メイドコンカフェ嬢は転生したので、お嬢様だけの専属メイドです!
同じ世界線後6年後
『地下アイドルのセンターは転生したので、みんなのために聖女します!』
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前世の私は、メイドコンカフェ嬢だった。
仕事も嫌いではなかった。大阪の繁華街にあるコンセプトカフェで、フリルのついた衣装を着て客を迎え、オリジナルカクテルを作り、チェキにハートを飛ばし、シャンパンが入れば全力で盛り上げた。閉店後は同僚と飲みに行き、終電を逃して始発で帰ることも珍しくなかった。
そんな私がどうして死んだのかは、正直なところよく覚えていない。
ただ、次に物心がついた時には別の世界に生まれており、二十年ほど経った今、私はヴァレンティア公爵家でメイドをしている。
同じメイドとはいえ、似ても似つかない仕事かと思えば、案外そうでもなかった。
人の好みを覚える。相手が欲しがる前に飲み物を出す。機嫌を読む。服装を整える。笑顔で迎える。違うのは、客から酒を奢られないことと、勤務中に「かわいい」を連呼してはいけないことくらいだ。
そう思っていた私が、公爵令嬢アリシア様の専属メイドを命じられたのは、彼女が十歳になった春だった。アリシア様は、その数日前に第二王子フェリクス殿下との婚約が正式に決まったばかりだった。
王子妃、そして将来的には王妃となる可能性がある。そのため、それまで受けていた公爵令嬢としての教育に加えて、王家の歴史、外交、政治、儀礼、宮廷作法まで新たな予定に組み込まれていた。
朝食の前に語学。午前中は歴史と算術。昼食後に礼儀作法と舞踏。夕方には楽器か刺繍。さらに週に二度、王宮から教師が訪れる。
十歳の予定表ではない。
しかし本人は何も言わなかった。私が専属になった初日も、アリシア様は机に向かったまま、歴代王妃の家系図を書き写していた。
「本日よりお仕えいたします、ミアと申します。よろしくお願いいたします、お嬢様」
「ええ。よろしくお願いします」
顔を上げ、きちんとこちらを見て答える。背筋は真っ直ぐで、声の調子まで教育されているようだった。
綺麗な子だった。淡い金髪を肩の下まで伸ばし、薄紫の瞳をしている。まだ頬には子供らしい丸みが残っているのに、表情だけが妙に大人びていた。
最初の数日は、仕事を覚えることに徹した。そして一週間もすると、少し気になり始めた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました。今日は林檎と桃、どちらになさいます?」
「どちらでも構いません」
「では、お菓子は?」
「ミアに任せます」
「お好きなものはございますか?」
「客人がいらした時には、季節の焼き菓子が適切だと教わっています」
「客人ではなく、お嬢様が食べるものです」
「でしたら、何でも」
別の日には、仕立屋が持ってきたリボンを前に聞いた。
「どのお色がお好きです?」
「王家に嫁ぐのであれば、青を身につける機会が増えると思います」
「それは王家のお色ですよね」
「ええ」
「お嬢様のお好きな色は?」
「……公爵家の色は銀です」
そうではない。十歳の子供に好きな色を聞いて、家の紋章の話が返ってくるとは思わなかった。
かといって、教育を止めるわけにはいかない。私は公爵家に雇われたメイドであり、アリシア様がこれから歩んでいく道を支える立場ではあっても、その道そのものを変える人間ではない。
ならば、勉強が終わった後くらい遊べばいい。そう思った日の夕方、歴史の授業を終えたアリシア様が自室へ戻ってきた。私は扉の横でスカートを摘まみ、前世の癖で大仰に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……ええ」
アリシア様が部屋に入り、二歩進んでから振り返った。
「ミア」
「はい」
「ここは私の部屋だけれど」
「存じております」
「私はずっとこの屋敷にいたわ」
「ですが、ご帰宅ですので」
「どこから?」
「お勉強からです」
「勉強から帰宅するの?」
「そういうものです」
納得してはいない顔だったが、アリシア様はそれ以上追及しなかった。私は時計を見た。夕食まで一時間弱ある。
「それでは、本日の公爵令嬢業は終了です」
「公爵令嬢業?」
「本日の授業は全部終わりましたでしょう?」
「ええ」
「ですので、ここから夕食までは何もしない時間です」
「刺繍の続きをしてもいい?」
「それは宿題ですか?」
「違うけれど」
「やりたいですか?」
「……分からないわ」
「では今日はやめましょう」
アリシア様が困ったように眉を寄せた。
何もしなくていいと言われること自体に慣れていないらしい。
翌日、私は厚紙を一枚用意した。
小さな四角を二十個描き、それぞれの脇に花や星を描く。さらに薄い紙に猫、リボン、宝石、鳥などを描いて切り抜いた小紙片をたくさん作った。
前世でチェキに落書きしていた経験が、まさか転生後にこんなところで役立つとは思わなかった。
「こちらをどうぞ」
「何?」
「進捗管理票です」
「ポイントカード……」
アリシア様が真面目な顔で受け取った。
「歴史の課題を一つ終わらせたら、この小紙片を一枚。算術の小試験で満点なら二枚。苦手な舞踏を最後までやったら一枚。その都度、ここに貼っていきます」
「この猫を?」
「はい」
「なぜ?」
「進捗が分かりやすいので」
「勉強は私の義務よ。褒美をもらう必要はないわ」
「褒美ではございません。進捗管理です」
「でも、このシールが二十枚集まったら『好きなお菓子一つ』と書いてある」
「進捗管理には達成目標が必要ですので」
「その下の『自由時間十五分延長』は?」
「達成目標です」
「『ミアに一つお願いできる』」
「非常に高度な進捗管理です」
「そうなの?」
「そうです」
そう言い切ると、アリシア様はしばらくポイントカードを眺め、それから机の引き出しへ大切そうに入れた。
効果は思ったより早かった。三日後、歴史の授業が終わるなり、アリシア様が私を見る。
「今日は何のシール?」
「おや」
「何?」
「いえ。なんでもございません」
猫のシールを貼ろうとすると、アリシア様がその手元を見た。
「今日は王朝史だったから、王冠……いえ、なんでもないわ」
「王冠になさいます?」
「……いいの?」
「もちろんです」
進捗管理は順調だった。
私はそれに味をしめ、あちこちに前世の文化を持ち込み始めた。
栞には星を描いた。課題の横には「本日も大変よくできました」とハートで囲んで書いた。お茶の時間を知らせる小さな紙には、ティーカップを抱えた猫を描いた。
「ミア」
「はい」
「どうして文字の周りにこんなに絵を描くの?」
「かわいいので」
「必要?」
「かわいさに必要性を求めてはいけません」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
ある日、破棄する紙を集めていると、机の引き出しの奥に見覚えのある紙が並んでいるのを見つけた。
『本日の算術、満点!』
『午後もがんばりましょう』
『おやつは厨房に内緒で一枚多めです』
そんな、私が何気なく渡した小さな紙まで残されている。見なかったことにして、そっと引き出しを閉じた。
次に導入したのは飲み物だった。前世でいうオリジナルカクテルである。
当然、十歳の令嬢に酒は出せないので、果汁と炭酸水、香草、色をつけた甘いシロップを使う。透明なグラスの底に青いシロップを入れ、上から炭酸水を注ぐ。そこへ桃の果汁を少量落とすと、下から青、紫、薄桃色の層になった。厨房付きの生活魔術師に頼み、氷の中に微量の光を閉じ込めてもらう。
アリシア様が目を丸くした。
「光っているわ」
「本日のオリカクでございます」
「オリカク?」
「お嬢様専用の飲み物です」
「私専用」
「そうです。ですが色が決まっておりません」
「色?」
「お嬢様の推しカラーです」
「オシカラー」
「お嬢様を表す色ですね」
「でしたら青かしら。王家の色ですし」
「それは王家の色です」
「では銀。ヴァレンティア家の」
「それは公爵家の色です」
「……では、何色?」
「私が聞いているんです。お嬢様は何色がお好きですか?」
アリシア様は黙った。私は赤、桃、青、紫、緑、橙と、小さな瓶に入れた色付きシロップを机へ並べた。
「王家も公爵家も関係ありません。服に似合うかも、格式も考えなくて結構です。一番見ていて好きな色を選んでください」
「一番」
「はい」
アリシア様は瓶を一つずつ見た。途中で紫に手を伸ばしかけ、引っ込める。それから薄い桃色を持ち上げた。
「……これ」
「桃色?」
「ええ。でも、子供っぽいかしら」
「十歳なのでいいのでは?」
「そういう意味ではなくて」
「私は似合うと思いますよ」
アリシア様はもう一度瓶を眺めた。
「では、桃色にするわ」
「かしこまりました。今日からお嬢様の推しカラーは桃色です」
それから、ポイントカードに桃色の星が増えた。栞のリボンも桃色にした。オリカクも淡い桃色を中心に作るようになった。たったそれだけだったが、アリシア様は自分で選んだ色を見つけるたび、少しだけ嬉しそうな顔をした。
オリカクを出す時、私はグラスを持ち上げた。
「それでは、乾杯にゃんにゃーん」
「……何?」
「乾杯にゃんにゃーんです」
「なぜ猫なの?」
「猫はかわいいので」
「乾杯と何の関係が?」
「かわいさに必要性を求めてはいけません」
「またそれね」
アリシア様は普通に「乾杯」と言った。私は一人で「にゃんにゃーん」と続けた。
それからも毎回やった。五回目くらいだったと思う。
「乾杯にゃんにゃーん」
「……乾杯にゃんにゃーん」
小さな声が重なった。
私は勢いよく顔を上げた。
「お嬢様!」
「やっぱりやめるわ」
「申し訳ございません。今のは聞かなかったことにいたします」
「聞いていたでしょう」
「次から普通にやりますので」
「普通の『乾杯にゃんにゃーん』って何なのよ」
その日は、アリシア様が声を立てて笑った。初めて聞いた笑い声だった。
それから少しして、私は厨房に頼み込み、米と卵を分けてもらった。前世ほどふわふわにはできなかったが、薄焼きの卵で炒めた米を包み、赤いソースを入れた小さな絞り袋を用意した。
「こちら、本日の特別料理です」
「黄色いわ」
「卵ですからね」
「これを切るの?」
「その前に、お絵描きをします」
「料理に?」
「はい」
絞り袋の先を細く切り、私は卵の上に大きな猫を描いた。耳が左右でかなり違った。
アリシア様が見下ろす。
「……猫?」
「猫です」
「犬ではなく?」
「猫です」
「そう」
そこは疑わないでいただきたい。
アリシア様にもソースの入った小さな絞り袋を渡す。
「何を描けばいいの?」
「何でも」
「見本は?」
「ありません」
「正しい描き方は?」
「ありません」
「では、何を基準に評価するの?」
「評価もしません」
「……何のために描くの?」
「楽しいので」
アリシア様は明らかに困った。紙の上なら、見本を見て正確に描ける。刺繍も決められた図案なら美しく仕上げる。しかし、好きなものを自由に描けと言われると手が止まる。
やがて、卵の端に小さな花を一つ描いた。
「上手です」
「まだ一つよ」
「では、増やしましょう」
「失敗したら?」
「食べればなくなります」
アリシア様は少し考えて、二つ目の花を描いた。三つ目は歪んだ。四つ目は花なのか星なのか分からなくなった。最後には、私の猫の横に、細長い何かを描き足した。
「これは?」
「猫の尻尾」
「私の猫に?」
「短かったから」
「勝手に増やされた」
アリシア様が笑う。
私は両手でハートを作った。
「では仕上げに、おいしくなーれ、おいしくなーれ」
「待って」
アリシア様の顔から笑いが消えた。
真剣な目で私の手を見る。
「今のは何?」
「おまじないです」
「何系統の魔法?」
「はい?」
「詠唱が短いわ。術式も見えなかったけれど、生活魔法なの?」
「いえ」
「精神干渉?」
「違います」
「では祝福系?」
「そういうものでもなく」
「魔力を使っていないの?」
「使ってませんね」
「なのに魔法なの?」
「気持ちの魔法です」
「気持ち」
アリシア様が眉間に皺を寄せた。十歳がそんな難しい顔をするものではない。
「食べ物に対する感謝を媒介にした精神作用?」
「違います」
「でも今、魔法だと」
「もう食べましょうか」
私は強引に皿を差し出した。アリシア様はまだ納得していなかったが、オムライスは綺麗に平らげた。
そんな日々が続いた頃、フェリクス殿下が公爵家を訪れた。
殿下はアリシア様より二つ年上だった。きちんとした少年だった。背筋を伸ばし、言葉遣いも丁寧で、教師から教えられたことをよく覚えている。
つまり、十二歳にして既にかなり面倒くさい。私はアリシア様の後ろに控え、二人の会話を聞いていた。
「王宮での授業には慣れた?」
「はい。まだ覚えることは多いですが」
「母上も、君はよくできていると仰っていたよ」
「ありがとうございます」
ここまでは良かった。殿下が、アリシア様の髪に結ばれた桃色の細いリボンを見た。
「最近、よくその色を使うね」
「はい。好きな色なので」
「桃色が?」
「ええ」
アリシア様が少し嬉しそうに答えた。
しかし殿下は首を傾げる。
「少し子供っぽくないかな。将来王家に入るのなら、青や白を好んだ方がいいと思うけれど」
「……そうでしょうか」
「母上もそのような色はあまり身につけないよ。君も王子妃になるなら、今から意識した方がいい」
悪意はない。おそらく、殿下自身も同じように教えられているのだ。だからこそ質が悪い。
「おっしゃる通りです」
アリシア様はそう答えた。
その日の面会が終わり、玄関まで殿下を送り届けた。馬車が門を出る。私は姿勢を崩さないまま、笑顔で見送った。
扉が閉まった。
「はぁ? 何なんあいつ。きっしょ」
「ミア?」
しまった。
私は口元を押さえた。
「あらやだ。関西弁出ちゃいました」
「カンサイベン?」
「前世で住んでいた地方の言葉です」
「そこで生まれたの?」
「いえ、香川です」
「違うの?」
「大学から大阪だったので」
「……よく分からないわ」
「私も説明していて何の話か分からなくなってきました」
アリシア様は少しだけ笑った。
しかし部屋へ戻る頃には、その笑顔も消えていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「……ええ」
「本日の公爵令嬢業、終了でございます」
「うん」
いつもなら「だからここは私の部屋でしょう」と返してくるのに、それもない。
机の上にポイントカードを置いても見ない。
「本日は舞踏も最後まで頑張られましたので、桃色の猫です」
「ありがとう」
「新作のオリカクもございます」
「あとで飲むわ」
「あとで飲む」は、飲まない時の言葉だった。
私はグラスを持ってきた。桃色の果汁に透明な炭酸水を重ね、上に薄く削った氷を浮かべる。アリシア様の前に置いた。
「ミア」
「はい」
「やっぱり、青の方がいいかしら」
「何がです?」
「色。桃色は、子供っぽいのでしょう?」
「殿下はそう仰っていましたね」
「王子妃になるなら、似合わないものを好きでいてはいけないのかもしれないわ」
私はすぐには答えなかった。
王妃教育を否定するのは簡単だ。好きに生きろと言うのも簡単だ。しかし、それはアリシア様の人生を背負わない人間だから言えることでもある。
彼女は王子の婚約者で、公爵令嬢だ。その立場そのものを捨てたいと言ったわけではない。だから私は、グラスを彼女の前へ少し押した。
「では今日は、特別に強めに魔法をかけます」
「魔法?」
「はい」
私は両手でハートを作った。
いつものようにふざけた声は出さなかった。
「おいしくなーれ」
アリシア様が私を見る。
「おいしくなーれ」
もう一度言った。
「お嬢様が今日一日頑張った分くらい、美味しくなりますように」
アリシア様はグラスを持った。
小さく一口飲む。
「……どうです?」
「少し」
「はい」
「少し、美味しくなった気がする」
私は、これが本当は魔法ではないのだと説明しようとした。その前に、アリシア様が笑った。ほんの少しだった。けれど、それでよかった。
「明日も桃色で作って」
「かしこまりました」
それから、二人の間の何かが少し変わった。大きな変化ではない。アリシア様は相変わらず朝から勉強した。王宮の教師にも逆らわず、舞踏も刺繍も続けた。
けれど、授業が終わると自分から聞くようになった。
「今日は何のシール?」
「本日は星です」
「猫がいい」
「星の日です」
「では明日は猫にして」
別の日には、私がグラスを出す前に言った。
「今日は何色?」
「桃色と白です」
「青も少し入れられる?」
「もちろんです」
乾杯の時には、私が何も言わずグラスを上げると眉を寄せた。
「今日はしないの?」
「何をでしょう?」
「……乾杯」
「普通の乾杯で?」
「意地悪ね」
「では」
「乾杯にゃんにゃーん」
「先に言われた!」
机の上には、アリシア様自身が描いた小さな花のメモが増えた。私への伝言にも、時々不格好な猫がついている。最初は私がやっていたことを、少しずつアリシア様が真似するようになった。
その頃だった。私が、少しやり過ぎた。王宮の教育係が使う歴史書に、私の描いた栞を挟んだまま返してしまったのである。桃色の猫が王冠をかぶり、その横には大きく『本日も頑張りました!』と書いてある。
翌日、教育係から呼び出された。
「アリシア様は将来、王家に入られる方です。息抜きを否定するつもりはありませんが、あなたは専属の使用人として節度を持ちなさい」
「申し訳ございません」
「最近は随分あなたを慕っておられるようです。だからこそ心得なさい。あなたの振る舞い一つで、アリシア様が周囲からどう見られるかまで変わるようなことがあってはなりません」
その通りだった。叱責そのものは厳しくなかった。しかし、その言葉は残った。
私が面白がって持ち込んだ遊びが、アリシア様の邪魔になっているのではないか。私は前世で客を楽しませるのが仕事だった。楽しい時間を作れば、それでよかった。けれど、今の相手は客ではない。私の遊び一つで、この先の彼女の評価が下がる可能性もある。
その日は、何も作らなかった。アリシア様が戻ってきた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
私は普通のお茶を出した。
「今日のオリカクは?」
「本日はお茶でございます」
「シールは?」
「机の上に置いております」
桃色の星を一枚だけ置いた。落書きはしなかった。アリシア様はしばらくそれを見ていた。
「ミア」
「はい」
「怒っているの?」
「いいえ」
「では、具合が悪い?」
「元気でございます」
「嘘」
即答された。
私は少し困った。
「教育係の先生から、少し注意を受けただけです。私が遊びを持ち込みすぎたのではないかと思いまして」
「私の勉強が遅れた?」
「いいえ」
「試験の点が下がった?」
「いいえ」
「では、何がいけないの?」
「それを考えているところです」
アリシア様は黙った。
それ以上は何も聞かなかった。
夕食前、私は食器を片付けていた。後ろで何か音がする。振り返ると、アリシア様が小さなグラスを持っていた。水に果汁を少し混ぜただけのものだった。
「どうなさいました?」
「ミア、そこに座って」
「私が?」
「いいから」
主人に命じられては仕方がない。椅子へ座ると、アリシア様がグラスを私の前に置いた。そして両手を胸の前に出した。ぎこちなく指を曲げ、左右を合わせる。少しいびつなハートになった。
「おいしくなーれ」
私は動けなかった。
「おいしくなーれ」
アリシア様はもう一度言った。
「……お嬢様」
「飲んで」
「それ、魔法じゃないですよ」
「知っています」
今度こそ、言葉が止まった。アリシア様は平然としていた。
「知っていたんですか?」
「魔力を使っていないもの」
「最初は本気で精神干渉だと思ってましたよね?」
「最初はそう思っていたわ。でも見れば分かるでしょう」
それなら、なぜ。
私が聞く前に、アリシア様が続けた。
「でも、私が落ち込んでいた時、ミアはこれで元気づけてくれたでしょう? それで、私は本当に元気になったの」
「……はい」
「だから同じことをしたら、ミアも元気になるかと思って」
私はグラスを持った。ただの果汁入りの水だった。甘さも薄いし、炭酸もない。
「どう?」
「かなり美味しくなりました」
「本当?」
「強力な魔法ですね」
「でしょう?」
アリシア様が笑った。
それから私は、また桃色の猫を描くようになった。ただし、王宮へ返す本には挟まない。そこは反省した。
しばらくして、最初に作ったポイントカードが全部埋まった。二十個の四角は、猫や星や花でいっぱいになっている。
「完成ですね」
「ええ」
「ということで、特別なものをご用意しました」
私は布に包んだ瓶を取り出した。
中身は、公爵家の厨房から分けてもらった高級な発泡果汁飲料である。酒ではない。前世の私なら「そこは酒だろう」と言ったところだが、十歳相手なので当然である。
瓶には私が作ったラベルを貼っていた。桃色を中心に、猫、星、リボン、ハートを散らし、中央には大きくアリシア様の名前を書いた。ついでに屑魔石や小さな飾り石まで縁に貼りつけたので、品よく収めるつもりだったのに、結果としてかなりギラギラしていた。
「こちら、アリシア様専用オリシャンでございます」
「オリシャン」
「特別な日に開ける特別な一本です」
「今日じゃないの?」
「完成記念でもいいですが、もっと特別な日のために取っておきませんか?」
「もっと特別な日」
「はい」
アリシア様は瓶を抱え、しばらく考えた。
「では、取っておくわ」
その日は来た。数か月後、再びフェリクス殿下との面会があった。以前と同じ応接室だった。
私はアリシア様の後ろに控える。殿下は前より少し背が伸びていた。話題は王宮での授業や、次の季節に予定されている式典へ移った。
「その式では青いドレスを着るんだろう?」
「ええ。その予定です」
「よく似合うと思う。やはり桃色より落ち着いている」
アリシア様の袖口には、小さな桃色のリボンがついていた。殿下がそれを見る。
「まだその色が好きなの?」
「はい」
「王子妃としては少し幼いと思うけれど」
以前と同じだった。殿下に悪意はない。ただ、自分が正しいと思っている。アリシア様は膝の上で指を揃えていた。以前なら、そのまま「おっしゃる通りです」と答えただろう。
「私は好きです」
殿下が止まった。
「桃色が?」
「はい。青いドレスも着ます。式典にはその方が相応しいですから。でも、桃色も好きです」
「……そう」
「両方好きでは、いけませんか?」
殿下は少し考えた。
「いや。別に、いけなくはないけれど」
それで話は終わった。婚約破棄も起きなかった。王子が反省して後悔することもなかった。世界は何一つ変わらなかった。けれど、帰りの廊下で、私はアリシア様の横顔を見た。本人は何でもない顔をしている。私は何も言わなかった。
部屋へ戻る途中、アリシア様が足を止めた。
「ミア」
「はい」
「今日でしょう?」
「何がです?」
「特別な日」
私はすぐに分かった。
「開けますか?」
「ええ」
保管していたオリシャンを持って、私たちは人の少ない中庭に出た。室内で開けると、何かを壊す可能性がある。栓が飛ぶことを考えれば外が安全だった。
私は瓶を持ち、栓を固定していた金具を外す。
「ここを押さえてください」
「こう?」
「はい。飛ぶことがありますので、人のいない方へ向けて」
その時、回廊の向こうから声が聞こえた。フェリクス殿下だった。護衛と話しながらこちらとは別方向へ歩いている。
距離はある。私は瓶の向きをほんの少しだけ変えた。本当に、ほんの少しだけである。
「では、お嬢様。ゆっくり回して」
「これを?」
「はい。力を入れすぎないで」
私は少し声を潜め、指を三本立てた。
「さんさん!」
「……さんさん?」
「にーにー!」
アリシア様も釣られて指を二本にする。
「にーにー!」
「いちいち!」
「いちいち!」
ぽんっ、と乾いた音がした。
栓が飛んだ。
綺麗な放物線だった。
「痛っ!」
遠くでフェリクス殿下が頭を押さえた。私とアリシア様は固まった。
護衛が一斉に周囲を見回した。
「殿下、お怪我は?」
「襲撃か?」
「いや、これは……コルク栓?」
「どこから飛んできた」
「鳥が落としたのでは?」
「鳥がコルク栓を?」
一瞬だけ、その場が妙に騒がしくなった。
私は無言で瓶を下げた。アリシア様も無言で私を見る。幸い、こちらは茂みと柱の陰になっていて、向こうには気づかれていない。
殿下たちは何かを探した後、そのまま歩いていった。
私はアリシア様を見た。
アリシア様も私を見た。
「……部屋へ戻りましょう」
「ええ」
二人で何事もなかったように歩いた。
廊下を曲がる。
誰もいない。
アリシア様の肩が震えた。
「お嬢様」
「駄目」
「はい」
「今は駄目」
そう言いながら、口元を押さえている。部屋へ入って扉を閉めた。そこで限界が来た。
アリシア様がベッドへ倒れ込んだ。
「頭に、頭に当たった……!」
「見事な軌道でしたね」
「ミア、瓶の向き変えたでしょう!」
「気のせいでございます」
「絶対変えた!」
「偶然です」
「嘘!」
アリシア様は笑いながら私を指さした。
私も耐えられなくなった。二人でしばらく笑った。公爵令嬢らしくもない。未来の王子妃らしくもない。ただ、十歳の女の子がくだらない悪戯の成功に笑っていた。それでいい。
私はグラスを二つ持ってきた。発泡果汁飲料を注ぐ。細かな泡が立ち、甘い果実の香りが広がった。
アリシア様が自分からグラスを持ち上げた。
「乾杯にゃんにゃーん!」
「声が大きいです、お嬢様」
「あなたが教えたのでしょう!」
「まさかここまで立派に育つとは」
「何が立派なのよ」
また笑う。
私もグラスを合わせた。
「今日もいい笑顔いただきました」
「それ、前世のお仕事の言い方?」
「よく分かりましたね」
「最近、分かるようになってきたもの」
アリシア様は一口飲んだ。
「でも私は、お客ではないでしょう?」
「そうでした」
「私はあなたの主人よ」
「はい」
「専属なのでしょう?」
「もちろんでございます」
アリシア様は桃色のラベルが貼られた瓶を見て、それから私を見た。
「だったら、これからも私だけのメイドでいてね」
私は笑って頭を下げた。
「仰せのままに、お嬢様」




