十三話
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小春はユキを鳥カゴに入れ、台所に向かった。
体は燃えているように熱く、心臓は早鐘を打っている。
冷水を体に流し込む。熱は引いたような気がしたが、心臓は落ち着いてくれない。
瞼を閉じ、深呼吸をする。雅臣が言っていたことを思い出して噛み締める。彼はどんな顔をして言ったのだろう。うまく想像できなかったが、鼓動はさらに速くなった。
「小春殿。いらっしゃいますよね?」
声が聞こえた。小春はびくりと肩を揺らし、瞼を開ける。勝手口の磨りガラスに、背の高い影が映っていた。智紘に間違いない。
さきほど、窓を閉める智紘と目が合った。盗み聞きしていたことはばれている。彼はきっと何かを言いに来たのだ。
目が合ったときのことを思い出す。智紘は目を見開いたが、すぐに表情を改めてにこりと笑った。いつもの智紘の笑顔だったのに恐怖を感じた。
恐る恐る勝手口を開ける。
「こんにちは……」
「こんにちは。ちょっと話があります」
智紘は爽やかな笑顔を向けてきた。好印象な笑顔が、今は反対に怖い。
「中で話しますか?」
「そうしましょうか。勝手口から失礼します」
智紘が家の中に入ってきた。
「居間の場所は……」
「分かります」
と、智紘は勝手に居間のほうに進んでいく。
小春は急いで茶を入れる。味が薄いかもしれないが、それを持って居間に向かった。
「お茶、どうぞ」
何を言われるのか。緊張で茶を差し出す手が震えてしまう。危うく、こぼしそうになった。
「すみません」
智紘は湯飲みに口をつけた。一口すすって、ちゃぶ台に湯飲みを置くと、
「俺と雅臣の話、どこから聞いてましたか?」
単刀直入に訊いてきた。
「猫のところからです」
小春は智紘から視線をそらし、正直に言う。
「そこからですか。それならもちろん、雅臣の気持ちは聞いていましたよね?」
「……はい」
「普段の姿からは考えられないと思いますが、あれは嘘偽りのない雅臣の本心です」
熱がぶり返し、また体が熱くなる。小春の頬は風呂上がりのように赤くなった。
どうか、と聞こえた瞬間、視界に智紘のつむじが入ってきた。
「雅臣を受け入れてやってください」
小春は視線を上げる。正面に座る智紘が、深々と頭を下げていた。
小春は瞠目する。彼を受け入れてほしい、と頭を下げられるなんて思っていなかった。
「智紘さん、顔を上げてください」
すっと、智紘は顔を上げた。懇願する目で小春を見てくる。受け入れるのなら、彼のことを詳しく聞きたい、と小春は思う。
「教えてください。さっき雅臣さまが言っていた、お義父さんの理想の男というものを」
「『威厳をまとって人を圧倒し、従わせられる強い男』になれと。だから俺と二人きりのとき以外は、素の自分を殺しているんです」
「そうだったんですか……」
「雅臣のことを教えましょう」
智紘は深呼吸をすると、雅臣のことを語り始めた。
「俺は子どもの頃から、雅臣のことをずっと見てきました。存じているか知りませんが、俺と雅臣は同い年のいとこなんです。でも、兄弟みたいなものですよ。小学校から一緒に都市部の学校に通い、寮も同部屋で過ごしていましたから。
俺はずっと雅臣のことが可哀想だと思ってました。子どもの頃から、雅康叔父さんの理想とする『威厳をまとって人を圧倒し、従わせられる強い男』になるよう求められていましたから。小学校の中学年の頃ですね。長期休みで実家に帰って、池内の家に遊びに来たとき、『そんな振る舞いじゃだめだ』と、雅臣が叔父さんに怒られているところを見たんです。その後、雅臣から泣きつかれました。『自分は父さんの理想の振る舞いなんて思いつかない』って。だから、俺が理想の振る舞いを全て考えてやったんです。それから、叔父さんに怒られることは減りました。でも家にいるときの雅臣はずっと苦しそうでしたね。学校にいるときは叔父さんの目がないから、ありのままの自分で過ごしていたので気楽そうでしたけど。
俺たちは高校を卒業した後、都市部で働いてました。都市部にいるときの雅臣は、ずっと心穏やかそうでしたよ。でも二年前、叔父さんが町長になって忙しくなって小作関係に手が回らなくなったので、こっちに帰ってきました。池内の家の中では叔父さんの理想を演じるので、また苦しそうでした。
茶会の日なんかは、特に頑張ったみたいで。次の日は一日中、机に突っ伏すくらい疲れてましたね。小春殿と結婚してからは、毎日疲れた顔をしていました。でも、家から持ってくる弁当を食べているときは、ちょっと元気になるんです。よっぽど美味しいんでしょうね」
智紘は口を動かすのをやめた。茶に手を伸ばす。喋って喉が渇いたのか、湯飲みの中を飲み干した。
「教えられることはこれくらいでしょうか」
「教えてくれてありがとうございます」
小春も雅臣と過ごすときは、気を損ねないように精神をすり減らして苦しかった。でも素の自分でいられないことのほうが苦しいと思う。小春に雅臣の苦労は計り知れない。
「小春殿は、叔父さんの理想を演じている雅臣と素の雅臣だったら、どっちが好みですか?」
「素の雅臣さまです。私は穏やかで優しい人が好みなので」
「機会があれば雅臣に伝えてやってください。きっと喜びますから」
「はい」
小春は顔をほころばせながら頷いた。そして問うた。
「雅臣さまは、私のことを話していたとき、どんな顔をしていましたか?」
「愛しい人を想う顔をしていましたよ」
智紘は眉尻を下げて言った。
「……そうですか」
雅臣の顔を改めて想像してみる。
目を細め、頬と口元を緩めた顔。彼の柔らかな表情を見たことはないが、今回はうまく想像できた。
智紘はわずかに口角を上げると、立ち上がった。
「雅臣には手洗いに行くと言って出てきたので、そろそろおいとまします」
小春は腰を浮かせようとしたが、智紘から掌を向けられた。
「勝手に押しかけてきたので見送りは結構ですよ」
「分かりました。さようなら」
小春は座ったまま言う。智紘は小春に背を向けたが、
「あっ」
と、何かを思い出したようにすぐ振り返った。
「俺がここに来たことは絶対に秘密にしてください」
「はい」
「ではお邪魔しました」
智紘は頭を下げて、居間から出て行った。
小春は湯飲みを流し台に置くと、買い物カゴを持って家を飛び出した。
午前中に買い物を済ませたが、商店街に向かってひた走る。今晩はオムレツライスを作ろうと思っていたが、急に鯖の味噌煮を作りたくなった。
雅臣がいつから素を見せてくれるか分からない。でも、何となく今日からのような気がした。それなら得意料理の鯖の味噌煮を食べてほしいと思った。




