13
晴基が園長先生と話しているのを見つけ有衣が声をかけようとしたところ、背中から声がかかる。
振り向くと、運動会仕様でジャージ姿の譲がおり、有衣は思わずほっと息をつく。
譲とはあれ以来、ときどき学校の屋上で会って話したり相談したりする仲になっていた。
友情というよりは、晴基を軸にして、保護者と相談役のような関係で落ち着いている。
「来れてよかったな」
「うん。みんなすごくかわいいし、見てて楽しい」
「そうだろ?」
子どもたちがかわいくて仕方がない、そんな顔で譲は笑い、つられて有衣も笑った。
「そういえば譲くん、午前中見なかったね」
「あぁ、俺は午前は中で0歳児のお守。午後からは俺も出るよ」
「そっか。午後は大人の参加率高いもんね」
そんな会話を交わした後、譲は別のスタッフに呼ばれたため、手を振って去っていく。
有衣は譲と顔を合わせて、少し落ち着いた気持ちになり、自然と顔の強張りも解けていた。
午前中は、園児たちの姿を見て勿論楽しんだが、直輝に近しい人と一緒にいるのは居心地が悪かったのだ。
良い人だというのは伝わってきたが、直輝の亡くなった妻の親戚だと思うと、やはり気が重かった。
何でもない会話を交わすことで、有衣の気分は晴れ、譲に心の中で感謝する。
有衣のすぐ後ろに近づいてきていた直輝は、軽い、いやかなりの衝撃を受けていた。
武先生と話す有衣の表情は多分今日見た中で最も明るく、声も弾んでいた。
自分の前ではいつも敬語の有衣が、“先生”にもかかわらず武先生を相手に、敬語を使わないと知った。
その態度には、自分の知らない有衣の“素”が表れていたような気がする。
そして、“譲くん”と呼ぶ声に親しみを感じて、直輝は目の奥が真っ赤に染まった気がした。
この感情は、現状では理不尽なものだ。
そうわかっているからこそ、直輝は余計に複雑な感情が渦巻くのを感じた。
その時だった。
「ゆいちゃん!」
大きな声で呼ばれ、小さな衝突の衝撃が有衣の足に走る。
驚いて足元を見ると、晴基が有衣の足に抱きついていた。
「ハルくん…?」
「ゆいちゃんが、ママだもん。おべんとも、あるもん…」
つっかえつっかえの言葉に晴基の顔を覗きこむと、晴基は涙目になっている。
晴基が人前で有衣のことを実際に口に出して“ママ”だと主張したのは、初めてのことだった。
人が勝手に誤解するか、あるいは有衣が単に“ママ”のように行動するだけで、今までは済んでいたからだ。
有衣が、晴基が話していた園長先生のほうに目を向けると、園長先生も有衣を困惑気に見ていた。
園長先生は、有衣が西岡家のハウスキーパであることを知っているのだ。
「あの…」
「いえ、あの…そうじゃ、ないんですけど」
有衣が慌てて、しどろもどろになりながら返事をしたとき、靴底が砂を踏む、じゃり、という音が間近で聞こえた。
はっと後ろを振り返ると、直輝が立っているのが見え、有衣は顔色を失くす。
晴基の声は大きかったし、この距離では、今の会話は聞かれてしまっただろう。
またこの間の晩の繰返しになる、と有衣は怯えた。
直輝も、晴基の声は聞こえていた。
以前に感じた恐れや怒りのような感情は無く、ただ有衣の反応が気になる。
しかし振り返った有衣が、直輝を認めた瞬間怯えの混じった表情を浮かべたのを見て、直輝は息が詰まった。
あの晩のできごとが、自分の言葉が、今でも有衣に圧し掛かったままなのだと、気づかされる。
咄嗟に声を出せないでいると、園長先生が先に直輝に気づき、声をかける。
「ハルくんのお父さん、今日はお弁当はどうなさいます?」
聞かれて、初めて思いだした。
去年は、園が厚意で晴基のお弁当を用意してくれていたのだった。
今年は有衣がいることもあり、すっかりそんなことも忘れてしまっていた。
それで、晴基の言葉の意味もわかる。
園長先生が晴基にお弁当の話をしたのだろう。
有衣に“ママ”としてお弁当を作ってもらったと思っている晴基は、必死に反論した、ということだ。
内心苦笑しながら、有衣に抱きついたままの晴基の頭を撫でてやる。
「すみません。今日は用意してもらったのがあるんです」
「そうですか。それは、よかったです」
優しげにそう言うと、園長先生は中に入って行く。
心なしか体を縮めて立っている有衣に、直輝は努めて柔らかい視線を向けた。
その穏やかさに有衣はいったんほっとしたように見えたが、まだ完全に怯えと不安を拭い去れてはいない。
そんな顔をしなくて、いいのに。
直輝は、今すぐ有衣の不安や誤解を解きたくて、きちんと話しがしたいと思ったが、この状況では無理だ。
お昼の休憩時間もそれほど長いわけではないし、晴基にも食事をさせなくてはいけない。
直輝は、席に戻るために、有衣と晴基をそっと促した。
直輝の反応が予想に反していたため、有衣は安堵したが、やはり気分は優れなかった。
けれど、晴基のために、そして何も知らない慧や妙のために、有衣はどうにか笑顔を作る。
席に戻ると、晴基はわくわくとした気持ちを隠せずにいた。
「おべんと!!」
期待いっぱいの顔で有衣を見上げるそんな姿に、有衣の気持ちはほぐれ、ようやく作り笑顔を脱する。
晴基用に1人分の小さなお弁当と、大人用の大きなお弁当を作ってあった。
晴基はそれを大事そうに抱えて受け取り、お弁当のふたを開けると、目をキラキラさせて喜ぶ。
「すごいね! アンパンマン! チーズもいるね!」
「うわ、初めて見た。キャラ弁」
はしゃぐ晴基のお弁当を覗きこんだ慧は、感心したように呟く。
晴基用は、アンパンマンのおにぎりとめいけんチーズの顔を描いたコロッケがメインなのだ。
大人用も、キャラクタ物ではないが、それなりに工夫はしてあった。
直輝も慧も、そして妙も、有衣の仕事に感心し、口々にお礼を言う。
有衣と妙はやがて、料理談義で盛り上がり、お互いが内心で感じていた気まずさもそのうち消えた。
その様子を、直輝と慧は意味ありげな視線を交わしつつも、ほっとしたように見守っていた。
午後の競技は、まず親子競争から始まる。
三輪車に乗った園児と、その三輪車を後ろから押して走る親の競争だ。
日頃の運動不足がたたり、足を攣らせる親も少なくないが、実は大いに盛り上がる。
子どもの前で恰好つけたい気持ちや、親同士の密かな対抗心が大きくなるせいかもしれない。
直輝も例外ではなく、そんな姿を、有衣はいとしそうに見つめた。
直輝の前では必死に覆い隠そうとしている気持ちは、直輝が遠くにいる今、箍が外れている。
そんな有衣の様子に、慧と妙が気づかないわけはなく、ふたりは余計に直輝の鈍さを感じて苦笑を漏らした。
その後、園児たちだけの玉入れを挟み、親だけの風船割り、親子参加の綱引きで競技が終わる。
最後にまた園児たちが中央に集まって、保護者に向けてお辞儀して運動会は締めくくられた。
やがて皆が帰り始め、運動会を終えた充実感と、イベントが終わった侘しさが漂う。
門のところには、お見送りで譲を含め先生たちが列になって立っていた。
直輝の後ろを歩いていた有衣は、譲の顔を見た途端、昼のできごとを相談したくなってしまった。
有衣の表情で、何か言いたいことがあるらしいと察知した譲は、そっと列から外れて有衣の近くに寄る。
先に門を出て外からそんなふたりを見た直輝は、咄嗟に憮然とした表情になり、慧に見咎められ笑われた。
有衣は直輝のそんな様子に気づいていなかったが、譲は直輝の視線に気づいていた。
常々有衣がここまで悩む必要は無いと思っていたが、それを確かめようと、必要以上に有衣に近づいてみる。
譲の思った通り、先ほどよりもさらに強くなった視線が痛い。
やっぱり両思いなんじゃないか、と内心苦笑しつつ、かわいそうなふたりのために協力してやる。
「大丈夫。絶対怒ってないと思う。つか、素直に気持ち伝えたら、案外うまくいくかもよ」
「え? でも」
「ほら、待ってるし、早く行ったほうがよくね? じゃ、今日はお疲れさん」
追い立てるように有衣を外に出し、譲は元の列に戻る。
これで多分今日の夜辺りにはうまくいくだろう、と思うと譲は、ひな鳥を巣立たせたような妙な気分に浸った。
晴基は運動会で疲れたのか夕食前から既に眠そうで、食べ終わるとすぐに眠り始めてしまった。
有衣はまだ直輝とふたりで話す勇気が起こらず、晴基を抱いてベッドルームへ逃げた。
晴基を寝かせてあげ、しばらくそこで晴基を見つめながら、有衣は直輝のことを想う。
帰り道、そして家に帰ってからも、ずっと喋っていたのは晴基で、直輝はほとんど一言も喋らずにいた。
表情は普通で、あからさまに不機嫌そうではなかったのだが、何を思っているのかわからない。
有衣としては、昼間のできごとのことが気がかりだった。
直輝は以前のようには反応しなかったが、本当はどう思っているのだろうか。
譲の言葉を思い出し、素直に気持ちを伝えるなんて自殺行為だ、やっぱり無理だと頭を振る。
一方で、譲は根拠もなくそんな言葉を言わないのではないか、と少しだけ期待もしていた。
いずれにしろ、昼間のことについては多分直輝も話し合いが必要だと思っているはずだ。
有衣は覚悟を決めて立ち上がると、リビングへ通ずるドアノブを握った。
なんとか、無事に運動会終了…。
キャラ弁なんて、作ったこと無いんですけど、書きたくて書いちゃいました。
キャラクタ名をみなまで出しちゃいましたが、大丈夫でしょうか…。
ちなみに、ほっぺたはにんじんです。
目はのりとチーズを使って、チーズの耳はウィンナで。(チーズがややこしいな…)
さて、イベントでドキドキなことが起こる予定でいたのですが、
成り行き上、ハラハラなことが起きてしまいました。予定外…^^;
直輝と有衣、双方覚悟が決まったところで。
じれったかったふたりも次回、ついに告白します!