12
いつもは無い小さな旗の飾り付けが、色とりどりで眩しい。
今日はかねてから案内されていた、晴基の保育園の運動会だ。
お弁当の入った大きな紙袋を片手に門をくぐり、有衣は場所取りをしているはずの直輝の姿を探した。
普段部屋の中でしか会っていないため、外で会うことに若干緊張している。
しかも頼まれたお弁当は、晴基用とあと有衣を含めて大人4人分ということだった。
直前に人数が増やされ、直輝のほかに誰が来るのかを有衣は聞いておらず、ますます緊張が増した。
「有衣ちゃん」
声をかけられ視線を向けると、直輝が手招きしてくれているのが見え、有衣は笑顔と会釈を返して足を向けた。
以前と同じように、という直輝の希望通り、有衣は前と同じ生活を送っている。
学校の後に晴基の世話をし、晴基が眠り直輝が帰った後は直輝と時間を過ごす。
それは温かく楽しい時間ではあるが、有衣の心の中に少しずつ重しを積み重ねてもいる。
だがそれも自分で選んだことだ、と有衣は思っている。
それに、晴基と直輝と全く会わずにいたあの数日間と比べれば、どんなことも辛くはない、と思えるのだ。
有衣が直輝のもとまで行くと、直輝はさりげなく荷物を有衣の手から引き受ける。
その行動に、有衣はいつもながら少しの戸惑いを覚える。
単なるあたたかさではなく、何か別のものが存在しているかのように錯覚してしまうからだ。
「ありがとう。急に人数増やしちゃったから、大変だったでしょう」
「いえ、大丈夫です。簡単なものばかりだから、2人くらい増えても変わらなかったですよ」
「そう? ならよかったよ。せっかくだから、有衣ちゃんのお弁当食べさせたくてね」
「…あの、どなたが来られるんですか?」
ずっと気になっていたことを、有衣は恐る恐る尋ねる。
晴基の祖父母、それも母方の祖父母が来るのではないか、と有衣は密かに恐れていた。
そんな人が来るのだとしたら、自分がいることで相手を不快にさせてしまう恐れがある。
そして何より、自分が居る意味や気持ちの置きどころが無くなってしまう、ということが怖かった。
「慧、あ…えーと。…ハルの母親の従兄で、慧というのと、その母親で妙(たえ)さん。
俺たちから見るとおばさんなんだけど、“おばさん”って言われるの嫌みたいで、名前で呼んでるんだけど。
ふたりとも、普段から俺がお世話になってる人たちなんだよ」
「そうなんですか」
有衣は咄嗟に、清香さんと似ている、と母親の顔を思い浮かべて笑った。
そして、どうやら恐れていた祖父母は来ないらしい、と知り不謹慎だと思いつつも、ほっとした。
「あの、おじいさまとかおばあさまとかは来られないんですか…?」
「俺のほうは、今親父がちょっと病気してて、お袋も今年はやめておくって。
ハルの母親のほうは、どちらももう亡くなっててね。だから、今年は誰も来ないんだ」
「そう、ですか…」
有衣は、直輝がずっと“晴基の母親”という表現を使うのに気づいていた。
直輝としては、何と言えばよいか迷っての末の言葉の選択だったのだが、有衣がそれを知るはずもない。
有衣には、その表現がどうしてか牽制に聞こえ、有衣は感情を押し殺すことを、更に課す必要性を感じた。
それでも、“妻”という表現を使われてしまっていたら、きっともっと切なかっただろう。
そう思うと、自分自身にすらコントロールできない気持ちが、疎ましくもあった。
あともう少しで園児の入場、という時に妙が到着し、数分遅れて慧が到着した。
妙は少しだけ驚いたように有衣を見つめ、それから笑顔で挨拶をした。
慧はというと、何やら訳知り顔で有衣を見つめ、そしてこちらも笑顔で挨拶をした。
有衣はその視線にかなりの緊張と居心地の悪さを感じつつ、やはり笑顔で挨拶を返す。
なぜこんな風に、観察されるような視線が向けられたのか、その視線の意味を、有衣は知らない。
直輝は、唯が亡くなった後、基本的に女性そのものを遠ざけてきた節がある。
整った容姿、柔らかな性格、職業故の社会的地位だけを考えても、寄ってくる者は多いが、受け入れなかった。
またハウスキーパを雇ってはいたものの、決してビジネスのラインを越えて接したことはない。
マンションの外で会おうとしたことなど、これまでに一度もなかった。
その直輝が、晴基の運動会に連れてきた女性、それも義理とはいえ親類に紹介した女性。
このことがどういう意味を持つのか、妙も慧もわかっている。
わかっていないのは当事者の有衣だけ、という奇妙な事態になっていることに、直輝はまだ気づいていない。
4人はそれぞれの思いを抱いたが、園児の入場が始まると、晴基を見ようとすぐに気持ちを切り替えた。
30人ほどの小さな子どもたちが、小さな運動場の真ん中に立ち、保護者たちにお辞儀をすると拍手が沸く。
「あ、ハルくん」
一番最初に晴基を見つけたのは、有衣だった。
こっそり手を振ると、晴基も有衣に気づいて満面の笑顔で手を振り返す。
晴基はこっそりのつもりだったようだが、かなりの大きな振りに、周囲の保護者からも笑いが起こった。
一緒に注目を浴びて気まずく笑う有衣を、直輝、慧と妙も微笑ましく思う。
その後の競技は、まず1歳児のはいはい競争から始まり、2歳児のかけっこ、3歳児の障害物競争と進んだ。
晴基はゴール目前にある跳び箱で躓いたが、しかし諦めたり泣いたりせずにきちんとゴールした。
そんな姿に、大人4人は感心し、そしてどこか励まされたような気持ちになる。
それから、小さなポンポンを持ってのお遊戯の部に移り、直輝は撮影に忙しかった。
そうしてあっという間に時間は過ぎ、お昼の休憩になる。
有衣は、なんとなく4人でいることに気づまりを感じ、晴基を迎えに行く役を買って出て歩き出してしまう。
そんな有衣の後ろ姿を眺め、慧は怪訝そうに直輝に視線をやった。
「なぁ、もしかして、まだちゃんと付き合ってない…?」
「え? ちゃんと…」
直輝は、そこではたと気づいた。
以前のように一緒に過ごしたい、と言って、有衣はそれを了承した。
しかし、ふたりに何か特別な進展があったわけではなく、むしろ感情的な繋がりは無いに等しい。
有衣との繋がりは、結局のところ晴基が間に入ることでしか保てていなかった。
言葉を切ったまま黙り込んでしまった直輝に、慧は脱力感を感じる。
せっかく代りまでして早退させたのに、あのときの半日が全く生かされなかったということである。
一瞬、慧はあの日の出来事を思い出しそうになり、顰め面で頭を振った。
今は自分のことを考えている場合ではない。
慧は、直輝の臆病な面や鈍感な面を知っているつもりでいたが、まさかここまでとは思っていなかった。
「おい、自分の気持ちも言ってないとかじゃないだろうな?」
「え?」
「だから、好きだとか、大切だとか、……言ってないんだな」
こんな基本的なことを、今の今まで気づかずにいたことに、直輝は大きな衝撃を受けた。
固まったまま反応を返さない直輝に、慧は大きな溜息をついて妙を見やった。
ふたりのやり取りを聞いていた妙も、慧と目を合わせ、呆れたように直輝を見る。
「直輝くん。私たちに紹介するよりも、先にすることがあるでしょう…。
どうりで、あの子ずっと気まずそうにしてたわけね。あーあ、かわいそう…居心地悪いでしょうに」
「だいたい、あんまりもたついてると他に取られるぞ。あの子若いんだし、普通にかわいいし。
あ、あーあ、ほら…あそこ見てみろ。さっそく若い男に声かけられちゃってるし」
妙の尤もな忠告と、慧の嬉しくない忠告に、直輝は自分の馬鹿さ加減が厭になる。
そして慧の指差す方向を見ると、晴基を迎えに行ったはずの有衣が、武先生と笑って話しているのが見える。
その瞬間直輝は、腹の底のほうから、沸騰したような熱の塊が沸くのを感じた。
それは紛れもなく、嫉妬だった。
けれど、今の有衣とのあやふやな関係では、表現しようのない感情だとわかっている。
そんな事態を招いてしまった自分自身に、直輝は言いようのない怒りを感じた。
「…迎えに、行ってくる」
押し殺した声で呟き、大股で歩き出した直輝に、慧と妙は顔を見合わせて苦笑を洩らした。
歩いていく直輝の背中に視線を戻し、妙はぽつりと聞く。
「慧、あんた知ってたの?」
「まぁ、比較的最近に」
「そう…」
唯を自分の子供のように思っていた妙には、今日の対面は少々衝撃的でもあった。
直輝の前でそれを出さなかったのは、直輝のことも唯と同様に大切な存在だからだ。
それに実際、このまま直輝が独りでいるのも心苦しい。
直輝が唯をどれだけ大事にしてくれたかを、直接知っているだけに尚更そうだった。
そんな妙の複雑な胸の内を思いやる慧は、少しだけ苦く笑う。
「焚きつけたのは俺なんだよ。…悪いけど」
「…誰も、悪く思う必要なんて無いのよ。でもまぁ、あの子があんまりにも若く見えて驚きはしたけど」
「あぁ、若いね。…確かに、若い」
含み笑いをしながら言った慧を、妙は訝しげに見た。
「幾つか知ってる?」
「…さぁね」
これは多分知っている、と妙は思ったが、口を割りそうにない息子に溜息をついて諦めた。
対面後の動揺は、まだ妙の中で小さく続いていた。
運動会です。
小さな子たちが動き回るのを想像しただけでかわいいです。
種目があやしいですが、運動会メインではないので許してくださいね^^;
直輝先走っちゃいました。
紹介する前にまず有衣に告れよ!状態ですが。
慧と妙に突っ込まれましたので、次回かその次あたりでがんばるのではないかと思われます。
さて。
慧が直輝に代って外来をしたあの日何があったのか。
慧が有衣の年齢を知っているのはどうしてなのか。
気づかれた方、多いでしょうね^^;
こっちの話はいずれまた…。