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二話

 茶会からちょうど一週間後の日曜日。小春は厨房に立ち、宿泊客に提供する夕食の仕込みをしていた。

 野菜を切っていると、騒がしい足音が聞こえてきた。

 何かあったのかな。騒がしい原因を気にしながらも、手を動かし続ける。

 足音はどんどんこちらに近づいて来る。明雄が厨房に顔を出した。

「小春はいるか!」

 妙に声がうわずっている。

「はい」

 小春は包丁を動かす手を止めた。

 何かしでかしていたから怒鳴りにきたのかも。恐る恐る明雄に視線をやる。

「池内さんがお見えだ。着替えて客間に来い」

 どうして自分が町長と会わないといけないのか。疑問に思ったが、父の命に従うしかない。

「はい」

 と、応答する。

「あと誰か。至急、客間に茶を五つと茶菓子を運べ」

 ちょうど急須を持っていた女中が承知した。

「小春も急げ」

 明雄は言うと、厨房から出て行った。また騒がしい足音を立てながら遠ざかっていく。

「続きをお願いします」

 隣にいた女中に仕込みを頼み、小春は厨房を出た。

 自室に入って割烹着を脱ぎ、仕事着から普段着に着替えて客間に向かう。

 突然の町長の来訪。日曜日、町長は休日だ。公務ではなく、私用でやって来た。もしかして、先週の茶会で無愛想にしていたことを咎めに来たのかな。急に不安になってしまい、客間に向かう足が重くなる。

 襖の向こうから、明雄と雅康の笑い声が聞こえてきた。どうやら、私憤を晴らしに来たわけではなさそうだ。ますます、自分が呼ばれた理由が分からない。

「失礼します」

 小春は言って襖を開けた。

 客間には両親、雅康、雅臣親子が卓を挟み向かい合って座っていた。父子で来ているとは思わなかった。雅臣に無愛想な対応をしたのは自分だけだろう。雅臣はそのことが癇に障り、私憤を晴らしに来たのか。

「こっ、こんにちは」

 小春は頭を下げて、客間に入った。

 こんにちは、と雅康からしか返ってこなかった。挨拶も返してこない雅臣は、感じが悪い。小春が茶会で無愛想にしたから、そのお返しだろうか。

 両親の間の座布団が空いていた。おまえの席だと、言われなくても分かった。小春はそこに腰を下ろした。真正面には雅臣がいる。雅臣は座位でも顎を上げていて、見下したようにこちらを見てくる。

 暴君とは顔を合わせていられない。小春は視線を下げる。卓上の湯飲みには、薄緑色の茶がたっぷり入っていた。

「小春さん」

 と、早速、雅康から話しかけられた。

「はい」

 視線を上げる。

 雅康は、雅臣を一瞥して口を開いた。

「雅臣が小春さんを妻にしたいと」

 信じられず、小春は目を見張った。彼を囲っていた娘は数多いた。彼女たちは妻になりたかった人たちのはず。自分は妻になりたくなかったから、あの輪には入らず、庭の隅から眺めていただけ。それが反対に印象に残って、気を損ねたからわざと私を選んだの? それなら悪趣味すぎる。でも、彼は暴君って噂だから……。

 小春の気持ちなどつゆ知らず、明雄は目をらんらんと輝かせ、

「それはありがたい話です!」

 と、この場にいる誰よりも喜んでいる。ふみは状況をつかめていないようで、きょとんとしている。

「次の縁談で決めようと思っていたところなんです。うちの娘をぜひお願いします!」

「それはよかった」

 雅康は相好を崩し、茶を一口すすった。

「では早速、祝言の日取りを決めましょうか」

 婚姻に小春の意思は確認されなかった。明雄と雅康の二人で、勝手に祝言の話を進める。小春は蚊帳の外で、話を聞くことしかできなかった。

 話はすんなりまとまり、祝言は来月の第一日曜日に決まった。

 池内親子を見送ったあと、三人は居間に行った。小春は背中を丸めて、ふみの傍らに立つ。

 三日後、ふみの知り合いの息子と見合いをすることになっていた。小春は控え目という彼の元に嫁ぐつもりでいた。それなのに、池内雅臣のところに嫁ぐことになるなんて、思いもしなかった。崖から突き落とされ、地面を突き破り奈落の底まで落ちた気分だ。

「あまりにも勝手すぎませんか?」

 ふみが明雄に噛みついた。小春は、ふみが明雄に噛みついたところを初めて見た。

「黙れ!」

 明雄は唾を飛ばしながら顔を歪めた。唾がふみの頬につく。

「小春は、町長のご子息のような方は苦手だと知っているでしょう? 可哀想だと思わないのですか?」

「軟弱なやつは男じゃない。池内さんのご子息こそ、素晴らしい男だ」

「私は、顎を上げてずっと威圧的な目をしていた彼が、素晴らしいとは思えませんでした」

 明雄の手がふみの頬をぶった。パン、と短い音が小春の脳内に響く。今まで聞いたどんな音よりも、不快な音だった。

 膝をついたふみは、頬を押さえながら明雄を睨みつけた。明雄は右の口角を上げて冷笑すると、何も言わずに居間から出て行った。

「お母さん……」

 小春はふみの背中をさすった。ふみは立ち上がると、小春と向き合った。

「私は大丈夫」

 と、こぼれ落ちそうになる涙を堪えながら、笑顔を見せた。気丈に振る舞うふみの姿に、小春も涙腺が刺激される。

「私よりも小春が可哀想だよ」

 ふみは小春を抱擁した。子どもの頃、よく抱擁してもらっていたことを思い出す。ぬくもりは十数年経っても変わらない。けれど、あの頃のむっちりとした肉感はない。気苦労が多いからか、ふみは痩せ細っていた。

「守ってあげられなくてごめんね」

「お母さんが謝らないで」

「いや、謝らせて」

 ふみの抱擁が強くなる。小春はふみを抱き返した。今日の母の温もりは絶対に忘れない、と思った。

 ほどなくして、二人は抱擁を解いた。

 小春は自室で仕事着に着替え、厨房に戻った。一歩厨房に入ると、女中たちから囲まれた。

「おめでとう!」

 祝福の言葉が、雨のように小春に降り注ぐ。明雄がもう言ったのか、雅臣との縁談話は、もう女中たちに広まっていた。

「ありがとうございます」

 小春は無表情で言う。

「もっと、嬉しそうにしなさいよー」

 先輩女中が二の腕を叩いてくる。これっぽっちも嬉しくないから、喜色を浮べることができない。

 小春を囲う女中たちは、縁談話に花を咲かせている。話に加わる気にならない。敵に囲まれて孤立した兵士の気分だ。

 この輪から抜け出したい。流し台をちらりと見ると、湯飲みがまだ洗われていなかった。小春は輪の中心から脱出し、彼女たちに背を向けて洗い物を始めた。

「私、町長の息子さんがどんな人か知らないです」

 小春より一つ下の女中が言った。

「見かけたことあるけど、なかなか男前な人だよ」

「えー、羨ましいです。私も男前な人と結婚したいです」

 代われるものなら、喜んで代わってあげる。そして、これから私が味わうであろう苦しみを代わりに引き受けて。

 黒くドロドロとした怒りが、小春の胸中を満たす。やり場のない怒りで、湯飲みを洗う手に力が入る。

 怒りにまかせ、雑に湯飲みを洗っていると手が滑った。

ガシャン。音と共に、女中たちの会話も止まった。

 灰色の流し台の中、無残に砕け散った湯飲みの破片が散らばっている。

「すみません!」

 小春は破片に手を伸ばした。近くにいた女中も、破片拾いを手伝ってくれた。

 スパッと、指先にわずかな痛みを感じた。地表に水がしみ出すみたいに、ゆっくりと血がにじむ。気をつけていたのに、割れ口を触ってしまったようだ。

「私が片づけておくから。小春は傷の手当てをしておいで」

「……すみません。お願いします」

 小春は厨房を出て居間に向かった。

 傷口に薬を塗り、綿紗を巻き付ける。小さかった痛みは熱を持ち、ずきずきと脈打つような痛みに変わった。


 翌朝、小春は一人で居間にいた。時計に目をやる。六時十五分。本来なら厨房に立ち、宿泊客の朝食を作っている時間だ。

 小春がここにいるのは、明雄の命令だ。

 昨晩から明雄が別人のようになった。来客用の高級湯飲みを割っても怒られなかったし、指先を切ったことを心配された。前、湯飲みを割ったときは『鈍くさい』となじられ、新品を買った代金を給金から引かれた。

『おまえはもう働かなくていい。嫁に行くまで、怪我をしないように大人しくしていろ』

 小春は小学校を卒業してから、花嫁修業といって料理、掃除、洗濯などの仕事を主にさせられた。朝から晩まで働かされ、毎日くたくた。体がきつくても、『嫁に行ったら、休みなんてない』と休みはもらえなかった。

 町長の息子と縁談が決まったことが、そんなに嬉しいのか。あまりの変貌に、小春は恐怖感を覚える。

 また時計に視線をやる。あれから三分しか経っていなかった。

 何もしないもの時間が経たなくて苦痛だ。この苦痛を約一ヶ月耐えたあと、暴君の元に嫁ぐ。さらに苦痛な時間が待っているだろう。この先の人生を考えると、憂鬱でため息しか出なかった。

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