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十一話

 六月になった。

 小春は欠かさず雅臣の弁当を作り、見送りをしている。

 雅臣が小脇に抱えている本から、一枚の小さな紙切れが三和土に落ちた。小春はそれを拾い上げる。

「雅臣さま、紙が落ちましたよ」

 雅臣が振り返る。彼は紙を見ると血相を変え、

「返せ!」

 と、小春から紙を取り上げた。その瞬間、小春は指先に鋭い痛みを感じた。

「うっ」

 と、声が漏れる。指先をちらりと見ると、血がにじんでいた。

「切れたのか?」

「これくらい大したことありません」

 小春は手を背中に回す。雅臣は渋面を浮べると、靴を脱いで家に上がった。

「来い」

 腕を掴まれ、居間に連れて行かれた。

「そこに座れ」

 雅臣が座布団を指し示す。

「はい」

 小春が指示に従うと、雅臣は棚から救急箱を出した。それを小春の前に置くと蓋を開け、薬と綿紗を取り出した。

「指を出せ」

 なんと、彼は負い目を感じているのだろう。自ら手当をしてくれるようだ。

 紙で切っただけの傷に対して薬をつけすぎだと思うが、黙っておく。

 薬でべたべたの指に綿紗が巻かれる。雅臣は手当をさせる側で、人の手当などしたことがないのだろう。綿紗を巻いてくれている手が小刻みに震えている。

「自分で巻きますから、雅臣さまは……」

「俺にやらせろ!」

「あっ、はい……」

 雅臣があまりの剣幕だったから、全てを彼に任せた。

 手当が終わった。

「ありがとうございます」

 薬を片づける雅臣に言ったが無視された。

 雅臣は救急箱を棚に仕舞うと、

「見送りはいい」

 こちらを振り向かずに言った。そして居間の出入り口に向かって歩いて行く。いつもは顎を上げて威張り散らしているのに、珍しくうつむいている。

「いってらっしゃいませ」

「……ごめん」

 襖が閉まる瞬間、そう聞こえた気がした。でも、彼が言うはずがない。きっと空耳だと思う。

 小春は改めて指先を見た。綿紗は上に引っ張れば簡単に外れそうだったから、自分できつく巻き直した。

 洗濯を終え、買い物に向かう。

 玄関に弁当箱が置き去りにされていた。雅臣は、持っていくのを忘れたようだ。「主人の忘れ物くらい届けないか。気が利かない」と言われるのは嫌だから、雅臣が取りに戻る前に母屋に届けておく。

 母屋に上がると、智紘がちょうど歩いてきた。

「おや、小春殿。こんにちは」

「こんにちは」

「こっちに顔を出すなんて珍しいですね」

「雅臣さまがお弁当を忘れていたので、届けに来ました」

「そうですか。俺が渡しておきますよ」

「ありがとうございます」

 雅臣のところに行く手間が省けて嬉しい。

 弁当を渡すとき、智紘の視線が指先に向いているのに気がついた。

「指、怪我したんですか?」

「ええ。私の不注意でちょっと」

 小春は、ははっと作り笑いをして手を背中に回した。

 深く理由を訊かれる前に、

「お弁当、お願いしますね」

 と、逃げるように母屋を出た。


 その日の入浴後。小春は綿紗をつけなかった。血はとっくに止まっているから、もう必要ない。

 居間の襖を開けると雅臣と目が合ったが、彼の視線はすぐに小春の指先に移った。

「指はもういいのか?」

「はい」

 雅臣が憂慮の言葉をくれるものだから、驚いて返事がひっくり返った。

「もう大丈夫です」

「そうか」

 雅臣は指から視線を外さないまま言って、居間から出て行った。

 小春は薄皮が裂けた指先を見つめる。夕食を食べているときも、雅臣から指をちらちらと見られていた。数日すれば跡形もなく消える傷だ。それなのに、執拗に気にしているようだ。もしかしたら、朝、聞こえたような気がした『ごめん』は本当に彼が言ったのかもしれない、と小春は思った。

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