六話
母屋に食器を返し、洗濯も終わった。十時を過ぎたし、そろそろ買い物に行こう、と思っていると、
「若奥様~」
玄関のほうから女の大声が聞こえた。
小春は急いで玄関に向かう。
「はい」
戸を開けると、二十路くらいの小柄な婦女子が立っていた。
「こんにちは!」
彼女の声はよく通り、溌剌としている。この声から大声で呼ばれれば、家のどこにいても聞こえそうだ。
「こんにちは……」
誰だろう。考えながら、彼女の顔をじっと見つめる。
「私、池内家女中の園生名江です」
小春が名を尋ねる前に、名江は自己紹介をしてくれた。
「佐野……」
小春は頭を振る。昨日まで佐野だったから、佐野と言ってしまいそうになる。
「池内小春です」
「はい、知ってます!」
と、名江は笑顔で頷いた。天真爛漫で裏表がなさそうな子だ。
「若奥様、一緒に買い物に行きませんか?」
断る理由も特にないし、
「いいですよ」
と、小春が言うと、名江はやった、と嬉しそうに目を細めた。二十路くらいに見える風采だが、まだ十五、六歳なのだろうか。
「すぐ準備しますから」
「はい。お願いします!」
小春は家の中に引っ込む。財布と買い物カゴを持ち、名江の元に急いだ。
「さあ、行きましょう!」
二人は肩を並べて、商店街へ歩みを進めた。
今日は雲一つない青空だ。太陽光を遮るものが何もない。洗濯物がよく乾きそうだ。
「若奥様って、おいくつなんですか?」
「二十二です。名江さんは?」
「私は十九です」
小春の予想は当たっていた。ただ名江が子どものように無邪気なだけだった。
「あの、若奥様なんて呼ばなくていいですよ」
昨日までは「小春ちゃん」や「お嬢さん」だったのに、急に「若奥様」なんて呼ばれるのは慣れないし何となく嫌だった。
「それなら、小春さんって呼びますね。小春さんも、私のことを『さん』付けで呼ばなくていいですよ」
「じゃあ私は名江ちゃんって呼びますね」
「はい。そっちのほうがいいです」
名江はこくりと頷くと、
「新婚初夜ってどんな感じでした?」
表情一つ変えずに訊いてきた。
「ど、どんな感じって……」
急に話は変わるし、何より直球すぎる。小春は全身がカッと熱くなった。耳の先まで真っ赤になる。
「先輩たちが雅臣さまを見かけたあと、ニヤニヤしながらこそこそ話してたんですよ。『どんな感じだったんだろうね』って」
小春は話に加わったことはないが、佐野旅館の女中たちも卑俗な話をしていた。どこも似たような話で盛り上がるようだ。
「私も来月お嫁に行くから、ちょっと気になって」
先輩女中のために尋ねてきたのかと思ったが、名江自身も興味があるようだ。昨夜は自分が泣いて中断したことなんて言えないし、仮に契りを交わしたとしても言うわけがない。
「絶対に秘密です!」
小春は語尾を強めて言った。
「やっぱりそうですよね。新婚初夜の話なんて、人にするようなことじゃないですよね」
名江は物わかりがよさそうで安堵する。
その後も話ながら歩き、二人は道に沿って店が建ち並ぶ商店街に入った。そこら中から、買い物客と商人の会話が聞こえてくる。
「小春さんは、何を作る予定ですか?」
「昼は私しかいないので簡単なものにして、夜は鯖の味噌煮にしようかと思います」
鯖の味噌煮は、実家の旅館で鍛えた得意料理だ。これなら、雅臣に出しても恥ずかしくない味だと思う。
「いいですねー。私は鰤を頼まれているので、早速魚屋に行きましょう」
と、二人は魚屋に向かった。
「あら、佐野さんのお嬢さんと池内の女中さん、いらっしゃい」
実家にいた頃、小春もよく買い出しに来ていたから、ここの夫妻とは顔見知りだ。
「もう佐野さんじゃなくて、池内さんだろ」
店主がすかさず言う。
「ああ、そうだった。ごめんなさいね。池内の若奥様」
ははっ、と小春は苦笑を浮べる。池内の若奥様なんて、あまり言われたくないが、事実なので仕方がない。
小春は鯖を、名江は鰤を買って魚屋を後にした。
小春はその後、豆腐、味噌、調味料など、差し当たり必要な食品の買い出しを終えた。
次の買い物を、と思っていると、
「ちょっと寄ってもいいですか?」
と、名江が本屋の中に入っていった。小春もついて行く。
名江は婦人向けの雑誌を手に取った。買うのかと思ったが、その場で読み始める。
『長時間の立ち読みはご遠慮ください』と張り紙がされている。店の奥からわざとらしい咳払いが聞こえてきたが、名江はページをめくる手を止めない。
「私、他にも買う物があるので行きますね」
「分かりました」
名江は雑誌から視線を上げずに言った。
小春は名江を残し、本屋を出た。雅臣の弁当箱と冷蔵庫に入れる氷を買って帰宅した。
昼食を食べ、掃除をし、洗濯物を畳み、風呂の準備をして。あれこれ家事をしていると、十七時半になっていた。そろそろ、夕食の準備に取りかからなければならない。
小春は買ってきた鯖の調理を始めた。
鯖を煮ながら、味噌汁も作る。
煮立たせた鯖に味噌を入れ、落としぶたをして煮ること十分。味噌煮の完成だ。味見をしてみる。上手くできた。これなら不味いとは言われないはず。
夕食の準備が終わり居間に行くと、雅臣が帰ってきていた。胡座をかき、本を読んでいる彼は、もう背広から着物に着替えている。いつも本を読んでいる彼は、読書家のようだ。
「お帰りなさいませ」
雅臣は本から視線を上げず、何も言わなかった。像に挨拶したみたいに思う。
「もう夕食にしますか?」
「ああ」
雅臣は視線を下げたまま、短く言った。
「今すぐ準備いたします」
居間と台所を三往復し、ちゃぶ台に夕食を並べ終えた。
雅臣は箸を手に取ると、さっそく鯖の味噌煮を口に運んだ。小春は雅臣の顔を一瞥した。彼の表情は硬い。不味いのかな、と不安になってしまう。
雅臣は小春の視線に気がついたようで、こちらをぎろりと見た。
「何だ?」
「お口に合わないのかと思って……」
「いちいち味の感想なんぞ言うわけがないだろう」
「申し訳ございません」
小春は謝った後、手を合わせ、箸を持った。鯖の味噌煮を口に入れ、咀嚼する。なぜか、味見したときより美味しいと思えなかった。
夕食後の皿洗いも終わった。居間を覗くと、雅臣はまだ風呂から上がっていなかった。
今のうちに布団を敷いておく。今晩、昨夜の続きを行うことになっても、泣かないで我慢する。
居間に戻り、明日の朝食と、雅臣に持たせる弁当のおかずを考える。早起きして大根を煮て、卵焼きを作って、それから何を作ろうか。
思案していると、雅臣が戻ってきた。
雅臣は無言のまま腰を下ろし、鋭い眼光をこちらに向けてきた。彼の頬はよく紅潮している。もしかして、熱すぎたのだろうか。
「湯加減、お気に召さなかったですか?」
小春は首をすくめ、視線を左右に揺らす。雅臣は閉じていた唇を動かした。
「さっさと風呂に入れ」
文句ではなかった。小春は胸をなで下ろす。
「はい。入って参ります」
雅臣の指示に従い、小春は風呂場に向かった。
湯船に浸かってゆっくり献立を考える時間を取らず、素早く入浴を済ませた。
居間に雅臣の姿はなかった。
寝床に行ってみる。雅臣はすでに床についていた。どうやら、昨晩の続きを行う気はないらしい。
「おやすみなさいませ」
小春は蚊の鳴くような声で言って、床に入る。今日一日で疲れが溜まってしまったからか、気絶したように眠った。




