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ヴェルナ霊導録 ――環の静寂  作者: 桐原 朔


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第一章 低脈席 第三話「低脈席」

 測られた者は数値を得る。数値を得た者は位置を得る。位置を得た者が何を失ったかを、記録は語らない。

――ある術士の手記 王暦九十二年

 実習棟前の廊下には、一年生が集まり始めていた。


 カインとトルは並んで廊下の端に立った。本棟から実習棟までの道で、トルは途中で一度案内図を広げた。建物の配置を石畳の継ぎ目と照らし合わせ、それでも一瞬だけ迷いかけて、結局はカインについてくる形になった。遅刻はしていない。


「思ったより遠かったな」とトルが言った。

「地図に距離が書いてあった」

「読んではいたんだけど、感覚と違くて」


 カインは返さなかった。


 周囲を見回す。みな演習服姿で、制服と同じ灰色だが、袖に術式線の刺繍はなく、動きやすい造りになっている。緊張の出方はそれぞれだった。両手を組んで静かに立つ者。隣と小声で話す者。石畳の目地を足先でなぞる者。リナの姿はない。観測科は別棟に集合しているのだろう。


「リナ、今頃どこにいるんだろ」とトルが言った。

「別棟じゃないか」

「そうか。荷物、ちゃんと全部運べたかな」

「自分で持って来たんだから、自分で運べるだろう」

「そうなんだけど、なんとなく心配で」


 足元の律動を確かめた。実習棟の地下にも霊脈が流れているらしく、石畳を通じて微かな振動が上がってくる。昨日よりは慣れていた。意識しなければ流してしまえる程度ではある。


「緊張するな」とトルが小声で言った。独り言のようでもあり、カインに向けているようでもあった。

「していない」

「俺はしてる。機械で測られるのって、なんか苦手で。体が正直に出るじゃないか」

「緊張しても数値は変わらない」

「頭でわかってても、体が言うことを聞かないんだよ」


 トルは小さく息を吐いた。


「カインはそういうの、ないのか。どうせこうだろうなって、最初から落ち着いてるのか」

「そういうわけではない」


 少し考えてから、カインはそう言った。


「じゃあ何で落ち着いて見えるんだ」

「落ち着いているのと、どうでもいいのは、傍から見ると似て見えるらしい」


 トルはしばらくカインの顔を見てから、「なんかわかった気がする」と言った。


「お前、ちゃんと緊張してるんだな」

「そうは言っていない」

「言ってないけど、そうだろ」


 カインは答えなかった。トルは小さく笑い、前を向いた。


 教官が現れたのは、それから少し経ってからだった。


 三十代半ばほどの女性で、短い黒髪を後ろで束ねている。実習棟の壁を背にして学生全員をひとわたり見渡してから、口を開いた。


「イラン・セッテ助教だ。今日から魔法戦術科一年を担当する」


 声は落ち着いていた。大きくはないが、廊下の空気によく通った。私語が自然に止まる。


「これから初期測定を行う。計測項目は三つ。霊脈適応指数、安定値、出力値だ。結果は本日中に通知し、明日の座席配置に用いる。測定中は身体を動かすな。計測精度が下がる。以上」


 名前が読み上げられ、学生たちが三つの列に分かれて動き始めた。


 列は少しずつ短くなった。中から出てきた学生は、それぞれ少しだけ顔つきが変わっていた。安堵なのか落胆なのか、外からは判別しづらい。廊下にはひそひそとした気配が続き、隣同士で何かを確かめ合うような声が途切れ途切れに聞こえた。測定室の扉が開くたび、近くにいた学生がわずかに身を強ばらせる。


 カインは列が進むのを待ちながら、廊下の壁を見た。石造りの壁に、等間隔で霊導灯が取り付けられている。昼間は点灯していないが、台座の部分に術式環の刻み目が見えた。細かく、正確な刻みだった。学院の建物はどこも、目に見えないところまで術式が組み込まれている。


 隣でトルが小さく「長いな」と言った。独り言だった。カインは何も返さなかった。


「グレイ」


 セッテ助教が呼んだ。


     ◇


 実習棟の内部は、思ったより暗かった。窓が少なく、霊導灯も最低限しか点いていない。廊下の片側に扉が並び、そのうち三つに番号札が下がっていた。扉の造り自体に特別なところはない。中に入ると、机と棚が壁際に寄せられ、中央には測定台だけが置かれていた。


 台は黒い石でできていた。表面に術式環が刻まれており、薄く青白い光を放っている。近づくと、肌が微かに粟立つような感覚があった。


「立て」と助教が言った。

「台の上に両手を乗せる。指を広げて、手のひら全体で触れるように」


 カインは台の前に立ち、両手を乗せた。


 変化は、すぐに来た。


 足元の律動がわずかに強まり、台から上へ向かって何かが流れ込んでくるような感覚があった。熱でも圧でもない。体の内側を、細い流れが通り抜けていくような感覚だった。不快ではない。ただ、落ち着かない。


「動くな」と助教が言った。


 台の光が変化した。最初は一様な青白さだったが、やがて中心に向かって光の密度が変わり、術式環が複数の層に分かれて発光し始めた。


 カインは動かなかった。


 流れが体の中を通っていく感覚は続いた。ラギールで床石に触れていたあの感覚とは、似ているようで違う。あのときは流れが乱れていた。今日のそれは整っている。ただ整っているだけのものが、体の中を通っていく。何も変えられないまま。


 測定は思ったより長かった。台の光が層を変えるたびに、体の奥の別の部分を何かが通り過ぎた。術式を読んでいるのか、出力の通路を確かめているのか、測定台が何を見ているのかは正確にはわからない。ただ、体の内側を丁寧に調べられている感覚だけが、ずっと続いた。


「以上だ」


 台の光が落ち着いた。カインは手を離した。


 セッテ助教が台の横にある記録板を覗き込む。しばらく黙って数値を見ていた。


「出力値、二・一」

「はい」

「霊脈適応指数、四・二」

「はい」

「安定値、九・一」


 今度は、少し間があった。


 助教がカインに視線を向ける。


「もう一度確認する」


 台の端に触れて何かを操作した。術式環が再び発光し、数秒で収まる。


「九・一。変わらない」


 助教は記録板と台の数値を交互に見た。カインは黙っていた。


「安定値九・一は、一年生として異常な数値だ」


 そこで一拍置く。


「ただし、出力値が二・一しかない。術式を組んでも、相手に届く前に霧散する。席次は後方になる。そこは承知しておけ」

「わかりました」

「お前がラギール出身だということは記録で知っている」


 助教の声の温度は変わらなかった。


「それ以上のことはここでは言わない。ただ、安定値は磨けば必ず力になる。出力が低いことと、できることが少ないことは別だ。覚えておけ」

「わかりました」


 助教は記録板を閉じた。


「以上だ。次を呼ぶ」


     ◇


 廊下に出ると、トルが壁に背を預けて立っていた。カインの顔を見るなり、「どうだった」と聞く。


「普通だ」

「普通ね」


 トルは少し首を傾げた。


「出力はどのくらいだった」

「二・一だ」


 トルは一度口を開きかけて、閉じた。何と言えばいいか決めかねているような顔をする。


「安定は?」

「九・一」

「……それは、すごくないか」

「席次には直接関係しない」

「そうなんだろうけど」


 トルはしばらく考えた。


「なんか、複雑だな。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、一つの数値だけ見るとすごいのに、全体で見ると後ろになるって」


 カインは答えなかった。複雑と言われればそうなのかもしれなかったが、言葉にしても何も変わらない。


「俺は出力六・四で安定五・八だった」とトルが続けた。

「父親が現役の魔法士で、その数値を聞いたら何て言うかなって、今から気になってる」

「悪い報告にはならないと思う」

「そうかな」


 トルはしばらく壁に背をもたれたまま、廊下の先を見ていた。測定を終えて出てきた学生たちが、少しずつ廊下に増えていく。小声で話す者もいれば、黙って壁際に立つ者もいた。数値を告げ合っているらしい声が断片的に聞こえる。それを聞いているのか聞いていないのか、トルは特に反応しなかった。


「一緒に頑張ろう」とトルが言った。

「席が離れても、演習は一緒だろうし」


 カインは頷いた。


     ◇


 結果の通知は夕刻に来た。


 寮の居室の扉の下から、二枚の紙が滑り込んでいた。一枚は折り畳まれた紙で、開くと細かい術式文字で数値が並んでいる。


  霊脈適応指数:四・二

  安定値:九・一

  出力値:二・一

  座席配置:低脈席


 最後の一行を、カインは二度読んだ。


 「低脈席」という言葉は、入学前に読んだ案内文の中にあった。出力値が低い学生を集める補習体制の座席区分で、半期に一度の再測定でボーダーを超えれば移動できる、とも書かれていた。ボーダーは三・〇。


 もう一枚は薄い羊皮紙で、短い文が記されていた。事務局補佐官の印が押されており、明朝、本棟の事務局窓口に出頭するようにとだけある。それ以上の説明はなかった。


 二枚を机の上に並べた。窓の外では、中庭の測定石が薄く光っている。


 カインは別に驚かなかった。


 ラギールの孤児院で霊脈魔法の基礎を習ったとき、教えていた老術士はよく言っていた。事故以前からラギールに住んでいた元術士で、現役を退いたあとも町に残り、孤児院に出入りしていた。白髪で背が低く、左手の指が二本、昔の術式事故で欠けていた。教えるときはいつも静かで、怒ることもなかったが、誤魔化しだけは許さなかった。


「出力の通りが細い。安定の素地はある。だが霊脈の流れを力に変える部分が、お前は人より薄い」


 そのときは言葉の意味が半分しか理解できなかった。霊脈の流れを力に変えるという感覚が、まだ体に入っていなかった。術式の骨格を展開することはできた。安定させることもできた。ただ、そこから先、エネルギーとして外に出す段階になると、何かが詰まったように流れが止まる。老術士はそれを見て、毎回同じように言った。焦らなくていい、ただ、そこは簡単には変わらない、と。


 今日の数値は、その言葉を正確に裏付けていた。


 廊下に出ると、トルの部屋の扉が少し開いていた。中から物音がしている。


「カイン」


 扉の隙間からトルが顔を出した。


「低脈席だったか」

「そうだ」


 トルは少しのあいだ、何も言わなかった。気を遣っているのが顔に出ていた。


「俺は中席だった」と、少し申し訳なさそうに言った。

「お前の数値が示した結果だ」

「頭ではわかってるんだけど」


 トルは扉にもたれた。


「なんか、うまく言えないんだけど。同じ科で、一緒に入ったのに、最初から席が違うって」

「そういうものだろう」

「そうかもしれないけど」


 トルは天井を仰いだ。


「低脈席って、前半年はずっとそっちなのか?」

「再測定で三・〇以上になれば移動できる」

「今二・一だろ。一ポイント上げるのって、どのくらいかかるんだろ」

「わからない」

「体質の問題って言ってたじゃないか。訓練で変わるのか」

「変わる部分もある」

「……どのくらい」

「やってみないとわからない」


 トルはしばらく黙った。それから、「授業は一緒なんだろ」と話を変えた。

「席が違うだけで」

「そのはずだ」

「じゃあ、そんなに変わらない、よな」


 自分に言い聞かせるような言い方だった。


「序列の圧力は変わる」

「それをここで言うのか」

「聞いたから」


 トルは苦笑した。


「お前、変なところで正直だな」


 それから少し間を置いて、


「まあ、やってみよう」と言った。

「俺も余裕がある数値じゃないし。一緒に頑張るしかない」

「そうだな」

「お前が同意するの珍しいな」

「そうでもない」

「いや、珍しい」


 トルは少し笑った。


「夕食、一緒に行こう。今日は道を覚えたから、案内はいらない」

「本当か」

「たぶん。でも念のためついてきてくれると助かる」


 カインは小さく息を吐き、先に歩き出した。


     ◇


 食堂は実習棟とは反対側の棟にあった。石造りの広い部屋で、長机が何列も並んでいる。夕刻の時間帯だけあって混んでいたが、端の方に二席空きを見つけた。


 盆に載った料理を運びながら、トルが「思ったより普通の飯だな」と言った。


「もっと豪勢なのかと思ってた」

「食事は寮費に含まれているから、そんなものだと思う」

「そうか。まあ美味いからいいけど」


 トルは椅子を引いて座り、少し間を置いてから言った。


「入学金って高かったんだろうな。うちの親父が文句を言ってた。俺が合格した日に、嬉しそうにしながら文句を言うんだよ」


 カインは自分の盆を置き、椅子を引いた。


「そういうものか」と言った。それ以上は言わなかった。


 トルは少し首を傾げたが、深くは聞かなかった。


「親父はきっと、俺の数値を聞いたら文句を忘れると思う。喜ぶはずだ」

「そうだろう」

「カインの数値を聞いたら何て言うかな。安定九・一って、普通の親は何がすごいのかわかるのかな」

「わからない人が多いと思う」

「だよな」


 トルは箸を動かしながら笑った。


「説明するのが難しい数値だ」


 しばらく二人とも黙って食べた。食堂の中では話し声が重なり合っていたが、端の席まではあまり届かない。向かいの長机では、数人が身を乗り出して何かを話し込んでいた。数値の話をしているのか、それとも全く別の話なのか、内容までは聞き取れない。


「明日から授業が本格的に始まるんだよな」とトルが言った。

「座学と演習が両方あるって書いてあった」

「そうだ」

「演習って何をやるんだろ。入学前の資料に基礎実習とだけ書いてあって、具体的なことが全然わからなくて」

「術式環の展開と維持が最初だと思う。それから出力の基礎訓練が続く」

「お前、またよく知ってるな」

「案内文に書いてあった」

「俺も読んだはずなんだけど、そこまで頭に入ってなかった」


 トルは少し考える顔をした。


「術式環の展開は、孤児院で習ったのか」

「少し」

「どんなところだった。孤児院」

「普通のところだった」

「南部って、王都と雰囲気が全然違うのか」

「霊脈の濃さが違う。王都の方がずっと濃い」

「そっか。今日も足元がなんかざわざわする感じがするんだけど、霊脈のせいか」

「体が慣れていないうちは、そういうものだと思う」

「カインはどうだ」

「少し慣れてきた」

「さすがだな」とトルが言った。


 それ以上は聞かなかった。


 食堂の外が暗くなり始めていた。石の窓枠の向こうに、霊導塔の光が細く見えた。


     ◇


 翌朝、目が覚めると、窓の外の測定石はまだ光っていた。夜通し点灯しているらしかった。


 霊導時計を確認する。事務局の窓口が開く時刻までは、まだ余裕があった。起きて顔を洗い、制服に着替えた。部屋の扉を開けると、廊下は静かで、トルの部屋から物音はしない。まだ寝ているのか、あるいは起きていても出てきていないのかはわからなかった。


 本棟へ向かう石畳の道を、ひとりで歩いた。朝の空気は冷えている。広場を横切るとき、対面の棟の窓にいくつか灯りが見えた。早起きの学生がいるのか、それとも霊導灯が自動で点いているのかは確かめなかった。


 本棟の事務局は廊下の端にあった。


 扉には「事務局」と彫られた小さな石板が嵌め込まれている。中に入ると、窓口の向こうに書記官がひとり、記録板を開いて座っていた。他に学生の姿はない。


「登録番号を」と書記官が言った。顔は上げなかった。


 カインは呼び出し状に記されていた番号を告げた。書記官は記録板を繰り、羊皮紙を一枚取り出して窓口に置く。


「ラギール霊脈事故被災関連修学支援制度。学院規程による適用です。入学金および施設利用費の一部免除。署名をここに」


 羽根ペンが一本、添えられていた。


 カインは羊皮紙を手に取った。上部に学院の紋章、中央に名前と登録番号、適用制度の名称。下部に、小さな文字で一行だけあった。


  ――本通知は能力評価を伴うものではない。


 羽根ペンを取り、指定された欄に名前を書く。


 書記官は複写の紙をカインに渡した。


「保管しておくように。以上です」


 窓口を離れた。廊下は静かだった。書類を折り、上着の内側に入れる。


 評価は台が出した。この書類は別のことを根拠にしている。


 その違いを、カインはただ確認した。


 教室まで、あと少しあった。

2026/3/12 改稿

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