19
手の中の携帯が震え、メールの着信を知らせる。
休憩時間になると、直輝はいつものように屋上に上がったが、メールを打つことができないでいた。
文章を入力してみては消し、の繰り返しで、結局送れないままだ。
有衣はまた、直輝が忙しくて休憩を取れないと勘違いしたらしく、適当なメールを送ってきている。
順番にメールを開きながら、直輝は慧との会話を思い出した。
あの時思わず、無理だと言ってしまった。
だが口に出した瞬間、直輝は何とも言えない苦い気持ちに襲われた。
直輝の中では、理性が承認を出す一方で、感情は猛烈に抗議していた。
無理だと言ったところで、本当に手放せるだろうか。
それこそ、無理ではないのか。
いや、それよりも、本心を言えば手放したくなどないのだ。
身動きの取れなくなった直輝を見て、慧はやれやれと溜息をついた。
直輝がここまで苦しむこと自体、直輝の気持ちが既に固まっていることの証しだろう、と慧は思う。
「ったく、あんまり真面目なのも、考えもんだな。お前が俺なら、若くてかわいくてラッキー、で済む話なのに」
おどけたように言う慧を、直輝は軽く睨みつけた。
だが慧は直輝の性格をよく知っているし、本当はかなり同情と心配をしてくれている、とわかっている。
「俺からすれば、お前も正解はもうわかってて、あとはどう折り合いつけるか、ってことだろう」
慧の言葉は、間違っていない。
確かに、どう足掻いたところで、結局のところ有衣を手放せないことは、直輝もわかっている。
実際、有衣がいない生活など、もう想像することさえ困難なのだ。
ただ、今はまだ直輝の中で整理が付かない。
考えるのに疲れた直輝は、少しだけ脱線して気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、名前といい年といい…なんで知ってたんだ」
「あー、成り行き上」
「それは、前も聞いた。その成り行きが、気になる」
「…あの子の幼馴染みってのに、会った」
直輝の中に、すぐにみどりの名前が思い浮かぶ。
「もしかして、みどりちゃん、か?」
「お、なんだ、知ってんのか」
「名前だけ」
「もともとお前に会いに来たんだ。お前に早退させて俺が外来代わってた日」
そう聞いて、直輝はぎょっとした。
深夜に何度も電話をかけてきた相手だ。
病院にまで来たとは驚いたが、それも納得する。
しかしもし実際にそのとき対面していたとしたら、一体どんな事態になっていたのか、と想像すると恐ろしい。
おそらく有衣のためなら何でもするような、そんな子なのだろう。
一度も会ったことはないが、直輝はなぜかみどりに恨まれているような気さえして、妙な気分になった。
微妙な表情を浮かべる直輝に、慧はあっけらかんと言い放つ。
「心配しなくても、そっちは俺がどうにかするけど」
「…は?」
直輝は、慧の言葉のどこに反応すべきか迷う。
だが後半部分は些か問題ではないか、と思い慧を見ると、少しだけ癖のある笑顔を浮かべていた。
その表情で、なんとなくだが事情を察しかけて直輝は溜息をつく。
「お前の性格が、今だけ羨ましいかもしれない」
直輝の複雑極まりない心情を察した慧は、軽く噴き出した。
また携帯が震えた。
ぼんやりとしていた直輝は、携帯に目を落とす。
『仕方ないんですけど。直輝さんとメールできないと、ちょっとだけさみしいです』
時計を見れば、もうすぐ13時15分になろうとしており、有衣の昼休みの時間はもう終わる。
日中メールできるのは、昼のこの時間帯のみなだけに、素直な有衣の言葉は、真っ直ぐに直輝の胸を衝いた。
生じる小さな切ない痛みが、どうしようもなくいとしい存在なのだと、訴え続ける。
『ごめんね。午後の授業も、がんばって』
やっとのことで、こんなつまらない文章だけ送った。
授業、と打つところで、何度も指が止まりかけたが、なんとか堪えた。
慧のように、常識に囚われない見方をすぐにできない自分が、疎ましかった。
答えがわかっているのに、そうできないことが、もどかしい。
今日も今日とて制服姿で働いている有衣を横目で見ながら、直輝はこっそり溜息をついた。
なんとか免疫が付いたのか、ここ数日で最初の日よりは自然な振る舞いができているのではないかと思う。
しかし、これから後、有衣が帰るまでのふたりの時間は、そうもいかない。
だが今日は運が味方をした、ように見える。
有衣が、今日は早めに帰ると言ったのだ。
残念に思う面もあったが、どちらかというとほっとした気持ちのほうが大きかった。
「直輝さん、やっぱり疲れてるみたいです。顔色悪いし…」
最近寝不足で、しかも悩んでもいたから、当然だろう。
自覚のあった直輝は曖昧に笑いながら、早く帰ろうと思わせたことに、ちくりと良心が痛んだ。
「…ごめんね」
「いいんです。今日は、ゆっくり休んでくださいね」
いつもよりも大分早い時間。
タクシーの到着時間に合わせて、玄関までいつものように見送る。
直輝は今日も、儀式のようにキスを待つ有衣の、額にひとつだけキスを落とした。
ドアが閉まると、直輝にかけた明るい声とは対照的に、有衣は足取り重く歩き出した。
エレベータに乗りこみ、景色がだんだんと下がっていくにつれ、光がじんわりと滲んで見えてくる。
ここ数日間、直輝の態度は、相変わらずおかしかった。
今日はわざと試しに、早めに帰ると言ってみただけだったのに、明らかにほっとしたように見えた。
それに加えて最近ずっと続いている、ぎこちない手繋ぎに、躊躇いがちに額に落とされる最後のキス。
疲れているのではなくて、まるで、一緒にいたくないみたいだった。
ぎゅっと目を瞑ると、有衣の目からぽろりと涙がこぼれる。
エントランスを出てタクシーを見つけると、有衣は慌てて目元を拭った。
窓の外を流れる景色を見ながら、有衣は考えていた。
直輝がおかしいのは、学校の帰りが遅くなったあの日からだ。
その日、直輝が帰ってきたときの、有衣を見て、硬直したあの顔、泳いだ目。
それから、触れるのにいちいち躊躇いを見せるようになった。
何が原因だろう。
いつもと違ったのは、何だっただろうか。
そこで、有衣ははたと気づいた。
「制服…?」
確かに、今まで直輝と会うときにはいつも普通の服だったから、制服で会ったのはその日が初めてだった。
隠していたつもりはないけれど、直輝は自分が高校生だとは知らなかったのかもしれない。
そういえば、何年生か、聞かれた。
そして、その日から今日までずっと、有衣は学校から直接制服のまま来ている。
そこで有衣はようやく、自分が直輝から子どもだと思われたのだ、ということに気づいた。
自分ではどうしようもないことで、直輝が離れて行ってしまうような気がして、有衣は茫然とした。
お決まりのように、有衣はみどりの部屋へ行く。
だが今日のみどりは、いつもと様子が少し違って、どこか苛々しているように見えた。
「なんか、あったの?」
「…あったには、あったけど。ありえないから、無視。
それより、なんかあったのは有衣のほうでしょ? またあの男に何かされたの」
有衣は、いつになく刺々しい雰囲気のみどりに首を傾げたが、言いたくなさそうだったのでそのままにする。
「何にもされない」
「はぁ?」
「…高校生だと、ダメなのかな」
「どういうこと?」
最近の一連のできごとをみどりに話すと、みどりは考え込んでしまった。
「まあ、確かにうちらは子どもだね、あの人からすれば」
「うん…」
「でも、別れようとかは言われてないんでしょ?」
「言われてないけど。や、やだよそんなの…」
「あ、ごめんごめん。確認しただけだよ、泣かないでよ」
「う…ごめん」
考えただけでも、泣けてしまうのは、本当に本当に、好きになり過ぎているからだ。
以前の片思いをしていた自分だったら、ここまでじゃなかったかもしれない。
でも今はもう、あの温かさと優しさと甘さを知ってしまったから。
直輝と離れることなど、今さらもうできないと有衣は思った。
「きっとさあ、真面目な人なんじゃない?」
「真面目?」
「何にも言ってくれないで態度おかしくなるのもどうかとは思うけど。
高校生だったなんて知って、びっくりしたとか、不安になったとか、そんなんじゃないのかな」
「不安、なんてなるのかな」
「普通なるでしょ。だって一歩間違えたら犯罪じゃん」
「は、犯罪って、私もう18だし、しかも同意なのに」
「関係無いよ。未成年だと親が訴えたらアウトだし」
「清香さんはそんなことしないよ」
「いや、例えばの話だって。そういう微妙な問題もあるから、気にしてる可能性もある、ってこと」
「みどり、良く知ってるね」
「…まぁ、ちょっと必要に迫られてね。
でも、そうやって悩んでるってことはさ、裏を返せば有衣がそれだけ大事、ってことじゃない?
だから有衣もそう思って、もう少し様子見てみたらどうかなぁ」
なんとなく、釈然としないものを残しつつ、有衣はとりあえずみどりの言葉を受け入れた。
こんなことになるなら、制服なんて着て行かなければ良かった、と思う。
でも今さらどうにもならないし、たとえ制服を着ていなくても年齢は変わらないのだ。
みどりの言葉通り、もしも“大事”の裏返しなら、それはそれで嬉しいと思う。
だが、いつまで直輝とぎくしゃくした時間を過ごさなければならないのだろう、と思うと憂鬱になった。
直輝しっかりしろ(笑)状態です。
慧を羨ましいとか思っている場合じゃありません^^;
有衣もついに直輝の挙動不審の原因に気づきました。
でもほんとに、自分じゃどうしようもないことで距離置かれたら、哀しくなりますよね。
慧とみどりの関係は、別の話で書きますが、
ちょっとこっちと時期がリンクしてるので、どうしても出てきてしまいます。
そっちはもう少しだけお待ちくださいね。