十二話
六月も下旬になった。今日も小春は膝の上にユキを乗せ、頭を撫でている。
ユキを拾って約一ヶ月半。順調に成長しているようで、膝にしっかりと重みを感じるようになった。体も明らかに大きくなり、鳥カゴの中も窮屈そうになった。
もうあのカゴじゃ可哀想だな。鳥がいないのに、新しい鳥カゴを買うわけにもいかない。自室でこっそり飼うことも、放し飼いもできない。
雅臣に見つからずにユキを飼える方法が思いつかない。もう野生に返すしかないのかな。
小春が頭を悩ませていると、どこかから蝶が飛んできた。蝶は優雅に庭先を横切り、母屋のほうに飛んでいった。ユキは急に顔を上げると小春の膝から飛び降り、蝶を追いかけて走って行った。
「待って! そっちはダメ!」
言っても聞くはずがなく、ユキは速度を上げて駆けていく。小春は縁側から飛び降り、裸足のままユキの後を追った。
蝶を追うのを諦めたのか飽きたのだろう。ユキは母屋の近くに寝そべっていた。
ユキの頭上の窓が開いている。窓の内側に誰かいるかもしれないから、小春は身を屈めてユキに近づく。ようやく捕獲できた。
「ニャー」
「しっ」
「猫の鳴き声が聞こえなかったか?」
開いている窓の向こうから、智紘の声が聞こえた。どうやらこの部屋で仕事をしているようだ。確か、 雅臣と二人で仕事をしているはずだ。
ユキを見られたらまずい。小春は足音を立てないように立ち去ろうとした。だが、雅臣の声に足を止めた。
「きっと、小春がかわいがっていた猫が戻ってきたんだ」
雅臣はこの間、ユキのことを畜生と言った。でもたった今、猫と言った。何となくひっかかる。
盗み聞きなんて悪いけど……。小春は壁に背中をつけて、二人の会話に聞き耳を立てた。
*
小作人が持ってくる作物の記録付けなんてすぐ終わる。家に帰ってもいいが、夕方までこの部屋に智紘とこもっている。
「この間、小春の前で猫って言いかけた」
「危ないじゃないか。この部屋でも畜生と言うか?」
「いや。言わない」
首を振った雅臣はため息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。
机上の本を下目遣いで見る。この本の内容は何十回読んでも覚えられない。雅康の理想とする男の振る舞い方を書いた自作の本なんて、ちっとも面白くないから頭に入らない。
「俺、この部屋以外にいるときは苦しいんだ。結婚してからは、家にいるときが一番苦しい」
雅康の理想は『威厳をまとって人を圧倒し、従わせられる強い男』だ。そんな男になるよう、雅臣は強いられている。それは子どもの頃からだ。雅康の前で、少しでも理想から外れた行動をとると怒られていた。
自分一人では、雅康の理想とする男の振る舞いなんて思いつかない。そこで助けてくれたのが智紘だ。本の内容は、ほとんど智紘が考えた。人前で本を確認できないときは、横目で見ればすかさず助けてくれる。智紘は賢く頼りになる。
「そうだよな。苦しいだろうと思うよ。だって本来のお前とはかけ離れているもんな」
智紘も椅子の背もたれに体を預けて言った。小学生の頃から同じ学校、同じ寮で過ごしたからだろう。 智紘は誰よりも自分のことをよく分かってくれているな、と雅臣は思う。
「でも小春は俺よりも苦しいと思うよ」
小春と十年前に亡くなった母親の伊代の姿が重なる。
雅臣は小学校から都市部の学校に通い、寮に入っていたから、伊代と過ごせたのは長期休暇のときだけだ。家にいたとき、伊代の笑顔をほぼ見なかった。母はいつも、息苦しそうな顔をしていた。
夫を雅康さまと呼び、挨拶しても無視され、食事も美味しいと言ってもらえない母が可哀想だと子どもながらに思っていた。それなのに、自分も父親と同じ振る舞いをし、小春に母親と同じ思いをさせている。それに加え、初夜で泣かせ、この間は紙を取り上げたときに指先を怪我させてしまった。最低な男だな、と思う。
「小春殿に情が湧いたんだな」
「湧くに決まってるだろう」
雅臣はわずかに口元を緩めながら答えた。掃除が行き届いていて家の中は常に清潔。弁当は凝ったものを作ってくれる。シャツも乾いたあと火のしをかけているのだろう。シワ一つ残っていない。最低な自分のために頑張っている小春に、情を抱かないほうが難しい。
「猫だって飼わせてあげたい。ご飯も美味しい、って言いたい。一番風呂に入ってほしい。ワンピースだって、威厳を示すために一番高いものを買ったけど、本人がほしいと思っているものを買ってあげたかった。小春の苦しそうな顔なんてもう見たくない。小春には笑ってほしいんだ」
伊代と同じ思いはさせたくない。雅臣の優しさなのだ。
「お前らしいな」
智紘はふっと笑った。
今なら言ってもいいだろう。雅臣は渇いている口を開いた。
「小春の前では父さんの理想の男じゃなくて、素の自分でいたい。いいだろう?」
智紘は真顔になり、何も言わずに天井を仰いだ。彼が口を噤むときは、『俺は知らない。自由にしろ』という意味だ。
「智紘、ありがとう」
雅臣は天井を仰ぐ智紘の顔を見ながら言った。智紘の口はぴくりとも動かなかった。
耳障りな羽音が沈黙を破った。音がするほうを見やる。窓際に蜂が飛んでいた。部屋の中に入ってきそうだ。
「蜂か」
智紘は眉根を寄せて立ち上がると、窓際に向かった。外に飛び出している窓に手を伸ばす。途中、何故か窓を閉める手を一瞬止めた。
智紘は窓を閉めきると、
「腹が痛くなった。ちょっと手洗いに行ってくる」
椅子に腰掛けず、部屋を出て行った。
一人になった雅臣は机上の本を開いた。
『歩くときは胸を張り、顎を上げる』
今夜から小春の前では、素の自分でいよう。面白くない本をぱたりと閉じた。




