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十四話

 十八時になった。

 もうすぐ雅臣が帰ってくる。小春は居間で雅臣を待つ。

 時計の振り子がゆっくり聞こえるほど、心臓は速く脈打っている。深呼吸をしても、落ち着いてくれない。

 襖が開いた。雅臣が部屋の中に入ってきた。小春は立ち上がる。心臓がうるさい。

「お帰りなさいませ」

 雅臣の目を真っ直ぐ見て言った。険しい顔の雅臣が、こちらに向かって歩いてくる。

 正面に雅臣が来た。雅臣は険しい表情を保ったまま、ぎゅっと瞼を閉じた。

 小春は唇を舐め、喉をごくりと鳴らす。いつもと様子が違う。もしかして素になってくれるのかな。期待がむくむくと膨らむ。

 雅臣がゆっくりと瞼を開いた。険しかった表情は消え、別人に生まれ変わったように柔らかな顔になった。

「……ただいま」

 抱きしめられ、耳元で言われた。彼の熱が伝わってくる。

 突然の抱擁に小春は硬直した。抱きしめられるなんて全く予想していなかった。体も熱くなる。

「ずっと苦しかっただろう? ごめん」

 抱擁が強くなった。体がぴったりと密着する。自分の速い心音を雅臣に聞かれそうだ。

「雅臣さま……」

「『雅臣さま』なんて言わないでいい。初めて名前を呼んでくれたときみたいに、『雅臣さん』って言ってほしい」

「あの、雅臣さん……、抱擁が苦しいです」

 熱い抱擁は嬉しいが、窒息しそうだ。

「ああ、ごめん!」

 抱擁が解かれた。肺に酸素を目一杯取り込む。

 小春は雅臣の顔を見上げた。頬を紅潮させた彼と目が合う。優しい微笑みを向けてくれた。暴君の面影は見当たらない。

 しばし、見つめ合う。優しい表情の彼ならいくらでも見ていられる。

 先に目をそらしたのは雅臣だった。

「背広から着替えてくるよ」

 雅臣は恥ずかしそうに言って、居間から出て行った。

 小春は台所に向かった。茶を入れる。

 湯気が揺れる湯飲みをお盆に載せて居間に戻ると、雅臣と同時だった。雅臣はいつも読んでいる本を持っていた。

 二人は座布団に腰を下ろす。

「お茶をどうぞ」

 湯飲みを雅臣に差し出す。

「ありがとう」

 雅臣は言って茶に口をつけた。今まで礼なんて言われたことがないから、新鮮に感じる。

 小春も一口すすった。茶の渋みが口内に広がる。

 どちらも口を開かないから、沈黙が流れる。だが、今朝までの息がつまるような重苦しい沈黙と違う。何を話そうか、思案している沈黙だ。

 茶を飲み干した雅臣が口を開いた。

「昼間に智紘が来ただろう?」

「来ていません」

 小春は瞳を左右に揺らす。ここに来たことを雅臣には言わない約束だ。

「まあ、約束してるか。『俺がここに来たことは絶対に秘密にしてください』って」

 驚いた小春は目をまん丸にし、しきりに瞬きをした。智紘が帰り際に言ったことと、一言一句違っていない。まるでその場にいて聞いていたみたいだ。

「図星?」

 小春は何も言わずに目をそらした。その仕草は肯定しているのと同じだ。

「やっぱり智紘はここに来たのか」

 雅臣は肯定と受け取った。後ろに手をつくと、顔を天井に向けた。

「腹が痛いなんて嘘だと思った。厠に様子を見に行ったらやっぱりいなかった。玄関を見たら靴がなかった。どこかに行くとしたら、ここしかないだろうなって」

「智紘さんのこと、よく分かってるんですね」

 あっ、と小春は口に手を持っていく。つい口が滑ってしまった。

「ほら、来てた」

 雅臣はふっと笑った。

「智紘さん、ここに来ましたよ」

 自分の失態だから、小春は白状した。

「しかも、さっき雅臣さんが言ったのと全く同じことを言って帰りました」

「智紘とは小学生の頃から一緒にいるから、何となく分かるんだ」

 心が繋がっているのか、互いのことが分かるようだ。

「俺が急に変わったら小春が驚くだろうから、俺のことを話に行ったんだろうなって」

 雅臣はちゃぶ台の上にいつも読んでいる本を置くと、めくって見せてくれた。箇条書きで書かれた文は、小説ではなかった。『丁寧な言葉は極力使わない』など、注意事項のようなものが書かれている。

「これ、父さんが理想とする男の振る舞い方が書いてあるんだ。内容は智紘がほとんど考えてくれた。父さんの理想は『威厳をまとって人を圧倒し、従わせられる強い男』。恥ずかしい話、俺はこれがないと父さんの理想を演じられないんだ」

 雅臣は首を触りながら言った。

「私はお義父さんが理想とするような男性よりも、雅臣さんのような穏やかで優しい男性のほうが好きですよ」

 小春は雅臣の横顔を見ながら言った。雅臣は口元を緩めると、首を掻き出した。照れているようだ。その姿が小春にはかわいらしく見えた。

「嬉しいよ」

 雅臣は小声で言って、本を閉じると、それをちゃぶ台の下に置いた。二人きりのときは、もうこの本は必要ない。

「猫、いるんだろう?」

「はい。います」

「家の中に入れて飼ってあげよう」

「でも、雅臣さんは動物が嫌いなんじゃないですか?」

 小春は、雅臣が『畜生なんぞ大嫌い』と言ったことを覚えていた。大嫌いというのは本心かもしれない。

「いいや」

 と、雅臣は首を振った。

「嫌いじゃない。あれも父さんの理想を演じていただけ。父さん、動物が大嫌いだから世話をするな、かわいがるなって言うんだ」

 雅康の理想の男は、動物の世話をし、愛でることもダメなようだ。

「猫、早く連れておいで」

「はい」

 小春は縁側に急いだ。

 縁の下に棒を突っ込んで、鳥カゴを引き寄せた。狭い鳥カゴの中からユキを出してやる。

「よかったね。今日から自由に動き回れるよ」

 居間にユキを連れて行き、畳に下ろす。ユキは室内をきょろきょろ見回すと、雅臣の側に寄った。ためらいなく雅臣の膝をよじ登る。どうやら彼に興味があるようだ。

「はは、かわいいな」

 雅臣は目を細めながらユキの頭を撫でた。

「この子に名前はある?」

「ユキです」

「ユキか。雪みたいに真っ白な子だし、ぴったりな名前だな」

 雅臣はユキの横腹を抱えると、顔の高さまで持ち上げた。

「ユキ、山に捨てて悪かったな。酷い俺を許してくれるか?」

「ニャー」

 ユキは間髪入れず、答えるように鳴いた。

「ありがとうな」

 雅臣はユキを膝の上に乗せると、また頭を撫でた。

「今までどうやって飼ってたの?」

「縁の下に丸型の鳥カゴがあったので、その中に入れていました」

「多分それ、母さんと俺がこっそり文鳥を飼ってたときに使ってたやつだ。あの鳥カゴ小さいから、ユキには狭かっただろ? 可哀想に」

 雅臣は眉尻を下げて言うと、ユキを畳の上に置いた。

「自由に動き回れよ」

 ユキは廊下に出た。玄関と反対のほうにてちてちと歩いていく。家の中を探検するようだ。

「猫は閉じ込められるよりも、歩き回りたいだろうな」

 廊下を見る雅臣の目は、慈愛に満ちていた。本当に優しい人なんだろうな、と小春は雅臣の横顔を見て思う。

 盛大な腹の音が居間に響いた。小春ではない。雅臣は腹を押さえると、恥ずかしそうに笑った。

 時計を見ると、十九時前だった。いつもなら、もう夕食を食べ終えている時間だ。

「夕食にしましょうか」

「この香ばしい匂いは鯖の味噌煮?」

「はい。準備しますね」

 小春は急いでちゃぶ台に夕食を並べた。

 いただきます、と二人は手を合わせた。雅臣は鯖の味噌煮に箸を伸ばした。小春は雅臣が食べる様子をじっと見つめる。

「美味しいですか?」

 雅臣が飲み込んでから訊いた。雅康の理想を演じていない雅臣なら、答えてくれるはずだ。

「美味しいよ」

 雅臣はにこやかに言うと、鯖の味噌煮をどんどん口に運んだ。

「嬉しいです」

 雅臣の言葉を反芻する。望んでいた言葉に、心はじんわりと温かくなった。小春も鯖の味噌煮を口に運んだ。材料も作り方もいつもと全く同じなのに、今日は一段とおいしく感じた。

 夕食後、皿洗いを終えて居間に戻ると、雅臣は夕刊を読んでいた。まだ風呂に入っていないようだ。

 雅臣は小春に気がついたようで、新聞から顔を上げた。

「先に風呂に入っておいでよ」

「雅臣さんがお先にどうぞ」

 盗み聞きで、雅臣が自分に先に風呂に入ってほしいことを知っている。けれど、仕事をして帰ってきた雅臣より先に入るのは、申し訳なく思ってしまう。

 雅臣は立ち上がると、小春の背後に回った。肩に手を置かれる。

「遠慮しないで」

 小春は後ろから肩を押され、廊下に出された。

「ほら、入っておいで」

 どうしても先に入ってほしいようだ。ここで断ると、風呂場まで肩を押されて連れて行かれそうだ。

 小春は雅臣と向き合う。

「お言葉に甘えて、先に入らせていただきます」

「俺のことなんて気にしないで、ゆっくり入るんだよ」

「はい」

 小春は頭を下げて、風呂場に向かった。

 脱衣所に雅臣が脱ぎ散らかした服ではなく、自分が準備した着替えがあるのが、不思議な感じがした。

 湯船の蓋を開けると、もくもくと湯気が立った。

 湯を桶に汲み、体にかけた。

「熱っ」

 湯が熱く、声が出た。勢いよく湯を被った皮膚は赤くなっている。

 小春は人生で一度も、一番風呂に入ったことがない。実家では、風呂に入る順番は明雄から決められていて小春は最後だった。雅臣の後に入る風呂も少し冷めていて、誰の体も温めていない湯の熱さを知らなかった。

 髪と体を洗い、湯船に浸かる。一番風呂は、体を芯から温めてくれた。

 風呂から出た小春は、居間に顔を出した。

「出ましたよ」

「じゃあ、俺が入ってくるよ」

 小春は居間に腰を下ろさず、寝床に向かった。いつも、雅臣が風呂に入っている間に布団を敷き、行灯に火をつけている。

 寝床を覗く。もう行灯に火がついていて、布団も敷かれていた。小春が風呂に入っている間に、雅臣が寝る準備をしたようだ。小春は掌二つ分の間を開けて敷いていたが、雅臣はぴったりとくっつけて敷いている。小春はそれを離さなかった。

 居間に戻らず、布団の上に正座をして雅臣を待った。この部屋で彼を待つのは、結婚初夜の日以来だ。 あの日は怖くて震えた。けれど今は、早く来てほしいと心待ちにしている。

 足音が近づいて来る。この部屋の前で止まった。

 静寂に襖が開く音がした。

 来た。小春は部屋に入ってきた雅臣を凝視する。

 雅臣は布団の上に腰を下ろすと、小春と向き合った。雅臣は視線を左右に動かしながら、唇をもぞもぞと動かしている。

「あのさ……」

 雅臣はようやく声を出すと、目を伏せて自分の胸に手を当てた。心を落ち着かせるように数回深呼吸をすると、胸から手を離し、小春を真っ直ぐに見つめた。

「俺と夫婦になってくれる?」

「はい。喜んで」

 小春はゆっくりと頷いた。彼は暴君ではない、心優しい穏やかな人。夫婦になりたいと思えた。

「ありがとう」

 雅臣は微笑むと、口づけをしてきた。間を開けず、激しく何度も唇を重ねてくる。

 優しく布団に押し倒され、寝間着の帯を解かれた。

 横腹をなぞられる。くすぐったいのと緊張で体が震えた。

 雅臣の手が止まった。

「怖い?」

 行灯に照らされた雅臣の顔を見る。彼の目も不安そうに揺れていた。初夜の日の顔とは大違いだ。

「雅臣さんなら、怖くないです」

 小春が首を振ると雅臣の顔に安堵が見え、再び手が動き出した。彼の手は燃えているように熱い。

 交わした契りは存外、情熱的で激しかった。

 疲れ果てたのか、雅臣は服を着ないですぐに眠ってしまった。小春は雅臣に布団をかけてやる。

「おやすみなさい」

 小声で言って、眠りについた。

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