母の家出先は、家から歩いて七分でした
『三泊します。冷凍庫に餃子があります』
母の置き手紙は、家出の宣言より、餃子の心配のほうが長かった。
最後に小さく、『電話は夜八時以降にお願いします』とある。
父からその写真が送られてきたのは、金曜日の夕方だった。
『お母さんがいない。困った』
私は会社の更衣室で、片足だけ靴を履き替えたまま電話した。
「事故とかじゃないのね?」
「三泊するって」
「どこに?」
「ホテル。駅前の」
家から歩いて七分だった。
父はそのホテルの前を、毎朝、散歩で通っている。
「喧嘩したの?」
「してない。朝は普通だった。味噌汁もあった」
私は反対の足にも仕事用の靴を履いた。実家に寄るなら、そっちのほうが早い。
三十三歳になっても、父の「困った」は、私の予定を変える力があった。
◇
台所には、父がいた。
いつも座っている食卓の席ではなく、流しの前だ。
「餃子、どこだ」
「冷凍庫」
「ないぞ」
父が開けていたのは野菜室だった。
「そこ、冷えてるだけ。凍ってないでしょ」
「今の冷蔵庫は難しいな」
今の冷蔵庫は、十五年前からそこにあった。
私は餃子を出して、フライパンを棚から取った。
父はほっとした顔で、食卓へ戻った。
その背中を見て、急に、母の手紙を読みたくなった。
餃子の心配は四行あった。油は少し。水は餃子の半分まで。蓋をして五分。最後に蓋を取る。
三泊します、は一行だった。
「お母さん、どうして三泊なの?」
「知らん」
「聞いた?」
「出かけるって言うから、夕飯までには帰るかって聞いた」
父はテレビをつけた。
私は油を引く前のフライパンを、コンロに置いた。
「作り方、書いてあるよ」
「お前、作ってくれるんじゃないのか」
「来るって言っただけ」
父はリモコンを持ったまま、私を見た。
私も、自分が言った言葉に驚いていた。
だって、来たら作る。作ったら片付ける。実家では、いつもそうだった。
母がいない台所なのに、私が母の続きを始めていた。
「私も食べるから、二人分、お願いします」
父は、なかなか立たなかった。
でも、最後にはリモコンを置いた。
餃子は少し焦げた。
父は焦げた側を自分の皿に並べた。そういうところは、昔から優しい人だった。
「蓋、取るのが遅かったな」
「うん。次は早く取ればいいんじゃない」
次、という言葉に、父はちょっと眉を上げた。
◇
八時になってから、母に電話した。
「何かあった?」
「何もないわよ」
「お父さん、心配してる」
「そう。餃子、焼けた?」
「焼けた。焦げたけど」
母は笑った。
電話の向こうで、水が流れる音がした。
「今、お風呂?」
「お湯ためてるの。先に入っても、あとに入っても、誰の順番も気にしなくていいから」
父はお風呂の順番に怒る人ではない。
ただ、六時半に入る人だった。母はそれまでに浴槽を洗い、お湯を入れ、上がる時刻に合わせて夕飯を並べた。
私がいた頃から、そうだった。
「何時に入っても、家でも同じじゃない」
言ってから、私は黙った。
母も、少し黙った。
「そうね。そう思ってたの、私も」
お湯の音が止まった。
「明日、お昼に来ない? 一階のレストラン。十二時」
「迎えに?」
「ごはん食べに」
母は、そこで電話を切った。
私が次に何を言うか、たぶん分かっていた。
◇
土曜日、母はホテルの入口で待っていた。
薄い水色のシャツ。小さな銀のイヤリング。
髪をいつもと反対側に分けている。それだけで、知らない人に見えた。
「お父さんは?」
「家。洗濯機と喧嘩してる」
「予約ボタン押しちゃったのね」
母はすぐに理由が分かった。
私は父に伝えようとして、スマートフォンを出した。
母は、もうレストランに入っていた。
父には洗濯機の蓋の裏を見るように送って、私はあとを追った。
窓際の席に、メニューが二つ置いてあった。
「お母さん、何にする?」
「私は、これ」
母の指は、海老のクリームパスタを指していた。
父が嫌いな料理だった。
家でクリーム味が出たのは、私が小学生のときの一度きり。父が二口食べて「重たいな」と言ってから、母は醤油味の料理を作った。
「胃、もたれない?」
私が聞くと、母はメニューから顔を上げた。
「食べてみないと、分からないでしょう」
私は、ハンバーグを頼んだ。
母は、パスタのソースをパンでぬぐって食べた。皿の端まで、きれいになった。
「もたれた?」
「いいえ。足りない」
母はデザートのメニューを開いた。
私はそこで、やっと笑えた。
◇
「どうして、ホテルなの」
苺のパフェが来てから聞いた。
「家にいて、何もしない日にすればいいじゃない」
「してみたのよ」
母は長いスプーンで、底の苺を探した。
「先月の日曜日。今日はお休みにしますって、お父さんに言ったの。そうか、ゆっくりしろって」
父らしい。
「お昼は?」
「お父さんがお弁当を買ってきた。私の分も。そこまでは、よかった」
母は、赤い苺をすくった。
「お箸どこ、って聞かれたの。それから、お茶ないか。ゴミ、どの袋。薬、どこに置いたっけ。夕方には、米だけ炊いてくれないか」
全部、私にも聞き覚えがあった。
「悪気はないんだよ」
「知ってる」
母は、はっきり言った。
「悪気がないから、休んじゃいけないとは思わなくなったの」
私は、自分の水のグラスを見た。
昨日、父は野菜室を開けていた。
私が冷凍庫を開ければ、済む話だった。それで済ませてきた。
「どうして三泊?」
「一泊目は、ずっと家のこと考えると思ったから。二泊目には、少し減って。三泊目なら、何も考えずに寝られるかと思って」
「今は?」
「洗濯機、予約ボタン押したのかしらって考えてる」
二人で笑った。
笑ってから、母は言った。
「今日は、私の誕生日なの」
知っていた。
カレンダーにも入れていた。花を買うつもりだった。
父から連絡が来て、花屋へ寄る予定だけが消えた。
私は今も、母を迎えに来たつもりでいた。
「六十四。結婚して四十年。こんなに近くにあるホテルに、初めて泊まった」
母はグラスに残ったクリームを、スプーンで集めた。
「おめでとう」
声が小さくなった。
「ありがとう」
「ごめん、私、忘れ――」
忘れてはいなかった。そっちのほうが、ひどい気がした。
母は空のグラスを置いた。
「夜の花でも、うれしいわよ」
まだ今日だった。
私は、窓の外の駅前通りを見た。
花屋は、ホテルの隣だった。
◇
夕方、父は私に電話した。
「洗濯は、できた」
「よかったね」
「タオル、乾かない。曇りだからな」
「曇りだからじゃないよ。始めたの二時でしょ」
父は黙った。
それから、いつもと違うことを言った。
「お母さん、帰りたくないのか」
「月曜日に帰るって、書いてあるでしょ」
「そうじゃなくて」
父は、言葉を探していた。
「ここが、嫌になったのか」
私は、母のかわりに答えそうになった。
お父さんが嫌なんじゃないよ。ただ、疲れたんだよ。
そう言えば父は安心する。安心して、明日も母の帰りを待つ。
「私に聞かれても、分からない」
「お前、今日会ったんだろ」
「うん。でも、お父さんにどう言うかは、お母さんが決めることだと思う」
父は、ため息をついた。
「電話、八時からか」
「今日は誕生日だよ」
「ああ。分かってる」
分かっていて、何をするつもりだったんだろう。
私も同じだったので、そこまでは聞けなかった。
◇
七時半に、私は花を届けた。
ホテルのロビーには、父がいた。
買い物袋を提げて、落ち着かない顔で立っている。
「連れ戻しに来たの?」
「連絡した。来ていいかって」
「八時前だよ」
「メールも駄目とは、書いてなかった」
その理屈に笑いそうになって、やめた。
父は母の返事を見せた。
『七時半なら。着いたら連絡して。部屋には来ないでね』
袋から、丸い弁当箱がのぞいていた。
「それ、何」
「おにぎり」
母の好きな具が入っているのかと思った。
「自分の夕飯。食べてから来ると、遅くなるから」
私は、それでいいのかもしれない、と思った。
母に用意してもらわない夕飯を、父が持ってきた。
母はエレベーターから降りてきて、花を見ると笑った。
「ありがとう。いい匂い」
私にはそう言って、父には、
「何の話?」
と聞いた。
父は買い物袋の持ち手を握り直した。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
「月曜日、迎えに来ようか」
母の笑顔が、少し薄くなった。
父はそれを見た。
「……来なくていいか」
「歩いて帰れるから」
「そうだな」
沈黙があった。
父は、おにぎりを袋へ戻した。
「昨日、餃子を焼いた」
「聞いた。焦げたんですって?」
「洗い物もした。フライパン、裏は焦げが取れない」
「いつもそうよ」
父は、母の顔を見た。
「そうか」
昨日の皿の焦げは、自分が失敗した跡だった。
フライパンの裏の焦げは、父が失敗するずっと前から、そこにあった。
母は毎日、そちらを洗っていた。
「それで?」
母が聞くと、父はようやく袋をベンチに置いた。
「帰ってきたあとも、洗い物は俺がする」
「私が教えるの?」
「最初は、聞くと思う」
「それが仕事なのよ。教えるのも、忘れた頃にもう一度言うのも」
父は口を閉じた。
私が、洗剤の場所を教えてあげようと思った瞬間だった。
父はしばらく床を見ていた。
それから言った。
「分からないことは、書いておく。お前がいない間に、自分で見ておく」
母は、すぐには頷かなかった。
「お茶も、自分で」
「うん」
「自分の薬も」
「うん」
「どこへ行くのか、何時に帰るのか、毎回聞かないで」
ここで父は、少し時間がかかった。
「心配は、する」
「していいの。私もするから。でも、夕飯の時間だけで心配しないで」
父は頷いた。
私は二人の隣で、花束の包み紙を外した。
何も、取り持たなかった。
◇
母は月曜日、予定どおりに帰った。
父は洗い物をした。二日目には、したつもりで油の残った皿を棚に戻した。
母はその皿を、父の夕飯の前に置いた。
翌日には、洗い直された。
これから先、また母ばかりが動く日が来るかもしれない。
でも、母は三泊分の荷物を、全部は片付けなかった。
旅行用の洗面袋は、玄関の棚に置いたままだ。
「次、いつ?」
日曜日に実家へ行くと、父が母に聞いた。
「来月。今度は友達と一泊」
「晩ごはんは」
母が父を見た。
私も父を見た。
「……何とかする」
父は、少し赤くなった。
母は冷蔵庫を開けて、私に聞いた。
「お茶、飲む?」
「うん」
母の手が、湯呑みに伸びた。
私は、その手より先に二つ取った。
「私、淹れるよ」
「ありがとう」
父も、自分の湯呑みを棚から出した。
三つ並んだので、母が笑った。
「あら。今日は、私が座っていていい日なのね」
今日は、ではなくて。
そう言いかけて、私は急須にお湯を注いだ。
父は、食卓に残っていた新聞を自分で片付けた。
母は、いちばん先に座った。




