一話
一張羅に身を包んだ佐野小春は、鏡に写る自分を見てため息をついた。何度かこの着物を着ているが、今日は一段と重く感じる。
「小春」
父親の明雄の声が聞こえたのと同時に、襖が開いた。明雄も一張羅を着ている。彼は小春とは対照的で、気合い充分といった顔だ。
「そろそろ行くぞ」
「はい」
小春は部屋を出て、明雄の後ろをついて行く。
「いってらっしゃいませ」
女中たちに見送られ、二人は家を出た。
三月の空は、雲一つない晴天だった。
柔らかな日差しと鳥のさえずりが心地いい。沈んだ気持ちを浄化してくれそうなほど清らかだが、小春には効果がない。気分が晴れる気配がないし、泥道を歩いているように足取りは重い。
「いいか。見初められるようにしっかり主張するんだぞ」
明雄から言われ、小春の足はさらに重くなった。
二人は、町長の池内雅康から、茶会に招かれている。だがこれは、ただの茶会ではない。町長の一人息子、池内雅臣の妻探しを兼ねている。上手くいけば町長と親戚になれる。周囲から一目置かれ、町での地位も上がると明雄は考えているから気合い充分なのだ。
小春は雅臣のことを風の噂で聞いたことがある。小学校から都市部の学校に通い、二年前、二十二歳のときにこっちに帰ってきたという。性格は『傲慢、横暴、高圧的。まさに暴君だ』と。
そんな人の妻になりたくない。小春の好みは穏やかで優しい人。雅臣とは正反対の男性だ。
明雄に一度、好みの男性を言ったら鼻で笑われた。明雄は心優しい男性のことを軟弱だと言って嫌っている。時折持ってくる見合い話も、話しただけで横柄だとわかる男性ばかりだった。
雅臣が噂通りの人物なら、明雄が気に入ること間違いなし。「うちの娘はどうですか?」と、雅康に自分を勧めることが容易に想像できる。
小春はどうしても茶会に参加したくなかった。冷水を浴びて風邪を引こうとしたけれどダメだった。
気分が晴れないまま歩くこと二十分。池内邸に到着した。
広大な敷地には、家屋が三つと蔵が二つあった。敷地の中央には、町で唯一の和洋折衷の大きな屋敷。右には一回り小さいが立派な日本家屋。左にはさらに小さな日本家屋がある。
一番小さな家屋からもんぺを着た男女が出てきた。池内家は多くの小作人を抱える大地主でもある。彼らは小作人のようだ。
池と松がある庭に、茶会の列席者たちが大勢いた。小春は茶会の参加者をちらりと見る。呉服屋、金物屋、造り酒屋の父娘たち。佐野家も旅館を営んでいるし、ここにいるのは商いをしている家ばかりだった。
明雄は人混みの中に入った。小春もついて行く。明雄は頭一つ飛び出している男性めがけて、ずんずん進んでいく。
「池内さん」
明雄は背広姿の雅康の背に声をかけた。雅康がこちらを振り返る。
「おお、佐野さん」
「今日はお招きいただきありがとうございます」
ぺこぺこと明雄は頭を下げた。
「こちらこそ、忙しいところ列席いただきありがとうございます」
「いえいえ。今日は息子に任せているので」
雅康が小春を見た。目が合う。角張った輪郭に、猛禽類のような鋭い目が光っている。小春は迫力がある顔に驚き、肩をびくりとさせた。
「そちらが娘さん?」
「はい。娘の小春で、二十二歳です」
「……こんにちは」
小春は小声で言って会釈した。明雄から愛想良くしろと言われているが、わざと無愛想に振る舞って、印象を悪くする。小春の態度に明雄は口元を引きつらせたが、すぐに表情を改めた。
「池内さんのご子息様は?」
「さっきまでそこにいたんですけど」
雅康は辺りを見回した。そして、
「智紘」
息子とは違う名を呼び、背広を着た二十半ばくらい男性を呼び寄せた。
「はい」
智紘という青年は涼しげな目元が上品だ。細身で身長も高く、背広姿が様になっている。
「雅臣はどこに行った?」
「手洗いに」
「またか」
と、雅康は不愉快そうに眉をひそめた。
「もうすぐ戻ってくると思います」
智紘は屋敷のほうを見た。
「戻ってきたみたいです」
雅康は視線をそちらにやる。周りより頭一つ高い彼も、雅臣を確認したようだ。
「雅臣」
手を頭より高く挙げ、手招きした。
雅康の後ろにいた人たちが道を空ける。小春は雅臣の姿を確認した。背は雅康とほぼ同じの細身の彼が、こちらに向かって歩いてくる。胸を張り、顎を上げて威張り散らして歩く姿は噂通り暴君の風貌だ。
雅臣が小春たちの前に来た。顎を上げたまま後ろ手を組み、偉そうに立つ。胸を張りすぎているからか、シャツのボタンが弾け飛びそうだ。
「こちら佐野旅館の支配人の佐野さんと、ご息女の小春さんだ」
「初めまして。佐野明雄と申します。お目にかかれてたいへん嬉しく思います」
明雄はこびへつらうように頭を下げる。青年にではなく、どこかのお偉方にするような態度だ。
「池内雅臣です」
雅臣は軽く会釈をした後、見下すように小春を見た。顎を下ろさないから感じが悪い。苦手を通り越し、もう嫌いだ。
「佐野小春です」
素っ気なく言って、彼から視線をそらす。
「普段はもう少し愛想がいいんですけど、今日は緊張してるみたいで」
慌てながら、明雄が必死に弁解する。
「そうですか」
雅臣は低く冷たい声で言うと、こちらに背を向けて智紘の側に行ってしまった。もう関わらなくていい。小春はほっとする。
「池内さん、どうかうちの小春をご子息の妻にお願いします」
「それは息子次第ですから」
会話が一段落すると、雅康は他の列席者に話しかけられ、そちらと会話を始めた。
明雄から睨まれたが、小春はそっぽを向いた。
「もっと……」
「佐野さん」
男性の声が明雄の小言を遮った。
「こんにちは」
「おお、中川さん」
明雄の意識が中川に向いた隙に、小春は庭の隅に行った。
青葉が萌える木の下で、列席者の様子を眺める。茶を頂いている者、会話を楽しんでいる者。皆、楽しそうに過ごしている。楽しんでいないのは、自分だけのような気がした。
娘たちに囲まれている雅臣と智紘の姿があった。娘たちは笑顔を絶やさず雅臣に話しかけているが、彼は顎を上げたまま彼女たちを見下すように見ている。くすりとも笑わず、全く楽しそうではない。雅臣の背後にいる智紘は、相槌を打ちながら話を聞いている。
彼女たちは父親から言われ、雅臣を囲っているのか。それとも自らの意志か。
雅臣は、目鼻立ちは整っていたと思う。そこに惹かれる婦女子は多いだろう。けれど、夫婦生活を送る上で肝心なのは性格だ。傲慢な暴君との夫婦生活など、苦労するのが目に見えている。
私は耐えられないな。小春は足元に視線を落とし、木に背中を預けた。
空が黄昏色になり、長い長い茶会はお開きになった。小春はお開きの時刻まで、木の下から離れなかった。
帰途、ドシドシと地を踏みつける明雄から苛立ちを感じた。
帰宅すると小春は居間に連れて行かれ、顔を真っ赤にした明雄から怒鳴られた。
「あんな態度じゃ、絶対妻に選ばれないじゃないか!」
雷のような怒声に鼓膜が震える。
「……ごめんなさい」
小春は首をすくめた。怒鳴られることは覚悟していた。だが想像以上の憤怒。階下の旅館の方まで、明雄の声は聞こえていそうだ。
相当頭にきているようで、明雄は大量の罵声を浴びせてくる。罵声は拳となり、小春の心を殴打する。痛くて涙が出てくる。
「次、見合いした男のところに嫁がせるからな!」
明雄は吐き捨てるように言うと、襖を乱暴に開けて居間を出て行った。途端、かき消されていた振り子時計の音が聞こえてくる。
小春はよろりと立つ。居間を出て、自室に行った。
泣きながら一張羅を脱いでいると、
「小春、いる?」
襖の向こうから優しい声が聞こえてきた。母親のふみの声だ。
「うん。いるよ」
「入るよ」
小春は涙を拭う。
襖が開き、ふみが入ってきた。手には写真台紙を持っていて、慈愛に満ちた眼差しで小春を見つめてくる。
ふみは四十八歳だが同年代よりも白髪が多く、顔のしわも深い。亭主関白の明雄に苦労させられ、若女将時代は先代の女将である姑にいびられていた。今は融通の利かない息子嫁に手を焼いている。そのせいか、ここ数年でさらに老け込んでしまった。
「下まで怒鳴り声が聞こえてきた。お父さんも酷いね」
やはり明雄の声は下階まで聞こえていたようだ。
「仕方ないよ。私がお父さんの指示通りにしなかったから」
「小春は悪くないよ。悪いのはお父さんだから」
ふみは言いながら、台紙を小春によこした。開いてみる。写真に写っている彼は達磨のように丸々としていて、お世辞にも容姿端麗とは言えなかった。
「今日、小春が茶会に行ってる間に、私の知り合いが息子さんと一緒に訪ねてきたの。彼、三十歳なんだけど、今まで誰ともご縁がなかったらしくてね。それで小春に話を持ってきたの」
次のお見合いで嫁に出されてしまう。容姿はどうでもいい。穏やかで優しい人なら誰でもいい。
「この人どんな人だった?」
「控え目な人で、話し方もおっとりしてて、優しそうだった」
小春の好みだ。だがそれは、明雄の嫌いな男性像である。
「でも、お父さんがこの人の性格を知ったら、お見合いまでたどり着けないよ」
「お父さんの前では横柄に振る舞ってもらうように一筆書いておく」
「ありがとう。お母さん」
「いいのよ」
と、ふみは微笑んだ。
「小春には、お父さんみたいな人と結婚してほしくないから」
娘には自分と同じ思いをさせたくない。ふみの優しさだ。




