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ヴェルナ霊導録 ――環の静寂  作者: 桐原 朔


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第一章 低脈席 第五話「初実習」

 術式とは形を持った意志である。ただし意志が術者のものであるかどうかについては、いまだ議論がある。

――ヴィラン・ドゥエ 『術式論序説』 第三版序文より


 朝の鐘が鳴ったとき、カインはすでに机に向かっていた。

 窓の外はまだ薄暗かった。中庭の測定石が青白く光っており、石畳の表面に細い影を落としている。窓枠から入ってくる空気が、数日前より少し温かかった。あの光は夜通し消えないことがわかっていた。昨夜も遅くまで向かいの棟のいくつかの窓に明かりがあったが、今は消えている。

 机の上に昨日書いた紙が一枚ある。三原理の図と数値の走り書きだ。「誘導」の横の余白には何も書いていない。今日の演習が終わったら書くつもりで、昨夜そのままにしておいた。

 引き出しを軽く押した。奥に石がある。手は伸ばさなかった。

 演習服に着替え、廊下に出ると向かいの部屋の扉がちょうど開いたところだった。

「あ、早いじゃん」トルが欠伸を噛み殺しながら出てきた。「俺も鐘で起きたんだけど、お前もそういうのあるのか」

「鐘が鳴ったから起きた」

「そうだよな、鐘が鳴ったら起きる。そういうことじゃなくて……まあいいか」トルは首を回した。「今日、誘導の実習だろ。なんかちょっと緊張してる気がする」

「何が緊張するんだ」

「うまく当てる自信がなくて。昨日三原理の話を聞いたとき、誘導って精度の話だって言ってたじゃないか。俺、精度より出力を先に鍛えてきたから」

「やってみないとわからない」

「まあそうなんだけど、それを言われると返す言葉がないんだよな」

 トルは苦笑しながら廊下を歩き始めた。

     ◇

 食堂は朝の時間でも席の半分が埋まっていた。

 入り口から奥へ向かって長机が何列も続いている。窓側の列には一年生が固まっているが、中央から奥は学科も学年も入り混じっていた。端のテーブルを占めている上級生のグループが、声の端々に術式の話を混じらせながら話している。使っている語彙が一年生の座学で出てきた言葉より先だった。聞いたことのある単語もあるが、文脈がわからない。「第三変換式の崩れ方が特殊で」という声が聞こえたが、第三変換式が何を指すのかはまだ習っていなかった。

 その隣では、分厚い冊子を傍らに置いたまま一人で食べている学生がいた。読みながら食べているというより、食べながら何かを考えているような、視線が中空にある座り方だった。制服の袖の刺繍が縦縞ではなかった。斜め格子状の刺繍は、入学案内の図では施術科の印だと書いてあった。

 さらに奥のテーブルでは、二人の学生が紙を広げて向かい合い、一方が何かを指差して説明していた。朝食の時間に、それをやっている。

 カインとトルは盆を取り、窓側の席に落ち着いた。スプーンで粥を掬うと温かく、上に干した果物が散らしてある。隣のテーブルでは三人の学生が小声で昨日の演習の話をしていた。魔法戦術科かどうかはわからなかった。同じ一年生には見えなかった。

「上級生って朝から術式の話してんだな」トルが向かいのテーブルに目をやって言った。

「四年いれば話すことがそうなるんじゃないか」

「嫌だな、それは。飯うまいとか、昨日よく眠れたとか、そういう話もしたい」

「今している」

「あ、そうか」トルは少し笑った。「じゃあ俺は卒業しても大丈夫だな」

 スプーンを何度か動かすうちに、廊下から第二刻の鐘が聞こえた。

     ◇

 本棟から実習棟へ向かう廊下は、朝の時間が一番人の密度が高い。複数の学科が同じ棟を使うため、目的の違う人間が入り混じって流れる。前を行く一年生の集団が速度を落としていた。話しながら歩いているから詰まっている。追い抜く必要もなかった。

 曲がり角の手前で、上級生の集団と正面からすれ違った。

 六人ほど。体格と歩き方からして三年か四年に見えた。そのうち三人が歩きながら術式環を展開していた。淡い白の光の輪が、それぞれの掌の上で維持されている。揺れていなかった。廊下の人の流れに合わせて体が動いても、縁は乱れない。本人たちは話しながら歩いており、術式環を維持していることを意識している様子がなかった。周囲も気にしていなかった。

「歩きながらやってる」トルが小声で言った。

 カインは見ていた。

 環の維持自体は難しくない。今の自分にもできる。ただ体が揺れている状態で、廊下の人間との距離を測りながら、かつ術式を保ち続けるのは別の話だ。注意が分散する。どちらかに集中すれば、もう一方への意識が薄れる。それを当たり前にこなせるようになるまでどのくらいかかるのか、見当がつかなかった。

 上級生たちが通り過ぎた。廊下の流れが戻った。

 実習棟の方角から低い振動音が聞こえた。術式の出力音だと少し経ってからわかった。壁越しに伝わってくる音は一定のリズムを刻んでおり、誰かが繰り返し術式を打っているらしかった。一年生の演習が始まる前だから、上級生の実習が先行しているのだろう。音の重さからして、一年生が昨日演習場で出していた出力より大きかった。

 後方の廊下を確かめると、低脈席の学生たちがやや距離を空けて歩いているのが見えた。同じ科で、同じ棟へ向かっているのに、自然と間が開いている。意図しているわけではないだろうが、それでもそうなっていた。カインは何も言わなかった。トルは気づいていないか、気づいていて何も言わないでいるかのどちらかだった。

 実習棟の前廊下に魔法戦術科の学生が揃い始めた。セッテ助教が棟の壁を背に立っており、記録板を手に学生の顔を順に確かめている。全員が揃うと私語が自然に落ち着いた。

「今日から誘導の実習に入る。三原理の第二だ」

 声は廊下の空気によく通った。

「課題は標的に当てること。出力の大きさは問わない。崩さずに向けて、当てる。それだけでいい。誘導は訓練で伸びる。初日に数値が低くても関係ない」

 最後の一文に、後方の学生数人がわずかに姿勢を直した。カインは何も変えなかった。

     ◇

 演習場の中央に、石製の標的板が数枚立てられていた。

 板は一辺が一歩ほどの正方形で、表面に受信式の術式刻印が細かく入っている。術式エネルギーが当たると刻印が反応して板がくぐもった白い光を放つ仕組みだ。距離は十歩と十五歩の二列で設定されていた。演習場の四隅の石柱の上に霊導灯があるが、昼間は点いていない。

 空は薄曇りで光が均一に散っていた。影の輪郭が柔らかく、見通しはよかった。石敷きの端に、風で運ばれてきたらしい白い花びらが一枚落ちていた。

「一列目から順に入れ。環を展開して標的へ向ける。崩れたら最初からやり直し。当てたら端に下がれ」

 前席の学生から順に動いた。

 最初の学生が演習場の中央に立った。右手を前に出す。淡い白の光の輪が掌の上に広がった。縁がわずかに揺れたが崩れなかった。標的の方へ向け、板が白く光った。確実に当たっている。端に下がった。

 次の学生も当てた。その次も。前列の学生たちは速かった。環を出す動作がすでに体に入っている。入学前から訓練を積んでいたのだろうとわかる速さだった。

 前列の中ほどの学生が入ったとき、一度で当てたのに助教から「縁が崩れかけた」と短く言われた。当てることと崩さないことは別の問いだった。学生は頷いて端に下がった。

 中席の学生の番になった。トルが演習場に入った。環を展開する。白い輪が出た。標的へ向ける。板が光る——左端だった。中心から大きく外れてはいないが、精度は荒い。

「惜しいな」トルが自分で言いながら端に下がった。

 次の学生が入り、板を光らせ、端に下がった。また次が続いた。当てられる学生と、掠る学生と、届かない学生がいた。中席の後半は精度にばらつきがあった。

 後方の列から、最初の学生が演習場に入った。最初の学生が演習場の中央に立ち、環を展開した。輪の縁が揺れた。広げようとするたびに形が崩れ、整えようとすると今度は小さくなりすぎる。出力が標的まで届かず、途中で霧散した。板は光らなかった。

 もう一度試みる。今度は広げすぎた。縁が乱れ、流れが散った。

 セッテ助教が近づいた。声は低かった。「広げすぎだ。出力を絞ってから向けろ」

 学生が環を小さく作り直した。小さい分、制御しやすくなった。今度は届いた。板の角に掠った程度だったが、刻印が反応して弱い光が出た。

 学生は何も言わなかった。ただ端に下がった。

 次の学生は一度で当てた。板の下端だったが反応はあった。端に下がりながら小さく息を吐く音が聞こえた。息を詰めて臨んでいたのだと、その音でわかった。

「グレイ」

 カインが呼ばれた。

 演習場の中央に立った。石敷きの下、地下の律動が薄く足裏に届く。今は意識しなければ気にならない程度になっていた。王都に来た最初の日とは違う。慣れた、というより、体が慣れを学んだという感じに近かった。

 右手を前に向けた。術式の骨格を組む。淡い白の環が広がった。縁は最初から揺れなかった。

 十歩先の標的板を見た。

 引っ張るより、流れの向きに沿わせる——。

 誘導した。

 板が白く光った。板の中心よりやや上だった。環は崩れていなかった。

 端に下がった。

 前列の学生が数人こちらを見た。見たまま何かを言うわけではなく、確認するように一瞥して、自分の番の準備に戻った。セッテ助教が記録板に何かを書いた。筆先が動く時間が、他の学生のときより少し長かった。何を書いたのかはわからなかった。

     ◇

 第一段階が終わると、助教が全員を集めた。

「次はペアで行う。一方が術式を送り、もう一方が環で受け止める訓練だ。受け手は環を張って待つだけでいい。戦場では味方への補助術式をかける場面が出る。流れを送る側と受ける側の感覚を、今日はとにかく体で知ることが目的だ。近い者同士で組め」

 カインとトルが向き合った。

「俺が先に送る側でいい?」

「いい」

「じゃあ環張っといてくれ」

 術式環を展開して待った。トルが白い輪を作る。標的板ではなく、カインへ向けてくる。

 流れが来た。

 出力は大きかった。ただ向きがわずかにずれていて、カインの環の中心ではなく縁の方に当たった。縁に受けた流れを内側に逃がすように吸収する。崩さないために、縁を動かして流れの角度に合わせた。押し返すのではなく、受けた形のまま内側へ逃がす。環は崩れなかった。

「崩れなかった」

 トルの声に何かが混じっていた。感心というより、想定が外れたときの声に近かった。

「ああ」

「なんか変な手応えだった。ちゃんと押したのに跳ね返された感じがしない。むしろ受け入れられた感じで」

「向きに合わせて受けた」

「向きに合わせるって?」

「押してきた流れが縁に当たったから、こっちが縁を動かして合わせた。だから崩れなかった」

「……へえ」トルは少し考える顔をした。「なんか……なんか名前があったんだよな、王都の道場でかじった護身術。相手の力の向きごと受けて流して投げる技術。なんだっけ」

「わからない」

「俺もちゃんと覚えてないんだけど。……それを術式でやってるって思うと、なんかおもしろいな」

「おもしろいかどうかはわからない」

「俺はおもしろいと思ったんだよ」トルはあっさり言った。「じゃあ次、俺が受け手やる」

 役割を入れ替えた。

 トルが術式環を展開して待っている。カインは環を作り、トルの環へ向けて誘導した。

 出力は低かった。それは変わらない。ただ流れの向きを変えないまま中心へ送ると、流れが散らずに届く。強く押すのではなく、向きを揃えて流す。水路を通すような感覚に近かった。

 トルが顔をしかめた。

「なんか変な感じがする」

「どう変か」

「ぐらつかない。出力低いはずなのに……均一な感じっていうか。受け止めようとする前に、もう中に入ってた。なんか予測できない感じ、みたいな」

「崩れなかったか」

「崩れてない。でもそれが変なんだよな」トルは首を傾けた。「強いとか上手いとかじゃなくて、別の種類の感触だった」

 カインは何も言わなかった。

 引っ張るより合わせる。そうした方が流れが乱れない。それだけのことだったが、それ以上の言葉が出なかった。自分の中でまだ整理がついていない感覚を言語化しようとしても、うまくつかめない。ラギールで老術士に術式を習っていたとき、出力の低さを指摘されながら毎回同じことを繰り返した。環を出して、固定して、流す。流れが止まる。なぜ止まるのかはわからないまま繰り返した。その中で自然に身についた何かが、今日の感触と繋がっている気がしたが、それ以上は言葉にならなかった。

 演習場の端でセッテ助教が別の組を見ていた。記録板を手に持ったまま、こちらへ一度だけ視線を向けた。目が合う前に、別の組の方へ歩いていった。

     ◇

 演習の後半、学生が各自で繰り返し練習している時間に、助教がカインのそばに来た。

 他の学生の様子を確かめるように視線を動かしながら歩いていて、カインの横で自然に足を止めた。

「標的を狙うとき、何を基準にしている」

 声量は落ちていた。隣の学生には届かない程度だった。

 カインは少し考えた。

「流れの向きを変えないようにしています。引っ張るより、合わせる感じで」

 助教は頷かなかった。一拍おいて「そうか」とだけ言い、次の学生の方へ歩いていった。

 背中を少し目で追った。何か間違ったことを言ったとは思わなかった。ただどういう意図の問いだったのかはわからなかった。普通の確認なのか、それ以上のものがあったのかも。そのまま演習に戻った。

     ◇

 演習の終わりに標的板の片付けがあった。

 カインが板を格納棚に立てかけていると、隣に別の学生が来て同じ作業を始めた。低脈席の中の一人だった。

 板を並べながら黙って作業した。

「当たってたね、さっき」

 静かな声だった。板を棚に置きながら言った。

「うん」

「出力低くても当てられるんだな、と思って」

「今日はそういう課題だったから」

 学生は次の板を手に取りながら「……そうだね」と言った。

 それだけだった。また黙って板を並べ、片付けが終わると各自の場所に戻った。

 ノエ・ハルトという名前だった。中部の内陸から来ていると、測定の日に名乗っていた。責めているわけでも、称えているわけでもなかった。ただ確認したような言い方だった。

     ◇

 夕食の時間、食堂に入るとリナが端の席に一人でいた。

 観測科の学生たちが固まっているテーブルから少し離れた場所で、小冊子を閉じたまま傍らに置いて座っていた。気づいたのはトルが先だった。

「あ、リナじゃん」

 三人で同じ卓についた。リナは「久しぶり。入学式以来か」と言った。

「そうだな。お前のところはどうだった、今日」トルが言った。

「初実習だった。去年の秋のデータ使って、波形の読み方をやった」

「俺たちが演習したやつも記録されてるのか」

「観測式がある演習場なら残ってると思う。今日使ったのは古いやつだけど」

「なんか落ち着かないな」

「誰も見ないよ、普通は。研究者か観測士くらい」

「まあそうか」トルは盆の料理を確かめながら言った。「観測科って、何のために波形を読むんだ」

「霊脈がどう動いてるか知るため。演習場の下にも流れてるから、術式を使うと波形に出るんだよね。それが積み重なると、変動の傾向がわかってくるって」

「なんかすごいな。俺たちが演習するのも、霊脈にとっては刺激になるのか」

「小さい刺激だけど、そう」

「そういう話を聞くと、術式を使うのが少し怖くなる気もする」

「慣れるよ」リナはあっさり言った。「霊脈はしょっちゅう刺激されてるから、学院の演習程度は誤差の範囲らしい。先生がそう言ってた」

 しばらく三人で食べた。

 食堂の音は続いていた。スプーンが椀に当たる音、椅子が引かれる音、奥のテーブルで上級生が笑う声。術式の話ではない笑い方だった。誰かの失敗か、あるいは誰かの言葉が面白かったのか、そういう声だった。別の卓では食事中も紙を広げている学生が一人いた。朝から夕まで同じことをしているのか、それとも別の学生なのかはわからなかった。

「変なデータがあった」

 リナがスプーンを置きながら言った。

「変というのは」カインが言った。

「一点だけ、波形がほぼ動いてなかった。演習中って普通もっと揺れるのに」

「それはおかしいのか」

「おかしいんだよ。術式使ってたら波形は動くはずで、動かないのはちょっと……先生は計測器の誤差だって言ってたけど」

 リナはそれ以上続けなかった。椀を引き寄せ、スプーンで底をすくった。

 カインは盆の上を見た。根菜の煮物をスプーンで崩す。崩れた根菜は柔らかく、汁を吸っていた。

「肉があればよかった」トルが言った。

「十分だよ」リナが返した。

「麦の粥は三日続いてる。明日は違うといいな」

「文句言うなら自分で作ればいいじゃない」

「寮に台所ないだろ」

「知らないよ、そんなこと」笑いながらリナが言う。

 そういうやりとりがしばらく続いた。リナの声の端が少し柔らかくなった。入学式のときとは少し違う話し方だった。日数が経てば変わるものが変わっていく。カインは食事を続けながら、そのやりとりを聞いていた。

     ◇

 夜、居室に戻ってから机に向かった。

 朝の紙を引き出す。「誘導」の横の余白を埋める。

 流れの向きを変えないように。引っ張るより合わせる感じで。当てることはできた。出力は変わらない。

 少し考えてから書き足した。

  ただし量は変わらない。

 ペンを置いた。

 量が変わらなくても、向きを整えることに意味がある場合がある。今日の課題はその範囲に入った。ただ、それが毎回通じるかどうかはわからない。課題が変われば、量の少なさが直接問われる場面が来る。そのときに今日の感触がどこまで使えるかは、やってみないとわからなかった。

 ラギールで老術士が繰り返していた言葉があった。霊脈の流れを力に変える部分が自分には薄い、という指摘だった。

 あのとき何度聞いても、感覚として腑に落ちなかった。力に変えるとはどういうことか。変えようとすると、どこかで詰まる。詰まる感触はわかる。しかしなぜ詰まるのかがわからなかった。

 今日のペア実習で、トルが「受け止めようとする前に、もう中に入ってた」と言った。詰まらずに届いた、という意味だった。出力を力として押し出すのではなく、流れの向きを揃えて流した。それで届いた。老術士が言っていた「力に変える」とは違うやり方だったが、届いたことは届いた。

 これが答えかどうかはわからなかった。別の問いへの答えかもしれなかった。ただ今日確かめたことは確かめた。それだけが手元にあった。

 窓の外、中庭が見える。測定石が青白く光っている。その光の手前に人影があった。

 遅い時刻だった。霊導時計を見ると第十刻に近かった。人影は中庭の石敷きの中ほどに立ち、右手を前に出していた。淡い白の術式環が展開された。縁が揺れなかった。維持されたまま、しばらく動かない。消えるかと思った瞬間、形が変わった。

 環の向きが変わっている。誘導が始まっていた。流れが測定石の方へ向けられ、測定石の表面がわずかに白く反応する。一、二秒その反応を確かめてから、環が静かに消えた。

 また同じ動作が始まった。展開、維持、誘導、確認、消す。一定のリズムで繰り返す。練習というより何かを確かめているような繰り返し方だった。数値を確認しているのか、感触を確認しているのか、外からはわからなかった。

 顔はわからなかった。距離があり、中庭の霊導灯は昼より光量が落ちていた。体の輪郭と動作の精度だけが見えた。動作の中に無駄がなかった。環を出してから消すまでの時間が一定で、迷いがない。

 別の棟の窓にも明かりが点いていた。二つ、三つ、それ以上。何をしているのかは見えない。勉強しているのかもしれないし、眠れないのかもしれない。学院の夜は、全員が寝静まるわけではないらしかった。見える範囲の建物のどこかに必ず明かりがある。最初の夜から変わっていない。

 中庭の人影がまた術式環を展開した。

 カインは窓から離れ、机に戻った。引き出しを開けた。石を取り出した。手のひらに乗せる。重さだけがあった。冷たくも温かくもなかった。今日も変わらなかった。引き出しに戻した。

 紙を見た。「ただし量は変わらない」という一文がある。

 明日も演習がある。課題が変わるかもしれない。変わらないかもしれない。出力が変わらなくても、今日とは別の問われ方をする可能性がある。それはわかるのは明日でいい。今日確かめたことは、今日の分として手元にある。

 霊導灯を落とした。

 窓の外、測定石の光だけが中庭に残った。窓を閉めなくても寒くなかった。人影がまだそこにいるかどうか、確かめなかった。


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