16
最後の患者を見送り、直輝は座ったまま両腕を斜め後ろに大きく伸ばす。
今日はこの後カンファレンスも入っていないし、いつもより少しだけ早く帰れそうだ。
直輝は、いそいそと引き出しから電源の入っていない携帯を取り出すと、立ちあがって出て行こうとした。
が、またしても冷気を纏った白井が立っている。
「…今日は、ミスは無かった、と思うんだけど」
年下の看護士に言う言葉としては、かなり情けないと思ったが、如何せん相手は白井である。
強気に出たところで、口で敵えるとも思えない。
「大有りです。しかも今日だけじゃないですよ。…その顔!」
「え、顔?」
「ずーっと笑顔、ってどうなんですか。病状聞く時くらいマジメな顔してください」
「あ、ごめんね」
「だから毎回、私に謝られても…。いえですから、先生先週からまた変ですよね。
なんていうか、以前のウキウキ具合の比じゃないです。むしろ逆に怖いぐらいなんですけど」
「そうかな? 実はね」
「あ、お話は結構ですよ。これ以上顔が戻らなくなると困りますから。じゃ、お疲れ様です」
言いたいことだけ言って、さっと身を翻して歩き出した白井に、直輝は開きかけていた口を斜めに歪めた。
実を言うと、直輝は白井に有衣のことについてかなり話してしまいたかった。
特に意味はなく、ただ単に話してみたかった。
正直なところ、直輝には気が置けない友人が少ない、というよりも現在ほぼいないに等しい。
と言っても、直輝の人柄に問題があるというわけではなく、成り行き上そうなってしまっただけのことである。
学生時代は、唯と慧に加え、サークルの仲間たちも周りにいた。
しかし卒業後大学病院に勤めるようになってからは、医局内での摩擦に疲弊し、友人関係を諦めた。
そこで、直輝のすぐ近くの友人といえば、また唯と慧のみとなった。
そのうち唯と結婚した後は、慧は親族となったため、友人と呼べる関係の人間はいなくなってしまったのだ。
その上、唯が体調を崩した後は唯と晴基にかかりきりになり、たとえ望まれても付き合えなくなった。
だから今のところ、有衣のことについて話せたのは、つまり慧だけなのだ。
悲しいかな上下関係が成り立っていない白井になら、友人とまではいかなくても話せそうな気がしたのだが。
ばっさり斬られてしまった。
直輝は、ここまで浮かれている自分が、自分自身でも確かに相当に意外ではあった。
唯を亡くした後凍結していた感情が、有衣によって融かされたその反動は、思ったより大きいらしい。
そもそも顔がミスだ、という白井の言葉を思い出し、直輝は自分の頬を両手で擦ってみる。
だが効果はそれほど無く、表情は浮かれたまま、直輝の足はロッカールームへと急いだ。
急いで外へ出ると、ようやく携帯の電源を入れる。
午前中はかなり患者が多く、昼の休憩はほとんど無いに等しかった。
おかげで今日は病院に入ってから一度も電源を入れられなかった。
いつもなら休憩時にメールのやり取りをできるのだが、そういうわけで今日はまだ有衣のメールを見ていない。
送ってくれていることが前提なんて、傲慢だろうか。
一瞬そう思ったが、溜まっていたメールがすぐに受信を始め、そんな思いはすぐに消えた。
『お昼休みです。屋上でお弁当です。直輝さんも屋上でしょう?』
建物の中は携帯の電源を入れられないため、直輝は最近ずっと屋上で休憩時間を過ごしている。
肌寒くなってきたから無理しないでもいい、と有衣は言うがそうではなく、直輝が我慢できないのだ。
メールのやり取りが日常に組み込まれた今、空いている時間ができると携帯をいじりたくなる。
だから、どうせ電源は入れられないにも関わらず、デスクの中に閉まっておくのだ。
いちいちロッカールームに行かずに済むように、空いた時間にすぐに持って外に行けるように。
しかし直輝が屋上に出るのを止めないと知ると、今度は有衣までもが屋上に出るようになってしまった。
なんとなく同じことをしていると嬉しいから、と言われた時には思わずむぎゅっと抱きしめずにいられなかった。
あぁ、思い出しただけで顔が緩む。
白井がここにいたら、先週からずっと緩みっぱなしです、とか冷たく言われるに違いない。
冷たい視線を思い出して身を竦め、直輝は次のメールを開く。
『直輝さん、忙しいみたいですね。今日は空がキレイですよ』
今度のメールには添付ファイルがあり、開いてみると有衣が撮ったらしい空の画像だった。
雲のほとんどない、真っ青な空だ。
外に出られないと思って、送ってくれたらしい。
とうに日は暮れ、ネオンの光が煌々とする時間に、昼間の空を見られるとは思わなかった。
有衣はやはり、心をあたたかくほっとさせるのに長けている。
『あーやっと一日終わりましたぁ。これから一度帰って、ハルくんを迎えに行きます』
直輝はここで、おやと思った。
直輝の知らない有衣の別の生活が、垣間見えたような気がしたからだ。
今日は直輝からの返信が無かったため、有衣が好きな内容で一方的にメールを送ってきている。
そのせいか、今まで送って来たことの無い、このような行動パターンを送ってきたらしい。
直輝ははたと、有衣が日中何をしていて夕方にやっと終わったのか、どこへ帰るのか、知らないことに気づく。
そういえば、有衣は直輝のことを家の中まで知っているが、直輝は有衣のことをほとんど知らない。
それどころか、知らないことのほうが圧倒的に多い、と気づいて直輝はしばらく立ち竦んでしまった。
「大丈夫か?」
急に後ろから声をかけられ、直輝が驚いて顔を上げると、慧が立っている。
「いつから…」
「いや、さっきから。携帯見ながら百面相やってるからどうしたものかと」
見られていたと思うと、直輝は軽く狼狽する。
慧も妙も、有衣のことで何かとアドバイスをくれるが、まだ完全に遠慮が抜けきったわけではなかった。
有衣からのメールだと言ったわけではないが、慧のことだ、気づいているに違いない。
「また何かあったのか」
「いや…」
「…遠慮は抜きでな」
慧の、念を押すような声色に、直輝は苦笑した。
やはり、何もかも見通されているようだ、慧には隠し事は通用しない、と改めて思う。
「特に、何かあったわけじゃないんだ。
ただまあ、気づいてみると、あの子のことを全然知らない自分がいて、ちょっと考え物だなと」
「たとえば?」
「昼間何やってるのか、とか。家はどこか、とか。そういうこと」
「昼間、って……」
慧は口の中で小さく呟いたが、すぐに言葉を切った。
呟いた声は小さすぎて、直輝の耳には届かなかったようだ。
慧は、その事実に安堵する。
直輝が知らないことを、自分が知っているということを気取られてはならない。
それにしても、と慧は内心で大きな溜息をつく。
直輝は、本当に何も知らないらしい。
今のふたりは完全に、想いだけが先行している関係になってしまっている、ということだ。
この分では、当然有衣も知らないことが多いのではないか、と慧は心配になる。
「ひとつ聞いてもいいか」
「何だ?」
「あの子は、名前のことを知ってるのか」
「名前?」
直輝は、まさかと内心ぎくりとしたが、平静を装うふりをして鸚鵡返しに聞いた。
晴基の運動会の時、慧と妙に対し、直輝は有衣のことをただ“川名さん”とだけ紹介していた。
自分が最初に受けた衝撃を覚えていたので、特に妙を気遣って名前をわざと言わなかった。
それにどうしてか晴基も、あの日はいつもの“ゆいちゃん”という呼び名を使わなかった。
恐らくあの日は、“ママになってもらう日”だったからだと、直輝は予想している。
直輝自身も、名前を呼ばないように注意もしていた。
だから、慧が有衣の名前を聞いていたとは思えなかったのだが。
「…唯と、同じ名前だってことを、知ってるのか」
「どうして…、お前は知ってるんだ」
「質問を質問で返すなよ。…俺は、まあなんだ、成り行き上な。それで、どうなんだ?」
「俺は言っていないから、知らないはずだ」
「もし知ったら、どうなると思う?」
「どうって…」
多分、自分が感じたのと同じようなショックを受けるだろう、とは思った。
だが慧がこうまでして聞いてくる意図が、正直よくわからない。
「同じ名前だから付き合った、と思われる可能性は考えたのか」
「俺はそんなんじゃ」
「お前はそうだとしても。女はそういうの過敏だろ」
直輝は、何も言い返せなかった。
よく考えれば十分にあり得る話なのだが、そんなことは、深く考えたことが無かった。
黙り込んだ直輝に、慧は思いやるような視線を向ける。
「いずれにしろ、お前たちはもう少しいろいろ話し合ったほうがいい。
あの子にしろ、お前にしろ、思ってもいなかったことを思いもよらない時に知るのは、よくないだろう」
「…そうだな」
「ま、追々がんばれよ」
慧は、直輝の肩を軽く叩くと駐車場へ向かって歩き出した。
直輝はしばらく放心していたが、携帯に目を戻して残りのメールを読むと、肩の力が抜ける。
『今日の夕食は、ふわとろお好み焼きです! 早く帰ってきてくださいね^^』
今度は晴基が口の周りを汚しながらおいしそうに頬張っている画像が添付されている。
直輝は思わず笑みをこぼし、慧の言葉を胸の隅に無理矢理しまい込み、タクシープールへ歩き出した。
直輝もかなりの浮かれようです^^;
ちなみに病院支給のPHSは、Eメール機能は付いていないため、
業務中の有衣とのメールのやり取りはできないのであります。
多分真冬になっても屋上に行くと思われます(笑)。
しかし、今のところ直輝よりも情報を持っている慧は心配そう…。
確かにこのふたり、いつも一緒にいる割にお互いのこと知らなすぎなのです。
今後、その辺りを書いていきたいと思います。