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母の家出先は、家から歩いて七分でした

作者: _mon_mon_
掲載日:2026/10/06

『三泊します。冷凍庫に餃子があります』


母の置き手紙は、家出の宣言より、餃子の心配のほうが長かった。


最後に小さく、『電話は夜八時以降にお願いします』とある。


父からその写真が送られてきたのは、金曜日の夕方だった。


『お母さんがいない。困った』


私は会社の更衣室で、片足だけ靴を履き替えたまま電話した。


「事故とかじゃないのね?」


「三泊するって」


「どこに?」


「ホテル。駅前の」


家から歩いて七分だった。


父はそのホテルの前を、毎朝、散歩で通っている。


「喧嘩したの?」


「してない。朝は普通だった。味噌汁もあった」


私は反対の足にも仕事用の靴を履いた。実家に寄るなら、そっちのほうが早い。


三十三歳になっても、父の「困った」は、私の予定を変える力があった。


   ◇


台所には、父がいた。


いつも座っている食卓の席ではなく、流しの前だ。


「餃子、どこだ」


「冷凍庫」


「ないぞ」


父が開けていたのは野菜室だった。


「そこ、冷えてるだけ。凍ってないでしょ」


「今の冷蔵庫は難しいな」


今の冷蔵庫は、十五年前からそこにあった。


私は餃子を出して、フライパンを棚から取った。


父はほっとした顔で、食卓へ戻った。


その背中を見て、急に、母の手紙を読みたくなった。


餃子の心配は四行あった。油は少し。水は餃子の半分まで。蓋をして五分。最後に蓋を取る。


三泊します、は一行だった。


「お母さん、どうして三泊なの?」


「知らん」


「聞いた?」


「出かけるって言うから、夕飯までには帰るかって聞いた」


父はテレビをつけた。


私は油を引く前のフライパンを、コンロに置いた。


「作り方、書いてあるよ」


「お前、作ってくれるんじゃないのか」


「来るって言っただけ」


父はリモコンを持ったまま、私を見た。


私も、自分が言った言葉に驚いていた。


だって、来たら作る。作ったら片付ける。実家では、いつもそうだった。


母がいない台所なのに、私が母の続きを始めていた。


「私も食べるから、二人分、お願いします」


父は、なかなか立たなかった。


でも、最後にはリモコンを置いた。


餃子は少し焦げた。


父は焦げた側を自分の皿に並べた。そういうところは、昔から優しい人だった。


「蓋、取るのが遅かったな」


「うん。次は早く取ればいいんじゃない」


次、という言葉に、父はちょっと眉を上げた。


   ◇


八時になってから、母に電話した。


「何かあった?」


「何もないわよ」


「お父さん、心配してる」


「そう。餃子、焼けた?」


「焼けた。焦げたけど」


母は笑った。


電話の向こうで、水が流れる音がした。


「今、お風呂?」


「お湯ためてるの。先に入っても、あとに入っても、誰の順番も気にしなくていいから」


父はお風呂の順番に怒る人ではない。


ただ、六時半に入る人だった。母はそれまでに浴槽を洗い、お湯を入れ、上がる時刻に合わせて夕飯を並べた。


私がいた頃から、そうだった。


「何時に入っても、家でも同じじゃない」


言ってから、私は黙った。


母も、少し黙った。


「そうね。そう思ってたの、私も」


お湯の音が止まった。


「明日、お昼に来ない? 一階のレストラン。十二時」


「迎えに?」


「ごはん食べに」


母は、そこで電話を切った。


私が次に何を言うか、たぶん分かっていた。


   ◇


土曜日、母はホテルの入口で待っていた。


薄い水色のシャツ。小さな銀のイヤリング。


髪をいつもと反対側に分けている。それだけで、知らない人に見えた。


「お父さんは?」


「家。洗濯機と喧嘩してる」


「予約ボタン押しちゃったのね」


母はすぐに理由が分かった。


私は父に伝えようとして、スマートフォンを出した。


母は、もうレストランに入っていた。


父には洗濯機の蓋の裏を見るように送って、私はあとを追った。


窓際の席に、メニューが二つ置いてあった。


「お母さん、何にする?」


「私は、これ」


母の指は、海老のクリームパスタを指していた。


父が嫌いな料理だった。


家でクリーム味が出たのは、私が小学生のときの一度きり。父が二口食べて「重たいな」と言ってから、母は醤油味の料理を作った。


「胃、もたれない?」


私が聞くと、母はメニューから顔を上げた。


「食べてみないと、分からないでしょう」


私は、ハンバーグを頼んだ。


母は、パスタのソースをパンでぬぐって食べた。皿の端まで、きれいになった。


「もたれた?」


「いいえ。足りない」


母はデザートのメニューを開いた。


私はそこで、やっと笑えた。


   ◇


「どうして、ホテルなの」


苺のパフェが来てから聞いた。


「家にいて、何もしない日にすればいいじゃない」


「してみたのよ」


母は長いスプーンで、底の苺を探した。


「先月の日曜日。今日はお休みにしますって、お父さんに言ったの。そうか、ゆっくりしろって」


父らしい。


「お昼は?」


「お父さんがお弁当を買ってきた。私の分も。そこまでは、よかった」


母は、赤い苺をすくった。


「お箸どこ、って聞かれたの。それから、お茶ないか。ゴミ、どの袋。薬、どこに置いたっけ。夕方には、米だけ炊いてくれないか」


全部、私にも聞き覚えがあった。


「悪気はないんだよ」


「知ってる」


母は、はっきり言った。


「悪気がないから、休んじゃいけないとは思わなくなったの」


私は、自分の水のグラスを見た。


昨日、父は野菜室を開けていた。


私が冷凍庫を開ければ、済む話だった。それで済ませてきた。


「どうして三泊?」


「一泊目は、ずっと家のこと考えると思ったから。二泊目には、少し減って。三泊目なら、何も考えずに寝られるかと思って」


「今は?」


「洗濯機、予約ボタン押したのかしらって考えてる」


二人で笑った。


笑ってから、母は言った。


「今日は、私の誕生日なの」


知っていた。


カレンダーにも入れていた。花を買うつもりだった。


父から連絡が来て、花屋へ寄る予定だけが消えた。


私は今も、母を迎えに来たつもりでいた。


「六十四。結婚して四十年。こんなに近くにあるホテルに、初めて泊まった」


母はグラスに残ったクリームを、スプーンで集めた。


「おめでとう」


声が小さくなった。


「ありがとう」


「ごめん、私、忘れ――」


忘れてはいなかった。そっちのほうが、ひどい気がした。


母は空のグラスを置いた。


「夜の花でも、うれしいわよ」


まだ今日だった。


私は、窓の外の駅前通りを見た。


花屋は、ホテルの隣だった。


   ◇


夕方、父は私に電話した。


「洗濯は、できた」


「よかったね」


「タオル、乾かない。曇りだからな」


「曇りだからじゃないよ。始めたの二時でしょ」


父は黙った。


それから、いつもと違うことを言った。


「お母さん、帰りたくないのか」


「月曜日に帰るって、書いてあるでしょ」


「そうじゃなくて」


父は、言葉を探していた。


「ここが、嫌になったのか」


私は、母のかわりに答えそうになった。


お父さんが嫌なんじゃないよ。ただ、疲れたんだよ。


そう言えば父は安心する。安心して、明日も母の帰りを待つ。


「私に聞かれても、分からない」


「お前、今日会ったんだろ」


「うん。でも、お父さんにどう言うかは、お母さんが決めることだと思う」


父は、ため息をついた。


「電話、八時からか」


「今日は誕生日だよ」


「ああ。分かってる」


分かっていて、何をするつもりだったんだろう。


私も同じだったので、そこまでは聞けなかった。


   ◇


七時半に、私は花を届けた。


ホテルのロビーには、父がいた。


買い物袋を提げて、落ち着かない顔で立っている。


「連れ戻しに来たの?」


「連絡した。来ていいかって」


「八時前だよ」


「メールも駄目とは、書いてなかった」


その理屈に笑いそうになって、やめた。


父は母の返事を見せた。


『七時半なら。着いたら連絡して。部屋には来ないでね』


袋から、丸い弁当箱がのぞいていた。


「それ、何」


「おにぎり」


母の好きな具が入っているのかと思った。


「自分の夕飯。食べてから来ると、遅くなるから」


私は、それでいいのかもしれない、と思った。


母に用意してもらわない夕飯を、父が持ってきた。


母はエレベーターから降りてきて、花を見ると笑った。


「ありがとう。いい匂い」


私にはそう言って、父には、


「何の話?」


と聞いた。


父は買い物袋の持ち手を握り直した。


「誕生日、おめでとう」


「ありがとう」


「月曜日、迎えに来ようか」


母の笑顔が、少し薄くなった。


父はそれを見た。


「……来なくていいか」


「歩いて帰れるから」


「そうだな」


沈黙があった。


父は、おにぎりを袋へ戻した。


「昨日、餃子を焼いた」


「聞いた。焦げたんですって?」


「洗い物もした。フライパン、裏は焦げが取れない」


「いつもそうよ」


父は、母の顔を見た。


「そうか」


昨日の皿の焦げは、自分が失敗した跡だった。


フライパンの裏の焦げは、父が失敗するずっと前から、そこにあった。


母は毎日、そちらを洗っていた。


「それで?」


母が聞くと、父はようやく袋をベンチに置いた。


「帰ってきたあとも、洗い物は俺がする」


「私が教えるの?」


「最初は、聞くと思う」


「それが仕事なのよ。教えるのも、忘れた頃にもう一度言うのも」


父は口を閉じた。


私が、洗剤の場所を教えてあげようと思った瞬間だった。


父はしばらく床を見ていた。


それから言った。


「分からないことは、書いておく。お前がいない間に、自分で見ておく」


母は、すぐには頷かなかった。


「お茶も、自分で」


「うん」


「自分の薬も」


「うん」


「どこへ行くのか、何時に帰るのか、毎回聞かないで」


ここで父は、少し時間がかかった。


「心配は、する」


「していいの。私もするから。でも、夕飯の時間だけで心配しないで」


父は頷いた。


私は二人の隣で、花束の包み紙を外した。


何も、取り持たなかった。


   ◇


母は月曜日、予定どおりに帰った。


父は洗い物をした。二日目には、したつもりで油の残った皿を棚に戻した。


母はその皿を、父の夕飯の前に置いた。


翌日には、洗い直された。


これから先、また母ばかりが動く日が来るかもしれない。


でも、母は三泊分の荷物を、全部は片付けなかった。


旅行用の洗面袋は、玄関の棚に置いたままだ。


「次、いつ?」


日曜日に実家へ行くと、父が母に聞いた。


「来月。今度は友達と一泊」


「晩ごはんは」


母が父を見た。


私も父を見た。


「……何とかする」


父は、少し赤くなった。


母は冷蔵庫を開けて、私に聞いた。


「お茶、飲む?」


「うん」


母の手が、湯呑みに伸びた。


私は、その手より先に二つ取った。


「私、淹れるよ」


「ありがとう」


父も、自分の湯呑みを棚から出した。


三つ並んだので、母が笑った。


「あら。今日は、私が座っていていい日なのね」


今日は、ではなくて。


そう言いかけて、私は急須にお湯を注いだ。


父は、食卓に残っていた新聞を自分で片付けた。


母は、いちばん先に座った。


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