11
玄関のドアを開けると、いつもは無いものが目に入って有衣は目を見開いた。
男物の靴だ。直輝の靴がある。
今日は土曜日で直輝の帰りは早いはずだが、こんなに早い日は無い。
珍しくしまい忘れたのだろうか、そうであってほしい、という有衣の願いも空しく、廊下の奥で物音が聞こえる。
そして、ドアを閉める音と同時に、直輝の姿が見えた。
「おかえり」
「パパー!! ただいま! きょうは、はやいね!」
いつになく早い直輝の帰宅に、晴基ははしゃいで直輝のもとへ駆け寄る。
その晴基を微笑ましいと思いながら、有衣の内部では驚きと狼狽と不安がいっぱいになっている。
このまま、帰ってしまいたい。
直輝がいるなら、自分の仕事はしなくてもいい。
けれど、今日は土曜日で、契約内容に含まれているため、そうもいかないことは十分わかっている。
どうしてよいかわからず、有衣は靴も脱げずに玄関で立ちつくした。
直輝はそんな有衣に、少しだけ気まずそうな顔をしながらも、中へ入るよう促した。
「…入って」
「あ、はい…」
慌てて靴を脱ぎ、廊下へ足を踏み出したが、有衣はまだ今の状況を乗り切る方法を思いつかずにいた。
有衣が食事を作る間、直輝は晴基と入浴することにした。
怪獣のような晴基を風呂に入れるのは、直輝にとってもけっこうな労働だ。
髪を洗っていると、わざと頭を振った晴基のせいで、シャンプーの泡が飛んできて直輝は反射的に目を瞑る。
「こらっ! おとなしくしてなさい」
「えへへ~」
晴基は、直輝の珍しく早い帰宅が嬉しくて仕方がないらしく、さきほどから全く落ち着かない。
目に沁みる痛みに顔を顰めながらも、直輝は晴基のことが愛しくてたまらない。
それに比べ、と直輝は思う。
有衣はかなりの戸惑いと狼狽を表情に表していた。
直輝は、有衣が直輝を避けようとする理由を、正しくは知らない。
不安を感じつつも、せっかく慧が作ってくれた今日という機会を、どうにか生かしたいと直輝は決意していた。
料理をしている間に、有衣はどうにか落ち着きを取り戻していた。
晴基が起きているときに、直輝とここで過ごす時間のことは、今まですっかり失念していたのは浅はかだった。
そう気づいたが、どうせもう後の祭りなのである。
今日はもう諦めるしかない、と有衣は早々に自分を抑え込むための闘いを放棄することにした。
そうすると不思議なことに、このところ感じていた重苦しさが、消えたような気がした。
晴基用の盛り付けをしていた時、晴基がリビングに走り込むのが見えた。
いつもの追いかけっこを、今日は直輝とするつもりらしい。
てててて、という小さな足音と一緒に、ぽたぽたぽたっ、と水が落ちる音が聞こえる。
直輝はまだ追いかけてこない。
このままでは床がかなり濡れてしまう、と有衣がキッチンから出かけた時、ようやく直輝が走ってきた。
晴基はきゃーきゃーと甲高い声で逃げようとしたが、直輝の歩幅では敵わない。
有衣と違い、直輝はすぐに晴基を捕まえ、タオルでわしゃわしゃと拭き、手早く晴基を拭く。
しかしよくよく見れば、直輝の頭もまだ濡れていたせいで、床はさらに濡れていた。
「ハル~、濡れたまま行くなよぉ」
「パパきょうは、ふくきたの」
「…あのなぁ」
しかもそんな会話が聞こえてきて、有衣は思わず笑いをかみ殺した。
直輝は慌てて服を着たらしく、ジッパが途中で服の生地を噛んで上がらないままになっている。
そこから見える素肌の色に、有衣はどきりとして慌てて目を逸らす。
落ち着きを取り戻そうと懸命に努力した後、有衣はようやく気を取り直してふたりに声をかけた。
「ハルくん、床拭いてね。…直輝さんも、髪拭いてくださいね」
「はーい」
「あ、…ごめんね」
直輝は、今気づいた、というような顔で情けなさそうに、持っていたタオルを今度は自分の頭にやる。
前にもこんなことあったな、と有衣は懐かしく思い、柔らかな顔で笑った。
その笑顔に直輝は一瞬虚を突かれたような表情を浮かべたが、それはすぐに消えたため有衣は気づかない。
しかしそのとき、直輝の中には、言いようのない温かさと喜びがじわじわと広がっていた。
夕食と後片付けの時間は、思いの外和やかだった。
有衣が晴基に辛抱強く非効率的な後片付けの手伝いをさせている姿は、初めて見た直輝には驚きでもあった。
晴基が喜んで皿やグラスを1つずつ運ぶ姿も、直輝の知らないものだった。
そういえば、自分が片づけているときに、晴基は何か言いたそうな顔をしていた、と思いだす。
自分でも運べるのだ、と言いたかったのだろうと気づかされた。
恐らく、有衣がそのように助けてくれたのだとわかり、直輝は有衣に対する気持ちがさらに深まるのを感じた。
しかし、晴基を寝かせる時間が近づくにつれ、有衣は緊張の高まりを隠せなくなっていく。
落ち着きなく時計と晴基、そして鞄の間をさまよう有衣の視線に、直輝は気づいていた。
帰ろうとするタイミングを計っているようだが、直輝にまだそのつもりはない。
晴基がうつらうつらしだすと、有衣は直輝の視線を逃れるように、さっと晴基を抱き上げベッドルームへ消えた。
直輝は咄嗟に、意味もなく追いかけたくなったが、まだその時ではない、と体をソファに縫い付けた。
どれくらいの時間が経ったのか。
晴基はもうとうに眠りに入っているが、有衣はまだその場から動けずにいた。
リビングには、直輝がいる。
自分はもう家に帰らねばならないが、その前に、直輝がひとりでいる部屋へ行かなければならない。
その事実が、有衣を動けなくさせていた。
晴基が起きているときはよかったのだが、もう眠ってしまっている。
今度は、有衣が一人で直輝に対峙しなくてはならない。
それが、とてつもなく大きな壁に思えて、有衣の鼓動は速まった。
有衣が部屋に入って30分は経過した。
晴基の様子からして、多分とうに眠っているだろう、ということは簡単に予想できる。
有衣が部屋から出てくるのを、直輝は忍耐して待っていた。
やがて、恐る恐るといった風に部屋から出てきた有衣の顔は、傍から見ても強張っていた。
直輝の顔をちらりと見てから、一目散に鞄のもとへ歩こうとするのを、直輝は内心苦笑して待ったをかける。
「有衣ちゃん、ちょっと…話があるんだ」
「え…」
はっきりと、困惑の表情を浮かべて固まる有衣に、直輝は少しだけ勇気が萎えそうになる。
だが、今日はもう決意を変えるつもりは無い。
立ちあがって、固まったままの有衣をソファに促すと、それでも有衣は素直にソファに座る。
今まで直輝がいたのとは反対側だったが、今度は直輝がそちらに移り、有衣は驚いて横の直輝を見上げた。
直輝がその目線をまともに受けて逸らさずにいると、有衣は少しだけ頬を染めて気まずそうに俯いた。
その、頬を染めるという反応が、直輝の想定を超えたものだったので、緊張を別にしても直輝の鼓動が速まる。
「…まずは、あの夜言ったことについて、謝らせてほしい。俺が、悪かった。
あんな風に、言うべきじゃなかったし。有衣ちゃんを傷つけてしまって、本当に、後悔してる」
有衣はもう一度、視線を上げたが、その顔は驚きに満ちていた。
有衣の唇が物言いたげに震えたのを見て、直輝は促して話させる。
「でも、あれは…私が、悪かったんです。私が勝手にハルくんに」
「ハルがお願いした、って聞いたよ」
「あ、でも、それでも…。直輝さんの言葉は、間違っては…」
言いかけてはっとしたように言い淀んだ有衣を見て、突然思いついたことが直輝の脳内を駆け巡った。
まさか、有衣にも自分と同じ想いがあるのではないか。
だがそれは、あまりにも自分に都合のいい考えだ、と自重しつつも、期待が芽生えるのは止められない。
「うまく言えないけど、…あれは、俺の願望に近い」
「…え?」
「あの時は自分でも気づいてなくて、咄嗟に怒ってしまったんだ。ごめん…。
本当は、今有衣ちゃんが、こうやってまた来てくれることだけでも感謝だけど。
それでも俺としては、ハルのためにも、…俺のためにも、前みたいに笑ってほしいと思うんだけど、どうかな」
直輝は、“俺のために”、というところに重きを置いたつもりで話し、有衣の反応を窺った。
有衣は話の全容を掴もうと努めつつも、直輝の言葉の意味を図りかねていた。
直輝の願望、とはどういう意味だろう。
晴基の本当の母親の代りをすること? それとも単に母親の役目を果たすこと?
それは同じようでいて、全く違う事柄だ。そう思った瞬間、有衣には自衛作用が働いた。
直輝は、晴基のために、とまず言った。変に期待するのは命取りだ。
ただ直輝が、自分が以前と同じように接することを望んでいるということは理解できた。
有衣としては、自分が辛くなるだけだとしても、それでも直輝と過ごす時間は魅力的に思える。
晴基を口実にするのは忍びないが、自分を抑えるのにはほとほと疲れている。
それならば、いっそのこと、以前と同じように温かな時間を過ごせるほうが、良さそうに思えた。
「わかりました。直輝さんが、そう思ってくれるなら…」
「よかった…」
心底ほっとしたような顔と口調で直輝がそう言うのを、有衣は複雑な気持ちで見つめた。
直輝さん、伝わってませんけど!!!
…な、感じで終わり、次回へ^^;
表面的には元通りになりますが、内面ではまだ隔たりが生じたままです。
直輝は基本、鈍感ですからね…。
有衣も有衣で考えすぎというか…。
まぁ、人を好きになると、普段できることもできなくなったりしますもんね。
そんな感じで、日常は続き、次回はハルの運動会です。