七話
起床した小春は、物音を立てないよう細心の注意を払って寝床を出た。
着替えて、居間の時計で時間を確認すると、昨日の起床時刻より遅かった。疲れが溜まっていたから、ぐっすり眠ってしまったようだ。
小春は台所に急いだ。早く調理を始めないと、大根に味が染みない。未完成のものを出して、彼の機嫌を損ねてはならない。宿泊客に提供していた料理よりも、気を遣っている。
何とか朝食と弁当を作り終えた。もう体力を全て使い果たしたみたいに疲れた。
朝食を食べ、雅臣は出勤だ。小春は弁当を持って、雅臣の後ろをついて行く。
「あの、お弁当です……」
靴を履いた雅臣に差し出す。雅臣は振り返ると、奪うように小春の手から弁当を取った。
「いってらっしゃいませ」
戸が閉まる音を聞いて、小春は頭を上げた。ついため息がこぼれる。挨拶しても返ってこないと分かっているのに、虚しさが胸に顔を出す。
皿洗いと洗濯を終え、買い物に行く準備をしていると、
「小春さーん」
と、今日も名江の声が聞こえてきた。彼女の声は本当によく通る。
小春は玄関に向かい、戸を開けた。
「名江ちゃん、おはようございます」
「おはようございます!」
名江から気持ちのいい挨拶が返ってくる。この感じのよさを、少し雅臣にわけてあげてほしいと思う。
「今日も買い物に行きますか?」
「はい」
「それならまた一緒に行きましょう」
「いいですよ」
「やった」
名江は満面の笑みを見せた。彼女の笑顔は不思議と元気をくれる。
「すぐ戻ってきますから、ちょっと待っててくださいね」
「はーい」
小春は財布と買い物カゴを持ってくる。
「お待たせしました」
二人は肩を並べて一緒に買い物に向かった。
「名江ちゃんは、雅臣さまと智紘さんの関係って知ってますか?」
昨日、訊かなかったことを訊いてみる。雅臣に訊くのが一番いいが、彼に訊く勇気を持ち合わせていない。
「あのお二人、同い年のいとこなんですよ。雅康さまと智紘さんのお母様が姉弟なんです」
「そうなんですね」
だから智紘は雅臣を呼び捨てにし、着る物も上等なものなのか。謎が解けた。
名江は話しを続けた。
「雅康さま、智紘さんのことを青田買いして、智紘さんの学費と下宿代を全額支払ったそうです」
雅康は、智紘のことをそうとう買っているようだ。小春も智紘の立ち振る舞いを見て、優秀そうだとは思った。
智紘の話が終わると、
「小春さんは、今日は何を作る予定ですか?」
名江が尋ねてきた。
「コロッケを作ってみようと思います」
わー、と名江は子どものように目を輝かせた。
「コロッケって洋食ですよね! 小春さん、作れるんですか?」
「いえ、初めて作ります」
実家の旅館では和食しか作ったことがない。雑誌で作り方を見て、いつか作ってみたいと思っていた。
「母屋では洋食なんて出ないので、雅臣さま喜ぶんじゃないですか?」
食べ慣れないものを出して、機嫌を損ねないだろうか。作ってみたいという気持ちが、盛りを過ぎた花のようにしぼんでいく。
「母屋で洋食が出ないなら、作るのやめておこうかな……」
「作ってみればいいじゃないですか~」
「普段食べないものを出して、お口に合わなかったら困るし……」
名江から手首を掴まれる。
「一回作ってみましょうよ~。何が必要なんですか?」
もう作る選択肢しかなさそうだ。
「馬鈴薯と牛ひき肉です」
「八百屋と肉屋に行きましょう!」
小春は強制的に八百屋と精肉屋に連れていかれた。メリケン粉とパン粉も買った。家にタマネギはあるから、コロッケの材料は揃った。
「これで作れますね」
作るのは小春だが、名江のほうが、気合いが入っているように見える。
買い物を終えて帰途、名江は今日も本屋の前で立ち止まった。また立ち読みをするのだろう。
「小春さんは寄りますか?」
「いえ、私は帰ります」
「そうですか。それじゃあさようなら」
名江は小春に一礼すると、本屋の中に消えていった。
小春は本屋に背を向けて、家路についた。
夕間暮れ、小春は自作の料理ノートを広げた。和食は実家で宿泊客に提供していたものを書きとめ、洋食は雑誌に載っていたものを切り抜いて貼り付けた。
コロッケのページを開く。雑誌に載っていたのだから、不味いものではないはず。
小春は調理方法を念入りに確認しながら、調理を進めた。
完成したコロッケは、きつね色に揚がっていておいしそうだ。味見用のコロッケを食べてみる。衣はサクッといい食感で、中はほくほくで美味だった。これなら、彼も不味いと言わないだろう、と思う。
夕食作りを終えて居間にいると、廊下から足音がした。雅臣が帰宅したようだ。小春はちゃぶ台に夕食を並べ始める。
並べ終わったのとほぼ同時に、背広から着替えた雅臣が居間に入ってきた。
「お帰りなさいませ」
雅臣は無言のままちゃぶ台の前に腰を下ろした。つまらなさそうな顔をして、眼前のコロッケを見つめている。
「これ、コロッケです……」
「それくらい分かる」
雅臣は冷たく言うと箸を取り、コロッケを口に運んだ。咀嚼し、飲み込んでも表情は何一つ変わらない。美味しいのか不味いのか分からない。
小春は手を合わせ、コロッケに箸を伸ばした。味見のときは美味しいのに、雅臣と一緒に食べると不思議と不味く感じる。
雅臣は美味いとも不味いとも言わず完食した。
口に合っていたと思いたい。空になった皿を見て、小春はまた作ってみようと思いながら、皿を片づけた。




