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十話

 五月になった。

 名江は嫁に行ってしまった。最後に顔を合わせて雑誌を渡したかったが、それも果たせなかった。

 母屋には小春と同年代の女中がいるが、名江としていたように気さくに話すことができない。話し相手がいなくなり、寂しくなってしまった。

 洗濯物を取り込んでいると、

「ニャー」

 と、風が吹けばかき消されそうな弱々しい鳴き声が聞こえた。辺りを見回しても、鳴き声の主は見当たらない。

 また鳴き声が聞こえた。

 縁の下を覗いてみると、泥にまみれた子猫がうずくまっていた。

 小春は取り込んでいた洗濯物を縁側に放った。

 地べたに膝をつき、子猫を引き寄せる。生まれてそれほど経っていないのか、子猫は片手で持てる大きさだった。

 泥だらけで可哀想。

 風呂場に連れて行き汚れを洗ってやると、新雪のように真っ白な毛が現れた。

 水滴を拭き取り、台所に連れて行って白米といりこを与える。

 小春はいりこを食べる子猫の体を撫でた。子猫の体温と柔らかい毛が気持ちいい。

 子猫は与えたものを平らげると、頭をすねにすりつけてきた。そのしぐさが何とも愛おしい。この子を見ていると、疲れている心が洗われる。

 小春は子猫を抱き上げ、頬擦りをした。

「かわいいね」

 真っ白な毛だから『ユキ』と名付け、もう少し大きくなって野生で暮らせるようになるまで、庭でこっそり育てることにした。

 翌日から、ユキに構うことが小春の楽しみになった。朝昼夕とご飯を与え、家事をしていないときはユキを膝に乗せて頭を撫でている。

 今日はいつも以上に、ユキに触れている。

 明日は日曜日で、雅臣が一日中家にいる。こっそり世話をしているから、雅臣の前ではユキに触れることはできない。何となく、彼は動物嫌いだと思う。もし触っているところを見つかってしまえば、怒鳴られ捨ててこいと言われるに違いない。

 小春はユキに夕餌を与えた後、ユキの腹に紐を巻き付けて縁の下にもぐった。可哀想だが、今晩から奥の方の束柱につないでおく。ここなら、縁の下を覗き込まない限り見えないから安心できる。

「ごめんね」

 小春はユキの頭を撫でて、縁の下から這い出た。着物についた土をはたき落とし、家に上がった。


 翌朝、小春は縁の下を覗いた。暗がりにユキの目が光っている。丸めた白米にいりこを挿したものを、ユキの傍に投げ入れた。

 早く明日になって、暗い縁の下から解放してあげたい。

 昼食を食べ、掃除をして、十五時過ぎ。縁側で洗濯物を畳んでいると、

「うわ!」

 居間のほうから雅臣の叫び声が聞こえてきた。

 何事か。小春は手を止め、居間に急いだ。

 襖を開けると、居間にユキの姿があった。腹に紐がない。どうやらほどけてしまったようだ。ユキは短い手足を動かし、あぐらをかいて本を読んでいる雅臣の膝を上ろうとしていた。

 小春はユキを雅臣から引き剥がす。ユキはまん丸とした無垢な目で、雅臣を見ている。

 雅臣は目を見開いて、ユキを指さした。

「このね……、畜生はどうした!」

「申し訳ございません! 弱っていて可哀想だったので、餌を与えてしまいました……」

「さっさと山に捨ててこい!」

 雅臣は言いながら、玄関の方に腕を振った。

「は、はいっ」

 小春はユキを胸に抱え、家を飛び出した。頬に涙を伝わせながら、池内家の裏山に向かってひたすら走る。

 山中に入った。小春は走るのをやめ、ユキを撫でながらゆっくりと歩く。

 草木が生い繁り鬱蒼とした山は、数多の獣が生息している。小さなユキは、獣の格好の餌食だろう。こんなところにかわいいユキを捨てたくない。でも雅臣の命令を無視できない。

 小春は木の前に立った。自分の頭よりも少し高いところにある枝にユキを置いた。この高さなら無理なく降りられると思う。

 ユキは枝の上から、キョロキョロと辺りを見回している。そして小春を見て鳴いた。その鳴き声は震えていて、怯えているようだ。

「ごめんね……」

 小春はユキに背を向けて走り出した。「置いていかないで」と呼び止めるようなユキの鳴き声が耳の奥まで響いた。引き返して、連れて帰りたい気持ちをぐっと堪え、家まで足を止めることなく走った。

 涙を拭って家の中に入る。

 居間に入ると、雅臣が睨みつけてきた。

「戻ってこないよう、山に捨ててきたんだろうな?」

「はい……」

「俺は畜生なんぞ大嫌いだ。絶対に家の中にあげるな」

「はい。承知いたしました」

 小春は雅臣に頭を下げて縁側に戻った。残りの洗濯物を畳んでしまう。

 視界の端に影が見えた。

「ユキ!」

 小春は顔を上げて庭先を見る。だがそこにいたのはカラスだった。カラスは小春と目が合うと、どこかに飛んで行った。

 庭先を見ていると、ユキと過ごした数日が脳裏によみがえる。小さな口で餌をちびちびと食べる姿。太陽にへそを向けて、ひなたぼっこをする姿。短い手足で近寄ってくるかわいらしい姿。だがどれももう見られない。

「ごめんね……」

 小春は涙を流しながら、洗濯物を畳んだ。


 翌朝、起床した小春は真っ先に縁側に向かった。庭先を見て、いるはずもないユキを探してしまう。

 雅臣を見送り、一人になった。

 あの木から降りられて、餌を得られたかな。獣に襲われていないかな。

 何をしていても、ユキのことばかり考えてしまう。忘れようと思っても、かわいいユキのことは忘れられない。

 洗濯物を干していると、足首に柔らかな感触を覚えた。

 下を見る。ユキだった。ユキが頭をこすりつけていたのだ。ユキはまた泥にまみれている。

「ニャー」

「ユキ……」

 小春はユキを抱きかかえ、頬擦りをした。頬に泥がつく。

「昨日は酷いことをしてごめんね」

 小春は子どものように泣きじゃくる。頬を伝う涙を、ユキが舐めて拭ってくれた。

「戻ってきてくれてありがとう」

 今度は胸に抱く。ユキの体温は太陽の光よりも温かかった。

 小春は洗濯物を放置し、風呂場に向かった。洗濯物を干すよりも、ユキのほうが大事だ。

 泥を落としてやる。汚れが綺麗さっぱりなくなると、真っ白でかわいいいユキに戻った。

 今度は台所に行く。ねこまんまと水をユキの前に置いた。

「いっぱい食べてね」

 自力で餌にありつけず、そうとう腹が減っているのだろう。いつもちびちびとかわいらしく食べていたユキは、獣のように目の前の餌を貪り食べている。

 餌を平らげたユキの目が、「もっと食べたい」と訴えているように見えたから、小春は追加でねこまんまを作ってあげた。ユキはそれもぺろりと平らげた。

 ユキを連れ、縁側に戻った。さっさと洗濯物を干してしまい、思う存分ユキを撫でる。

 もう少し大きくなるまで世話をしたい。その思いは、開花目前の蕾のようにむくむくと大きくなる。

 けれど、外で放し飼いはもうできない。自室でこっそり飼うことも考えたが、鳴き声や臭いですぐに見つかってしまいそうだ。

 どうしようか……。

 考えあぐねていると、庭先にスズメが舞い降りた。

 そうだ!

 小春はユキを膝から下ろし、縁の下にもぐった。一昨日、ユキを束柱に結びつけたときに、縁の下で丸型の鳥カゴを見ていた。それを引っ張り出す。

 桶に水を汲んできて、鳥カゴについている土埃を洗い落とした。試しにユキを入れてみると、すっぽり入った。

 晩と日曜日は鳥カゴの中に入れて、縁の下の奥のほうに隠しておく。猫は自由気ままに動き回る動物だ。狭い鳥カゴに閉じ込めるのは可哀想だけれど、雅臣に見つからないようにするにはこうするしかない。

 小春はユキを出してやると、庭先に放した。自由を取り戻したユキは、楽しそうに走り回る。自分の目が届くときは思う存分、走らせてあげよう、と小春は決めた。


 日曜日。小春が洗濯物を干していると、雅臣が縁側を通った。

 やはり雅臣が縁の下を覗き込むことがない。ユキの存在は気がつかれない。この飼育方法なら上手くいきそうだ。小春はにやりと口角を上げた。

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