十五話
翌朝、小春が目を覚ましたとき、雅臣はまだ気持ちよさそうに眠っていた。素でいることを決めた彼の寝顔は、心なしか安らいでいるように見える。しばし雅臣の寝顔を眺めてから、寝床を出た。
朝食と雅臣の弁当を作っていると、匂いにつられてかユキが台所にやって来た。
ユキは足を揃えて座ると、小春をじっと見つめた。餌がほしい、と訴えられている気がした。
小春は、炊きたてのご飯に作りたての味噌汁をかけて、ねこまんまを作って出してやった。ユキは器に顔を突っ込んで、夢中で食べ始める。
調理を再開すると、
「おはよう」
と、背後から雅臣の声がした。調理を中断して振り返る。
「おはようございます」
ただ朝の挨拶をされただけなのに、気持ちよく感じる。
「もうすぐできますので、少々お待ちください」
居間に戻るのかと思ったが、雅臣は台所に入ってきた。雅臣は盆を持つと、その上に卵焼きを載せた。
「運べるものから、居間に運んでおくよ」
「私が運びますから、雅臣さんは運ばなくていいですよ」
「台所と居間を何往復もするのは、たいへんだろう? 俺もできることはするから」
雅臣は卵焼きを持って出て行った。昨日まで、上げ膳下げ膳をしてもらっていたのが嘘のようだ。でも、こっちが雅康の理想を演じていないありのままの雅臣なのだろう。
小春も早急に調理を済ませ、朝食を居間に運んだ。
ちゃぶ台に全てが並び、二人は手を合わせた。
雅臣は味噌汁をすすると、
「美味しい」
と、つぶやいた。つぶやきでも、美味しいと言ってもらえるのは嬉しい。
素の彼になら訊ける。
「あの、雅臣さんはどうして私を妻に選んだんですか? 絶対に選ばれないよう、雅臣さんに話しかけないようにしていたのに」
小春が問うと、雅臣は箸を置いた。
「俺に興味がなさそうだったから。たくさん話しかけてくる娘だと、ぼろが出そうだと思ったんだ」
「それで私を……」
疑問がようやく氷解した。確かに、自分は怖かったから、夫婦になっても雅臣に極力話しかけなかった。あのとき、雅臣を囲っていた婦女子たちはどうだろうか。きっと一生懸命話しかけて、彼を楽しませようとするだろうな、と小春は思った。
「小春のことはよく覚えているよ。木の下で一人、つまらなさそうにしてたからさ」
人と違う行動を取ることは、強く記憶に残るようだ。
「あの輪の中にいなかった小春からすれば、自分が選ばれるなんて不思議に思うよね」
「はい。私が茶会のときに無愛想にしていたことが気に障ったから、意趣返しでわざと私を選んだのかと思っていました」
「意趣返し?」
雅臣は、ははっと笑い声を上げた。
「そんな理由で、生涯の伴侶を選ぶ人なんていないだろう」
「風の噂で、雅臣さんのことを暴君みたいな人と聞いていたので、あり得るのかなと思っていました」
「暴君か」
雅臣は物憂げな顔でぽつりと言った。
「ああ、すみません。暴君なんて言ってしまって……」
「謝らなくていいさ」
雅臣は微笑みを向けてくれた。
「茶会のときの俺、小春はどう思った?」
「感じが悪いなと思いました」
「そうだろうね。俺、あの日は頑張ったんだから。人生で一番疲れた日だよ」
雅康の目に加え、茶会に列席した人々の目もある。雅康はいつも以上に目を光らせていただろう。あの場で、素の自分とかけ離れた人物像を演じることは、心身にどれだけ負担がかかるだろうか。茶会の翌日、疲れて机に突っ伏していたというのもうなずける。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
雅臣は言うと、箸を手に取った。
小春も箸を持つ。卵焼きを口に運んだ。砂糖を入れすぎたつもりはないが、いつもより甘く感じた。
「今日の卵焼き、甘過ぎますか?」
小春が問うと、雅臣は卵焼きを口にした。
「いや、いつもと変わらないよ」
小春は小首を傾げ、再び卵焼きを口に運んだ。よく噛み、しっかりと味を確かめる。
「やっぱり私には甘く感じます」
「そう?」
と、雅臣も小首を傾げた。
小春は雅臣を見て思った。昨晩の鯖の味噌煮も作り方と材料を変えていないのに、美味しく感じた。卵焼きが甘く感じるのは、彼が素になって食卓の雰囲気が変わったから。これはきっと幸せの味だ。幸せが味を変えているんだ。
小春はまた卵焼きを食べた。口いっぱいに、甘く幸せな味が広がった。
朝食後、雅臣を見送るため、玄関に向かった。
背広の上着を取りに部屋に行ったとき、手に取ったのだろう。雅臣は自作の本を持っていた。家の中では必要ないが、母屋に持って行くようだ。
靴を履いた雅臣に、小春は弁当を渡す。
「どうぞ」
「ありがとう」
雅臣は小春の目を真っ直ぐに見て、はにかんで笑った。
「いってきます」
「いってらっしゃいませ」
小春は体を折り曲げた。こちらを向いていた爪先が反対を向く。革靴のかかとが三和土を鳴らす。
玄関戸が閉まる音を聞いて、小春は顔を上げた。磨りガラスに映る人影が遠ざかっていく。
仕事に行く夫を妻が見送る。何の変哲もないやり取りだ。小春は昨朝も雅臣を見送った。けれど、昨朝とは少し違う。雅臣からの礼と挨拶、加えて笑顔もあった。それだけで小春の胸は幸せで満たされた。
小春は家の中へ振り返る。台所に向かう足取りは、踊っているみたいに軽やかだった。
皿洗いを終え、小春はふと窓の外を見た。ガラスの向こう側には、どこまでも澄みきった青空が広がっていた。




