりで写っている写真があるのは、有衣もだいぶ前から知っていた。
だがいつからか、まともに見ることができなくなって、掃除の時も見ないようにしていた。
多分、直輝を好きになってしまった頃からだろう。
視線が恐ろしかったのかもしれない。
この、儚げな、綺麗なひとには、絶対に勝てないと思うから。
想いに優劣をつけるのは愚かだと知ってはいても、どうしても、その思いは抜けなかった。
何の気もなしにしたことだった。
有衣は、写真をただ元の位置に戻そうと、写真立てに入れようとしただけだった。
そのとき、写真の裏側に文字が書いてあるのが見えた。
“Hospital, Yui & Haruki”
「ゆ、い…?」
衝撃だった。
そして瞬時に、ここで直輝に初めて会った日のことが思い出された。
晴基に名前を教えていた時の、派手な食器の音、直輝の驚愕の表情、そして妙な質問。
同じ、名前だったのだ。
だから、名前の漢字まで聞いてきたのだ。
「唯一のゆい…。唯…」
単なる漢字の説明なのに、“唯一”という単語がひどく重たく感じられる。
有衣は、もうひとつ思い出してしまったことに、眩暈を感じた。
直輝は、有衣が晴基の母親に代ることが、願望だったと言ったのだ。
それはただ単に代わるものになることだったのだろうか。
本当は、同じ名前の有衣に、身代わりになってほしかったのではないだろうか。
だが、有衣が高校生だと知って、それはあまりにも不自然だと思って、それで急に距離を開けたのだろうか。
そう考えると、全ての辻褄が合ってしまうような気がして、有衣はショックのあまり茫然とした。
「ま、まさか…」
必死にその考えを打ち消そうと、できるだけ静かに写真を元の位置に戻す。
しかし一度考え出してしまったものはなかなか消えてくれない。
それどころか、正解はそれしか無いようにさえ思えてくる。
落ち着きを取り戻そうと、キッチンから水を取ってきたが、頭がくらくらして足取りがおぼつかない。
急に嫌な汗が吹き出し、視界がだんだんと白く覆われ出した。
このままだと倒れてしまう、と有衣は焦り、手に持ったグラスをどこかに置こうとした。
が、有衣の意識はそこまでしか保たれなかった。
手から滑り落ちたグラスは床に落ちて割れ、有衣はその上に倒れ込んだ。
譲からのパンチもあり、直輝も吹っ切れそうですね。
でも有衣は名前のことを知ってしまいました><
直輝、がんばりどころです!