五話
翌朝。
小春は目を擦りながら、むくりと起き上がる。途中、何度か起きたから熟睡できておらず、昨日の疲れが取れていない。
隣をちらりと見る。雅臣は昨晩と同じ体勢で眠っていた。起こさないよう、小春は音を立てないように気をつけて寝床を出た。
与えてもらった部屋で着替えて、外に出た。白んだ空を見上げ、母屋に向かった。
新居に食料がないから、今日の朝食は池内家の女中が準備してくれる。
母屋の台所を覗くと、三人の女中が忙しなさそうに動いていた。炊きたての米と、焼き魚の匂いが鼻をくすぐる。
「おはようございます……」
控え目に挨拶すると、一人の女中が小春に気がついた。
「若奥様、おはようございます」
あと二人も挨拶してくる。
「もうすぐできますので、少しお待ちください」
早くきてしまったようで申し訳ない。
「私も何かしたほうがいいですか?」
「お気遣いありがとうございます。本当にもうすぐできますので、大丈夫です」
と、女中は調理に戻った。
小春は台所から顔をひっこめる。背中を壁に預け、じっと正面の壁を見つめた。
十分後。
「お待たせいたしました」
と、女中が台所から出てきた。手元の盆には、つやつやと輝く白米、いい焼き色がついている鮭、味噌汁と漬物が載っている。もう一人、同じ物を持った女中が出てくる。朝からしっかりとした食事だ。
「お運びいたします」
「お願いします」
小春が先頭を歩き、家に向かう。人について歩くことが多かったから、後ろをついてこられるのはむずがゆい。
女中たちは居間のちゃぶ台に朝食を並べると、帰って行った。
あと足りないものは茶だ。小春は台所に向かう。
湯を沸かし、茶を入れて居間に戻ると雅臣がいた。彼は昨晩と同じ本を読んでいる。
「おはようございます」
言いながら茶を雅臣の前に置いた。挨拶は返ってこなかった。
「あの、雅臣さん……」
雅臣は本から視線を上げると、小春をぎろりと睨んだ。昨晩のことを怒っているのか、機嫌が悪そうだ。
「『さま』と呼ばないか」
「あっ、申し訳ございません」
小春は肩をすくめ、頭を下げた。ふみは明雄のことを「明雄さん」と、義姉も泰樹のことを「泰樹さん」と呼んでいた。だから、「さん」でいいと思っていたが、雅臣は「さま」でないといけないようだ。
「雅臣さま、昨晩は……」
「昨日の話なんぞ、聞きたくもない」
やはり昨晩のことが気に障っているようだ。
雅臣は本を勢いよく閉じて畳の上に置くと、朝食に箸を伸ばした。小春は手を合わせ、朝食を口に運ぶ。
居間には、振り子時計の音とわずかな咀嚼音しか音がない。何とも食べづらい。佐野家の食卓も似たようなものだったが、食べづらさを感じたことはなかった。
味もよく感じないまま、小春は朝食を完食した。
食事を終えた雅臣は本を片手に部屋から出て行った。小春は食器を重ね、流し台に持っていく。皿を水に浸けて居間に戻ると、雅臣が戻ってきていた。さきほどまで着ていなかった、背広の上着を着ている。
雅臣は背広のポケットから財布を取り出すと、それを小春に差し出した。
「一ヶ月の生活費だ」
「はい」
小春は財布を受け取る。いくら入っているのだろう。ずっしりと重かった。
「今日さっそく買い物に行って、明日から俺の弁当を作れ」
「承知しました」
「米と野菜はあとで誰かが持ってくるだろうから買うな」
「はい」
「金が余ったら、髪飾りでも化粧品でも好きなものを買え」
「はい。ありがとうございます」
雅臣は時計を一瞥すると、畳の上の本を拾い上げた。
「俺はもう行くから、見送れ」
「はい」
小春は雅臣の後ろをついて行く。雅臣は家の中でも顎を上げて歩いている。高圧的で感じが悪い歩き方が、体に染みついているようだ。
「いってらっしゃいませ」
と、小春は雅臣の背を見送った。玄関戸がぴしゃりと閉まる。彼から「行ってくる」の一言すらなかった。
小春はふっー、と息を吐いた。雅臣と朝を過ごしただけなのに、一日中忙しなく働いたような疲労感がある。雅臣の仕事が休みで、一緒に家で過ごす日のことを考えると、憂鬱で仕方がない。小春は今度、ため息をつき台所に向かった。
母屋に返す皿を洗う。このあとは、洗濯をして干して、買い物に行って、掃除もして。やるべきことが山積みだ。
洗い終わった皿の水滴を布巾で拭いていると、勝手口の磨りガラスに人影が浮かんだ。
「小春殿、いらっしゃいますか?」
これは智紘の声だ。小春は皿と布巾を置き、勝手口を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます。米と野菜を持ってきました」
背広姿に似合わず、智紘は大八車を引いていた。大八車には、米袋と大量の野菜が載っている。
「ありがとうございます」
「中に運び込みますね」
「お願いします」
智紘は、中身がぎっしり詰まっていそうな米袋を持ち上げた。細身だが、力はあるようだ。
小春は智紘をちらりと見た。彼の名が智紘ということは知っているが、名字は知らない。
「あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
米袋を抱える智紘に訊く。
「そう言えば、俺は自己紹介をしていませんでしたね。藤林智紘と申します。気軽に智紘と呼んでいただいでも結構ですよ」
智紘はにこやかに笑った。雅臣よりも智紘のほうが、遥かに感じがいいし穏やかそうだ。雅臣がこんな性格ならいいのにな、と小春は思う。
小春は外に出て大八車に寄った。タマネギを抱えて家の中に運ぶ。どれも形がよくて立派だ。
「俺が運び込みますから、小春殿は自分のことをやってください」
「いえ、持ってきてもらっているので私も運びます。それに、智紘さんもこの後お仕事に行くのなら、早く運んでしまわないと」
「俺の仕事は、母屋で雅臣と一緒に池内家の小作人の管理ですから。時間はたっぷりあります」
母屋で雅臣と一緒に仕事。やはり彼は、雅臣専用に使用人のような立場なのだろうか。小春は思ったが、深く訊けなかった。
二人は黙々と野菜を運び入れた。様々な野菜が並んだ台所は、八百屋のようになった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
智紘は会釈をすると、空になった大八車を引き、帰って行った。
小春は勝手口を閉め、残りの皿を拭き上げた。




