【2】消去の対価は、平穏の崩壊
「あれは偶然だった」なんてよく聞くが、人生なんて偶然の連続ではないだろうか。必然的に何かが起こるなんてそうそうあり得ない。
だから、あれは本当に偶然だったのだ。
たまたま地下鉄の改札近くを歩いていた時のことだ。自販機の傍のベンチに座っている女子生徒がいた。
クラスメイトの鈴音澪奈。
学内で知らない者はいないほどの有名人だ。腰まで届く艶やかな黒髪、深い海のように澄んだ瞳、白磁のような肌。誰に対しても分け隔てなく優しい彼女は、欠点を探すのが難しいほど完璧な少女だった。
ただ、俺との接点は皆無だ。カースト上位の彼女に対し、俺は完全に浮いているボッチタイプ。陽キャと陰キャ、住む世界が違う。彼女が物語のヒロインなら、こっちは「男子生徒B」くらいのモブだ。廊下ですれ違った時に、せいぜい挨拶を交わす程度の関係でしかない。
その鈴音澪奈が、一人でベンチに座っている。 いつも周囲に人が絶えない彼女にしては珍しい光景だ。私服姿は新鮮で、ラフな格好が彼女の可愛らしさを引き立てていた。
だが、何かがおかしい。
彼女は俯いたまま、小刻みに肩を震わせている。何かに怯えているようにも見えた。 さすがに心配になり、声をかけようと近づいたその時――視えたのだ。
彼女の背後に、あの『影』がいた。
いつもより大きく、人の形を模したような『影』。それが彼女に覆いかぶさるように、ただそこに漂っている。 それを見た瞬間、嫌な感じがした。人の背後に立つ『影』は何度も見てきたが、だからといって消したりはしない。消していいモノかどうかの判断がつかないからだ。
だが、震える彼女と、不気味に蠢く『影』。 それを見過ごすのは、あまりに寝覚めが悪い。
(……消すか)
俺の目に映る異常を消去するだけだ。
正面から睨みつけては、美少女を凝視する変質者として通報されかねない。俺は後ろからそっと近づくと、『影』を強く意識して睨みつけた。
『消えろ』。
脳内で強く念じる。それだけで、俺の視界から『影』の情報が消滅した。それだけのはずだったのだが。
「あ……っ!」
『影』が消えるのと同時に、彼女が驚いたような声を上げて振り返った。 しまった、と思った時にはもう遅い。目が合ってしまう。 俺は動揺を隠すように、咄嗟に声をかけた。
「あー、えっと。具合悪そうだけど大丈夫?」
情けないほど声が上ずった。彼女は驚愕の表情で俺を見つめたまま、固まっている。 気まずい沈黙を破ったのは彼女の方だった。彼女は俺の腕を、痛いくらいの力で掴んだ。
「お兄さん! い、今、何かしましたか……!?」
お兄さん? お兄さん、か。 問われた内容よりも、その呼び方に引っかかってしまった。やっぱり認識されていなかったらしい。同じクラスなのに、名前すら覚えられていない事実は、男として地味にショックだ。
「いや、何もしてないけど?」
とりあえず惚けてみる。他人に視えない『影』を消したなんて、説明したところで変人扱いされるのがオチだ。しかし、彼女は納得せずさらに詰め寄ってくる。
「嘘です! 私にはわかるんです……! 私の後ろにいたナニカが、あなたが近づいた瞬間に消えた! お願いです、教えてください。私に何をしたんですか!?」
必死な訴えに罪悪感が湧くが、ここで正直に話しても面倒なことになるのは目に見えている。陽キャの権化のような彼女と関われば、俺の平穏なモブ生活が崩壊する。俺の直感が「逃げろ」と警報を鳴らしていた。
「いや、本当に何もしてないって。気分が悪そうだったから、声をかけようとしただけで……」
「…………」
疑いの眼差しが刺さる。……ダメだ、これ以上は手に負えない。
「――あ、じゃあ、お大事に!」
俺は踵を返すと、人混みの中へと猛ダッシュした。
「ちょ! ちょっと待ってください……!」
呼び止める声を無視して、俺はひたすら走り去った。 それが単なる「場当たり的な逃避」でしかないことに、この時の俺はまだ気づいていなかった。




