九話
翌日の午前十時。
「おはようございまーす」
名江の大声が聞こえてきた。小春は財布と買い物カゴを持ち、玄関に向かった。
「おはようございます」
「さあ、買い物に行きましょう!」
「はい」
名江は買い物に行くとき、毎度誘ってくれる。小春にはろくに話し相手がいないから、名江と話ながら買い物に行くことが癒やしになっていた。
「昨日、家にいなかったみたいですけど、どこかに行ったんですか?」
「都市部に行ってました」
「わー、いいですね! 買い物ですか?」
「はい」
「何か買ってもらったんですか?」
「ワンピースを買ってもらいました」
「羨ましい! 私も欲しいです!」
名江は強く言った。十九歳の名江もワンピースに憧れを持っているようだ。
「明日、そのワンピースを着て見せてくださいよ」
「えっ……」
日曜日以外は着たくないし、あれを着て外を歩きたくない。
「……外で着るのは恥ずかしいです」
「えー、小春さんのワンピース姿見たいです」
「そんなこと言われても……」
「見せてください。お願いします」
名江は顔の前で手を合わせた。
せっかく仲良くなったのに、つまらないことで仲違いしたくない。名江との関係を保つために、
「明日、着て見せますね」
と、小春が折れた。
「やった。楽しみにしてますね!」
名江は子どものように無邪気な笑顔を見せた。
「どんなワンピースかというと……」
あーっ、と名江から遮られた。
「楽しみは取っておきたいので、言わないでください」
きっと彼女は、かわいらしいワンピースを買ってもらったと思っている。鶴柄なんて見たらびっくりするだろうな。名江の反応を想像すると、小春はなぜか申し訳ない気持ちになった。
翌日。小春を見た名江は、目玉がこぼれ落ちそうなほど目を丸くした。昨日、予想した通りの反応だ。
「このワンピース、小春さんが選んだわけじゃないですよね?」
鶴を指さしながら訊いてくる。
「はい。雅臣さまが選びました」
「そうですよね。雅臣さまが好みそうな柄ですもん」
と、名江は納得したような顔をした。
着て見せる約束は果たした。
「着替えてきます」
家の中に引っ込もうとすると、名江から手首を掴まれた。
「せっかく着たんですから、そのまま行きましょうよ」
小春はずるずる引っ張られ、ワンピース姿のまま買い物に行くことになった。
洋装が珍しい町で小春は大いに目立った。道行く人々の視線が小春に集まる。
婦人たちとすれ違ったとき、会話が耳に入った。
「すごい柄だね」
「あれはないね」
視線と声は針のようだった。チクチクと小春の心を刺してくる。一度や二度なら耐えられるが、大勢から何度も刺されてもう重傷だ。
やっぱり着替えてくればよかった。小春は背中を丸め、買い物カゴで前面の鶴を隠した。
魚屋の奥さんも小春を見て目を瞬かせた。
「ハイカラなもの着てるね~。それ、若旦那様に買ってもらったの?」
「はい」
と、小春は小さく頷いた。
「羨ましいね~。私は洋服なんて買ってもらったことがないからさ」
奥さんは店主を横目で見た。視線に気がついた店主は、奥さんに背を向けた。
魚を買った小春は、店に背を向ける。後ろにいた婦女子と目が合った。
彼女のことはよく覚えている。茶会に列席していた娘だ。雅臣を囲む輪の中にいて、雅臣に選んでもらおうと一生懸命話しかけていた。
婦女子の視線がワンピースに移った。見られないよう、小春は買い物カゴで鶴を隠しながら彼女の隣を通る。
「私が買ってもらえる立場になりたかったな」
婦女子の妬心に満ちた声が小春の鼓膜を揺さぶった。
挨拶しても無視され、機嫌を損ねないよう神経をすり減らしながら生活している。私はこんな立場になんてなりたくなかった。腹が立ち、小春は買い物カゴの持ち手をぎゅっと握った。
数歩歩くと、名江が振り返った。だが、すぐに前を向く。
「あの人、もしかして茶会にいましたか?」
「はい」
なるほど、と名江は拳で掌を打った。
「小春さんに嫉妬してるんですね」
「どうして雅臣さまは、私を妻に選んだんでしょうね……」
小春は視線を下げ、ぽつりと言った。
「そんなの、小春さんがいいと思ったからじゃないですか?」
「きっとそれは違います」
小春は首を横に振る。
「伴侶にするんですよ? いいと思った人を選ぶでしょう?」
常識的に考えると、名江の言う通りだ。気に入らない人間をわざわざ伴侶に選ばないだろう。だが、雅臣は暴君と噂される人物。世間一般の常識なんて通用しなさそうだ。
「私を選んだのは、意趣返しなのかなって思うんです」
「意趣返しって……」
名江は口をあんぐりと開けた。
「小春さん、茶会で雅臣さまに何したんですか?」
「絶対に選ばれないよう無愛想にしていたんです」
「そんなことですか。取り返しのつかないことかと思いましたよ」
名江は拍子抜けしたような顔をした。いったい、どんなことを想像していたのだろうか。
「ちょっと無愛想にしたくらいで、意趣返ししようなんて思いますかね?」
「きっと気に障ったんですよ。他の娘さんたちは、雅臣さまを囲ってニコニコしながら話しかけていたんです。それなのに私だけ無愛想で輪に入らず、遠くから雅臣さまを眺めていただけなんですから……」
暴君と噂される人物だから、婦女子からちやほやされることを当たり前と思っていそうだ。考えれば簡単に分かりそうだが、茶会のときは無愛想に振る舞うことばかり考えていて、そこまで考えが至らなかった。
「私は、小春さんのことが気に入ったから選んだんだと思いますけどね」
名江は小春をまじまじと見ながら言った。名江の目は曇りなく真っ直ぐだった。本当に、雅臣が小春を気に入ったから選んだ、と思っている目だった。
「それは絶対にないですから」
小春はため息をつき、名江から視線をそらした。ワンピースの鶴が目に入った。見たくなくて、買い物カゴで隠した。
その日の夜。小春は本を読む雅臣の横顔をちらちらと見た。しかめ面のことが多いからか、まだ二十四歳なのに眉間に薄らとしわが寄っている。
雅臣は見られていることに気がついたようで、視線をこちらによこした。
「何だ?」
「あっ、その……」
用事はなくてただ見ていただけなんて言えず、返答に詰まる。
「用がないなら見るな」
「申し訳ございませんでした」
雅臣は眉間のしわを深くすると、本を閉じて居間から出て行った。
自分を気に入っているなんて、到底思えない。やはり自分を選んだのは意趣返しだろう、と小春は思った。
名江は本屋に寄り道をして、立ち読みをすることが多い。いつもはここで別れるが、小春も今日は本屋に立ち寄った。
あと数日で四月が終わる。今月の生活費が大分余ったから、婦人向けの雑誌を買う。髪飾りや化粧品を買ってもいいと言われたが、高価なものは気が引けて買えない。
二人はそれぞれ、雑誌に手を伸ばす。名江が表紙をめくろうとした瞬間、
「名江!」
真後ろからの女の金切り声がした。小春と名江はびくりとする。振り返ると、池内家の女中が鬼の形相で立っていた。名江は血の気が引いたようで、顔が青ざめた。
「すぐ終わる買い物を頼んでもいつも帰りが遅いからこっそり着いてきてみれば、こんなところで道草を食ってたんだね!」
「すみません……」
と、名江は肩をすくめた。
「さっさと帰るよ!」
「はい……」
名江は雑誌を置き、女中の傍らに立った。小春もつられて雑誌を置く。
あっ、と女中が鬼の形相を緩めた。
「若奥様はいいんです。どうかゆっくり買い物をしてください」
「でも……」
小春は名江に視線をやった。しょぼくれている彼女を見ると心が痛む。
「名江のことなどお気になさらないでください」
女中は小春に頭を下げると名江の背中に手を回し、本屋から出て行った。遠ざかって行く名江の背中からは、悲愴感が溢れ出ていた。
小春は名江が立ち読みしていたものと、夕食のおかずの作り方が豊富に載っている雑誌を買って、家路についた。
名江は買い物当番から外されたようで、翌日、誘いに来なかった。小春は昨日買った雑誌を名江に渡したくて母屋を訪ねた。だが、会わせてもらえなかった。




