閑話「前夜」
王立霊脈学院
学外霊脈野外実習 実施通達
王暦一九四年 前期
一 実習中の術式使用は、引率教官の指示する手順に従うこと。
二 班行動中は班長の判断に従い、単独行動を禁じる。
三 体調の異変は速やかに引率教官に申告すること。申告を怠った場合の
負傷については、学院はその責を負わない。
四 実習地点における飲食物は規定の支給品に限る。
五 霊脈への術式接触は指定区域内に限定する。
指定区域外での接触は教官許可なく行ってはならない。
六 配布する霊導石は緊急時の術式補助用途に限り使用すること。
日常的な術式使用への転用を禁じる。
七 霊導石を使用した場合は、使用日時・状況・使用者名を記録し、
帰還後速やかに所定の報告書を提出すること。
報告書の様式は引率教官より受け取ること。
付記
なお、過去の実習において、学院外の霊脈環境での術式使用により
一時的な身体変調を来した事例が複数確認されている。
各事例において術者の症状は記録されているが、発生の要因については
現時点で統一的な見解が得られていない。
症例の詳細および既存の考察については別冊を参照のこと。
王立霊脈学院 主任教官 セイン・ドーヴ 署
荷物の確認は昼のうちに終わっていた。
着替えの枚数。術式記録用の紙と予備。安定符が三枚。緊急時の霊導石。それぞれに対応する項目が手元の紙に書かれており、確認済みのものに線が引かれていた。全部に線が引かれていた。やることがなくなった。
エイヴァンは机の前の椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。
第一区画の寮から見える中庭は暗く、石畳の上に霊導灯の光が細く伸びている。風があった。木の葉が動いているが音は届かない。
机の上に一枚の紙が残っていた。通達の写しではなく、自分が書いたものだった。生徒評議会の整理業務で手元に通った記録のうち、一点だけ書き留めていた。
出力値二・一、安定値九・一、という数値と、その横に小さく「逆転している、なぜか」と書いてあった。下に「野外との相関、不明」と付け足した跡がある。そこだけ筆圧が少し強かった。答えが出ないまま書いた字は、いつもそうなる。
野外では、霊脈の流れが学院と違う。
それは父の書架にあった実習報告の記録に繰り返し出てくる言葉だった。詳細は別冊を参照、と通達にも書かれていた。その別冊は図書室に置かれており、申請書を提出すれば閲覧できる。ただし申請を出した者がどれほどいるのか、実際に読んだという話を身近で聞いたことはなかった。
わかっているのは、野外の霊脈環境では術式への負荷が増大する場合があるということだった。
負荷が増大する。
出力が大きければ、負荷を受けやすい。エイヴァン自身、出力値は八・九ある。安定値が八・六あるから崩れにくいが、それでも学院の外で同じように動けるかどうかは、行ってみなければわからない部分があった。
では出力が二の者は、どうなるのか。
負荷を受けにくい。崩れにくい。それは単純な理屈として成立する。しかし安定値が九・一あって、それが野外の霊脈とどう作用するのか、エイヴァンには参照できる事例がなかった。安定値と出力値がそれほど乖離した測定記録を、他に見たことがなかった。
答えが出なかった。
それ自体は珍しいことではなかった。情報が足りなければ判断できない。判断できない状態は保留にしておく。それだけのことだった。
ただ、数日前の朝に演習場で見たものが頭の端に引っかかっていた。
術式環の固定の仕方が違った。環を展開するとき、エイヴァンは霊脈の流れを読み、最適な経路を組む。それに対して、あの術式は何かに合わせるように動いていた。合わせるというのが正確かどうかもわからない。ただ、経路を組むのとは根本的に接触の仕方が異なっていた。技術の問題ではなかった。
何かが違う。何が違うのかは、まだわからない。
保留にしておく。
エイヴァンは紙を折り、机の端に置いた。
◇
出発は明朝の第二刻だった。荷物は昨日のうちに廊下の集積所に出しておくよう指示が出ていた。荷物袋はすでに廊下に置いてある。部屋に残っているのは今夜分の着替えと、机の上の紙切れだけだった。
ロウソクに手を伸ばした。
消す前に、もう一度だけ窓の外を見た。中庭の石畳。霊導灯の光。風に揺れる木の影。王都の夜は明るかった。小さな頃からそうだった。どこにいても、どこかに光があった。整備された光が、規則正しく並んでいた。
実習地は王都の北東、二日行程の先だという。その場所の夜がどういうものか、エイヴァンには想像できなかった。
ロウソクを消した。
暗くなった部屋の中、窓の外の霊導灯の光だけが石畳の上に落ちていた。明日の朝、あの光を出て行く。答えが出ていないものを、いくつか抱えたまま。
エイヴァンは横になった。目を閉じた。
理屈は揃っている。準備は終わっている。あとは行くだけだった。




