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Home Sweet Home  作者: ミナ
1/34

01

目の前に聳え立つ、一見してすぐにそれとわかる高級マンション。

18年と少しのこれまでの人生では、あまりに無縁だったそんな建物に、有衣(ゆい)はかなり気後れしていた。

エレガントなその建物とは対照的に、有衣は腕がもげそうなほど重い買い物袋を下げていたからだ。

今日は月曜日。その袋には、6日分の食料品が詰められるだけ詰まっている。

人手不足で清香(さやか)さんの会社に駆り出されて、のこのこと来てはしまったけれど、本当によかったのだろうか。

こんなマンションに住んでいるなんて、一体どんな人が待っているのか。

柄にもなく不安になっていたが、ガードマンの寄こした視線に慌てて、エントランスへ入っていく。

震える手で3301号室のボタンを押し、インタフォンで呼び出すとすぐに応答があった。

「はい」

やわらかな声だった。

有衣は少しだけ、緊張が和らぐのがわかった。

「あの、KSスタッフの川名(かわな)と申しますが」

「あぁ、どうぞ。エレベータの脇でもう一度呼び出してくださいね」

「わかりました」

インタフォンが切れ、代わりにロックが外されたドアが開く。

恐る恐る中へ進むと、エレベータホールがあり、エレベータは6基設置されていた。

下層階、中層階、上層階用、そして上り下りの専用にそれぞれ分かれているらしい。

31階から上層階用と表示されており、ドアの脇には何かを読み取るようなパネルと、インタフォン。

そういえばもう一度呼び出して、と言われたのだと思いだして、呼び出す。

「ドアが開いたら乗って、33階へどうぞ。着いたら一番左のドアです」

「わかりました」

少し待っていると、音もなくエレベータのドアが開く。

厳重なセキュリティの様子に、また少し緊張がぶり返し、不安な気持ちで乗り込んだ。


ゆっくりと上昇する箱の中で有衣は、今から向かう家について頭の中でおさらいしていた。

今まで担当していた坂井(さかい)さんによると、家の主は西岡 直輝(にしおかなおき)さん、30歳、3歳の息子晴基(はるき)くんがいる。

医師で日曜日以外にはほとんど休みがなく、ハウスキーピングが必要なのは平日と土曜日。

主に必要とされているのは食事と晴基くんの世話、掃除と洗濯はついでで良いらしい。

有衣がこの家に来たのは、その坂井さんが産休を取ることになったからだ。

人手不足に困った清香さんが、ちょうど受験も一区切りついて暇だろうと有衣に話を持ち込んだのである。

夏休みも終盤、確かに暇を持て余していたため、断る理由もなく結局行くことに決まってしまった。

我が母親ながらまったく押しの強い人だ、と思い出して小さく溜息をこぼす。

ちょうどそこで目的の階に着いたらしく、上昇が止まって少しだけ浮遊感がした。


エレベータを降りると、ドアは4つしかなかった。

そのドアとドアの間隔は、庶民の有衣からすれば、果てしなく遠かった。

一番左のドアへとにかく向かい、今日3度目のインタフォンを鳴らす。

応答はなく、少しの間のあと、代わりにドアが開けられた。

出てきたのは、男性にしては色の白い、優しそうな目の人だった。

「川名さん?」

「はい。はじめまして」

「こんにちは!」

有衣の声にかぶるように、大きな声が下のほうから聞こえた。

「あ、こんにちは」

挨拶を返すと、にこにこと満面の笑みを浮かべた小さなかわいい男の子。

その顔を見て一気に緊張が解けた有衣は、つられてこちらもにこにこと笑顔を返した。

その様子を、直輝が少しだけ驚いたように、眩しそうに見たことには、気づかなかった。


玄関に入るとすぐに、さりげなく重たい荷物が引き受けられ、一瞬戸惑ったが促されるまま中へ入った。

広いリビングに通されてソファを勧められ、落ち着かない気持ちで腰を下ろすと、横に晴基が来る。

「ひろみさんよりも、としした?」

「ひろみさん?」

「こないだまで、きてくれてたの」

「あぁ、坂井さん。よりも、年下だよ」

「じゃあ、なにちゃん?」

年下だと、ちゃん付けになるのか。

くりくりとした目で期待を込められて見つめられると、こそばゆい気分になった。

「有衣っていうの」

ガチャンッ。

食器が激しくぶつかる音に、キッチンへ目を向けると、信じられない物を見るような目がこちらを向いていた。

何だろう。何かしただろうか。

急に不安な気持ちに襲われて見つめ返していると、やがてぎこちなく視線は外された。

「ゆいちゃん」

小さな声に、有衣ははっとして晴基に視線を戻す。

「かわいいなまえだね」

「ありがとう」

「うん。あのね、おんなのこになまえをきいたらね、そういうんだって」

そんなかわいい言葉に、不安も忘れて思わず吹き出してしまった。

こんな小さい子に、そんな言葉を教えるなんて、と思うとおかしくてたまらない。

「誰が教えてくれたの?」

「ほいくえんの、たけせんせい」

秘密を教えるように、ひそひそ声で話す晴基はかわいい。

有衣は一人っ子で小さな子どもと接したことはあまりなかったが、子ども独特の温かさが好きだった。

「じゃぁ、今度は私に名前を教えてくれるかなぁ」

「うん。ぼくね、ハルだよ」

「ハルくん?」

「うん。はるきっていうの。みんなハルってよぶよ」

頷いたところで、お茶を入れたトレイを持った直輝がこちらへ来る。

有衣を見る顔は、最初よりもやや強張って見えた。

「ハル、こっちにおいで」

向かい側のソファに腰を下ろした父親に呼ばれ、晴基は素直に従ったが、その表情には不満が表れている。

晴基は有衣をじっと見ながら、しょんぼりとソファに座った。


黙ってお茶を勧め、言いにくそうに直輝は切り出した。

「君は、名前が…」

少しだけ苦しげにも聞こえた声に、有衣は内心首を傾げていた。

先ほどの派手な食器の音を思い出し、そういえば名前を言っていた時ではなかったか、と思い当たる。

「あの、川名 有衣ですが。それが何か…」

「唯一のゆい?」

「いえ。有り無しの有に、衣です」

「…そう」

名前が一体どうしたのだろう。漢字まで聞かれるとは。

固く強張った声の調子と、聞かれていることの不自然さに、有衣はもう少しで取り乱しそうだった。

有衣は、顔を俯けてソファに押しつけていた体をもぞもぞと動かし、寸でのところで思いとどまったのだ。


しばらくの沈黙のあと聞こえた声は、最初に聞いたやわらかな声に戻っていた。

そっと窺い見た感じからすれば、表情の強張りも解けたように見え、有衣はほっとする。

それから、一週間のスケジュールややるべきことのリストなどを見せてもらい、大まかな内容を頭に入れる。

その後一通り部屋の中を案内された。

書斎として使っている部屋は、掃除もしなくてよい代わりに、入らないでほしいと言われた。

ベッドルームには、大きなベッドと子どもようの小さなベッドが並べられていた。

ベッドルームという場所に、有衣は奇妙な緊張を覚え、そんな自分が不思議だった。

最後に、出入りが自由にできるようにと、鍵が渡される。

それは見慣れていた銀色のものではなく、ICカードキーで、使い方を説明してもらわねばならなかった。

エントランス、エレベータ、玄関で、それぞれパネルに翳せばよいということらしい。

いったんドアが閉まるとロックされるため、いつでも持ち歩く必要があるということだった。

なんだか別の世界の出来事のような、不思議な感覚を有衣は味わっていた。

「取り急ぎという感じで悪いんだけど。大体の説明はわかってくれたかな」

「あ、はい」

「多分言い忘れはないと思うんだけど」

「なまえ!」

晴基の言葉で、思い出したように笑った直輝は、説明を付け加える。

「苗字で呼ぶのはダメなんだ」

「え?」

「君のことを、有衣ちゃんと呼んでもかまわないかな。苗字で呼ぶと、ハルに直されるんだ」

「…もしかして、坂井さんのこともずっと名前で呼んでたんですか?」

「そうなんだよ。ハルはこういうとこ頑固で困ってる」

情けなさそうに眉を少し下げた顔に、有衣は思わず笑った。

晴基と同じように、ひろみさん、と呼ぶ姿を想像してしまったからだ。

それと同時に自分が、有衣ちゃん、と呼ばれることを考えると、どこかふわふわとした気分になった。

「それと、呼びづらいだろうから申し訳ないんだけど。俺のことも、苗字では呼ばないでくれるかな」

「えっ? で、でも…」

「苗字で呼ばれるとハルも反応してしまって、いちいち面倒なんだ。

 いくら言い聞かせても、ぼくも西岡さんだよ、なんて言ってちっとも聞かないし」

苦いものを噛んだような顔で話す直輝のそばで、晴基はそれを気にも留めずにこにこと笑っている。

有衣はなんだかおかしくなってしまったが、その要求を飲むことにする。

「わかりました。じゃぁ、晴基くんはハルくんで、西岡さんは直輝さんで、いいですか?」

「それでいいよ。これからよろしく頼む」

頭を下げられて、有衣も慌てて頭を下げて返した。


新しいハウスキーパのために、無理に半休を取ったらしい直輝は、説明を終えた後慌てて病院へ出て行った。

別世界みたいなマンションも、妙な質問も、一瞬の強張った表情も、気にはなったが、

このふたりと、特に晴基と過ごすのは楽しそうだ、と思った有衣は、ここに来てよかったと早くも思った。


このお話は、あたたかい雰囲気を目指したいと思います。

どうぞしばらくお付き合いくださいませ。

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