17
有衣は走っていた。
もう日も落ちて、辺りはかなり暗くなっている。
いつも晴基を迎えに行く時間よりも、1時間ほど遅い。
ようやく門にたどり着きボタンを押すと、譲ののんきな声が聞こえてきた。
「遅かったねぇ。今連れて行くよ」
学校を出てくるとき、譲の姿を見かけていたから、譲も有衣を見たのだろう。
ここよりも有衣の家のほうが学校からかなり近いのだが、家からここまでの距離と合わせればそう変わらない。
しかも制服を着替えた時間分ロスした、と有衣は着替えてから来たことを後悔した。
今、有衣の学校は学園祭前の準備でかなり忙しくなっている。
有衣のクラスは、俗に言う“コスプレ喫茶”をすることになっていた。
と言っても、風紀にあまり緩くない学校であるため、きわどいものは無い。
スクール系の服、メイド服、ナース服、和服といった露出の少ない無難なものでまとめられている。
低予算のため、着る服は自分たちで用意する、という無茶な要求が出されており、放課後が忙しい。
和服は親に、学ランは男子に、ブレザー系の制服は他校生に借りれば済む。
だが他の服は有衣を含めた裁縫の得意な女子たちで、目下制作中なのである。
「有衣ちゃん?」
かなり近くで直輝に名前を呼ばれ、有衣ははっと意識を戻した。
同時に、肉の焦げ付いたにおいが鼻をつき、顔を顰める。
「ぅ、わっ! す、すみません!」
慌てて火を止め、フライパンをコンロから下ろす。
煙すら立てているフライパンの中身―元はハンバーグだった―は、底に接していた面が黒く焦げ付いていた。
「あ、あぁ…」
意味もなく、情けない声が有衣の口から出ていく。
挽き肉は使いきってしまったため、タネはもう無いのだ、どうしようもない。
毎日使うものだけを買うため、冷蔵庫にも野菜はあるがメインとなる食材は無いに等しい。
何が代りに作れるだろうか、と有衣は考えたが、何もなさそうだという結論に達してうなだれる。
有衣のあまりにも情けなさそうな顔に、直輝は思わず軽く吹き出してしまう。
「大丈夫だよ。上半分は食べられそうだし」
「すみません…」
有衣はなんとか上半分を切って盛り付けると、その後はフライパンの後処理に奮闘した。
半分だけのハンバーグを食べながら、有衣はどうも、かなり疲れているらしい、と直輝は思った。
有衣がぼーっとするところは今までにあまり見たことがなかったし、家事で失敗したのも初めて見た。
毎晩遅くまで拘束していることを自覚してはいるため、こっそり溜息をつく。
とりあえず、今晩だけでも少し早めに帰してあげたほうがよさそうだ。
そう思いながら、今晩だけか、と自分でツッコミをしつつ、本当に溺れているようだと我ながら苦く笑う。
食べ終わった頃、フライパンをきれいにし終えたらしい有衣が、テーブルに近づいてお茶を入れてくれた。
「なんだか、疲れてるみたいだね」
「あ、ちょっとだけ…。今日の夕食はほんと、ごめんなさい」
「それはいいから。今日は、ちょっと早めに帰って、ゆっくり休んだほうがいい」
「え…」
途端に、有衣の顔は不安げな表情を浮かべる。
それを見て直輝は、今の言い方は早く帰って欲しいと言ったようでまずかった、と焦った。
そっと有衣の腕を掴み、直輝は膝の上に有衣を座らせる。
「ほんとは、帰ってほしくないけどね。疲れてるようだから、心配なんだよ。…わかる?」
言い聞かせるようにゆっくりと言うと、有衣はようやく頭を縦に振る。
腕の中の有衣はおとなしい。
有衣はいつもこうだ。
ほんの少しの接触でも照れたように頬を染め、口数が極端に減る。
緊張がこちらまで伝わるのだが、それでも嫌がっているわけではなく、おとなしくされるがままにする。
もしかすると、恋愛経験が極端に少ないのかもしれない、と思う。
タクシーを呼んで待っている間、直輝は有衣に小さなキスを繰り返していた。
そして時間が来ると、玄関まで手をつないで歩き、最後にひとつキスをして、別れる。
ドアが閉まると、直輝は腕の中の軽い喪失感に溜息を漏らした。
タクシーの中で、有衣はまだ熱い頬を押さえていた。
まだ、直輝の感触が残っているような気がして、動悸が納まらない。
触れられるのは、もちろん嫌ではない。
ただ、まだ慣れていないだけだ。
今まで過ごしていた直輝との穏やかな時間に、少しだけ恋人としての時間が加わったことに。
それでも、嬉しくて満ち足りた気持ちになるのは間違いない。
家に着くまでの間、有衣はぼんやりと直輝とのことを頭の中で反芻した。
翌日も、有衣は忙しさに追われ、気づいた時には既に外は暗くなっていた。
時計を見ると、あと数分で6時半になるところで、昨日より遅い、と有衣はぎょっとする。
今手がけていたものは、あともう少しで完成するのだが、晴基をこれ以上待たせるわけにはいかない。
有衣は作業をそこで切り上げ、急いで帰り支度をした。
「ごめん、先帰るね」
「んー明日ねー」
作業中の子たちは、顔を上げず挨拶だけくれる。
その脇を走り抜け、昇降口まで駆け下りて行った。
今日は、もう着替えに戻る時間も無い。
有衣は清香さんに連絡メールを打つと、大きな荷物を抱えたまま、いつもとは別の方向へ駆け出した。
「あれ、制服だ」
晴基を連れて出てきた譲が、驚いたように言う。
譲はといえば、とうに着替えたようで、いつもの“武先生スタイル”になっている。
「遅くなっちゃって。直接来たの」
「あーなんか大変らしいって聞いた。自分たちで衣装作ってんだってね」
「しばらく遅くなっちゃいそう」
「まぁ、うちは大丈夫だけど。ハルは寂しいよな」
「ゆいちゃん、おそいの」
「ごめんね。できるだけ、急いでくるからね」
晴基は、うん、と頷きながらも、繋いでいないほうの手でスカートをぎゅっと握っている。
かわいそうになってしまい、空いている手で頭を撫でてあげた。
「やっぱ、変な感じ」
「え? 何が?」
「学校で会うときは普通だけど。制服着てハルママしてんの、ちょっと違和感」
「…変?」
「いや、慣れないだけ」
「ゆいちゃん、かわいいおようふくだね」
「あっ!」
有衣はかわいく褒めてくれた晴基に頬笑み、焦ったように声を上げた譲をじろりと睨みつけた。
また例のイロゴトレクチャーをしてくれたらしい。
今度は多分、女の子が新しい服を着てきたら何たら、というものに違いない。
だから晴基は、見たことの無い制服を見て、かわいいと言ったのだ。
「譲くんさ、ハルくんに変なこと教えるのやめてよね」
「別に変なことじゃねぇって」
「おとこの、た、たいなみ!」
「嗜み」
「たし、なみ」
「ちょっと! 保育園で教えることじゃないでしょ、それ」
「あのね、たけせんせいは、ものしりなんだよ」
慌てる有衣の脇で、晴基は譲を尊敬のまなざしで見上げている。
こりゃダメだと有衣は諦め、譲に手を振ると、晴基の手を引いて歩き出した。
そういえば、制服で来たのは初めてだ。
晴基が見たことが無いのだから、つまり直輝も見たことが無いということだ。
そう考えると、有衣はなんとなく気恥ずかしいような気がする。
そして、いつも来るスーパーの入口に来て、入ろうとしたが躊躇してしまった。
ここでは晴基と有衣は親子として誤った認識が定着している。
そんな場所に制服で入ってしまったら、変に思われるだろうか、と急に心配になったのだ。
「ゆいちゃん?」
「あ、何でも無いよ。行こうか」
思いきって入ると、いつもと時間帯が違うせいか、いつもの店員はいなかった。
思わずほっとした自分に気づき、有衣は慌てる。
結局のところ、心の中の願望は、変わっていないのだとわかってしまったからだ。
何とか頭の中から振り払おうと、有衣はいつも以上にてきぱきと買い物した。
玄関に入った直輝は、見慣れない靴に首を傾げた。
今まで有衣が履いていたのは、ブーツやスニーカなどが多かったのだが、今日はローファーが置いてある。
ローファーなんて、周囲で見なくなって久しい。
もしかするとローファーを履くファッションが、今頃流行っているのかもしれないし。
もともと世間に疎くなっている自分にはよくわからない、と直輝が軽く笑ったとき有衣の気配がした。
「おかえりなさい」
「ただい、ま……」
顔を上げて言いかけた言葉は、途中でいったん途切れ、不自然な間が入ってしまった。
呆気に取られ、身動きできないまま有衣に鞄を引き受けられる。
「お風呂準備できてますよ」
「あ、…ありがとう」
いつものように柔らかな笑顔をくれてから、有衣はリビングのほうへ歩き出した。
強烈な違和感。
直輝は、無意識に後ずさりして、背中をドアにぶつけた。
もう一度、ローファーに目を向ける。
「制、服…」
目にしたものが信じられず、直輝は一瞬、“コスプレ”という言葉を思い浮かべた。
しかし結局、ひどい現実逃避だ、と頭を振る。
目にしたものは、確かに現実だ。
薄いクリーム色の生地に紺の襟、白いライン、紺のリボンタイ、濃紺のボックススカート、紺のハイソックス。
そして、中襟にあった校章とポケットに付いていた名札が証明していた。
有衣は、高校生だ。
その事実に、直輝は思わず両目をきつく瞑り、右手を口に当て、呻くように息を吐き出す。
しまい込んであった慧の言葉が甦り、頭の中で何度も響いていた。
直輝、ショッキング!
というわけで、新たな問題発生です。
直輝は一応、常識人なので、これは意外と衝撃大だと思われます。
まさか高校生相手に恋愛をしていたとは思わなかったんですね。
前半のあまあま具合から、急激に暗雲が立ち込めました。
またまた波紋(?)の展開へ突入です!
いざ♪ (楽しんでいる私…^^;)