【13】また明日、学校で。
中に入ると、家の奥から年月を感じさせる古めかしい匂いがした。
開け放たれた部屋には、使い込まれた和箪笥や茶棚が静かに佇んでいる。天井を見上げれば太い梁が剥き出しになっており、この屋敷が刻んできた時間の重みが伝わってくるようだった。玄関の履物は女性用しかなく、晴香さんが一人でこの広い屋敷を守っていることが窺える。
案内された突き当たりの和室は仏間だった。
中央には立派な仏壇が鎮座し、お線香の煙がゆらりと細く立ち上っている。彼女は慣れた手つきで蝋燭に火を灯すと、線香を供えて静かに手を合わせた。俺も彼女に倣って目を閉じ、手を合わせる。……だが。
瞼を閉じる直前、彼女が俺をここに連れてきた「本当の理由」を理解した。
視える。
仏壇の傍らに、三体もの『影』が蠢いているのが。
いつもと同じ、ただそこに佇んでいるだけのナニカ。
だが、三体も固まっているのは極めて稀だ。
正直、生理的な気味悪さが込み上げる。
幽霊なんて信じていないが、場所が場所だけに躊躇いもあった。亡くなった家族の霊魂か、あるいは先祖代々の守護霊か。スピリチュアルな知識がある人間なら、何らかの正当性を見出して「消してはいけないもの」だと主張するかもしれない。
だが、彼女の意図を考える。
彼女にはこの黒いナニカを感じ取る力がある。そして、俺にはそれを「消す」力があることを確信しているはずだ。その上で俺をここに招いた。答えは一つだ。彼女は、俺に消してほしいのだ。
俺は迷いを振り切り、三体の『影』を正面から凝視した。なんのことはない。俺の目に映る「ノイズ」を消し去るだけだ。三体固まってはいたが、俺が意識を向けた瞬間に、霧が晴れるようにあっさりと消失した。
「ふぅ……」
ふと隣の彼女を見ると、弾けるような、それでいて心から安堵したような笑顔を浮かべていた。
……そうか。俺はこの顔が見たかったんだ。
彼女を不安から解放し、笑顔を取り戻させたかった。これが霊的に正しい行為なのかは分からない。けれど、彼女が笑っている。今の俺には、それだけで十分すぎるほどの理由になった。
「ありがとうございました」
「ん?なんのことかな」
「そうですね。なんでもありません」
「……そっか」
深くは追及しない。それが、俺たちの間の「暗黙の了解」になりつつあった。
その後、晴香さんが淹れてくれた抹茶と羊羹をいただいた。
「おいしい……」
「本当、おいしいです」
羊羹を頬張る彼女の横顔を見て、胸のつかえが取れる。気のせいか、晴香さんの顔色も先ほどよりずっと明るくなったように見えた。もし俺のしたことが彼女たちの力になれたのなら、これほど嬉しいことはない。羊羹の甘みが、やけに優しく体に染み渡った。
――帰り際。晴香さんが彼女に何かを耳打ちした。その瞬間、鈴音さんは顔を真っ赤にして慌てふためき始めた。一体何を言われたのか気にはなったが、とても聞けるような雰囲気ではない。晴香さんはそんな彼女の様子を満足げに眺めると、ニコリと微笑んで俺たちを見送ってくれた。
帰りの電車に乗る頃には、空は鮮やかな橙色に染まっていた。
ノスタルジックな夕暮れの中、今日という一日を振り返る。水族館から始まった濃密な時間。鈴音さんとの距離は、物理的にも心理的にもぐっと縮まった気がする。終始ベタベタと密着されていたせいで、心臓への負担は相当なものだったが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、この時間が永遠に続けばいいのにとさえ願っている自分がいた。
「あの……神崎くん」
「ん?」
不意に名前を呼ばれて横を向く。
ガタゴトと揺れる電車の車内。
窓の外には、燃えるような茜色の空がどこまでも広がっていた。
夕闇が迫る斜光を浴びて、彼女が少し照れたように、けれどどこか決意を秘めたような瞳でこちらを見上げていた。
朱に染まったその頬が、普段の完璧な「美少女・鈴音さん」ではなく、一人の等身大の女の子であると物語っている。その姿があまりに艶めかしく、そして愛おしくて、俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「また、遊んでくれますか?」
「……ああ、もちろん。俺で良ければ」
「えへへ♪よかったです。約束ですよ?」
彼女はそう言って、繋いでいた俺の手をさらに強く握りしめた。その温もりは、俺がこれまでずっと避けてきた「他人との関わり」そのものであり、今では何よりも失いたくない宝物になっていた。
ほんの二週間前まで、俺たちはただのクラスメイトだった。
いや、クラスメイトですらなく、同じ空間に存在しているだけの他人だったはずだ。
『影』が視えるだけの冴えない俺と、誰からも愛される眩しすぎる彼女。交わるはずのなかった二人の世界は、あの雨の日の駅で、そして彼女が俺の手を掴んだあの瞬間から、劇的に色を変え始めたのだ。
彼女が抱えていた「見えない恐怖」と、俺が背負っていた「孤独な視界」。それらが重なり合ったことで、俺はこの歪な世界の歩き方をようやく見つけた気がする。俺の力に何の意味があるのか、彼女がなぜ俺を選んだのか、その本当の答えはまだ霧の中だ。けれど、少なくとも今は、彼女の隣でその笑顔を守れるなら、この忌々しい力さえも悪くないと思える。
やがて電車が駅に滑り込み、ドアが開く。夕焼けのホームに降り立つと、心地よい夜風が二人の間を吹き抜けた。
「今日は本当にありがとうございました、神崎くん」
「こちらこそ。……楽しかったよ」
「私、今日のこと一生忘れません。……じゃあ、また明日、学校で!」
彼女は名残惜しそうに手を離すと、何度も振り返りながら、軽やかな足取りで家路へと消えていった。
遠ざかっていく彼女の背中を見送りながら、俺は自分の胸に手を当てる。そこには、今までに感じたことのないほど、速く、力強い鼓動が刻まれていた。
明日になれば、またいつもの教室が始まる。
きっとクラスメイトたちは騒ぎ立て、俺の平穏なモブ生活はさらに崩壊していくのだろう。
けれど、もう怖くはなかった。俺の視界には、彼女という鮮やかな光が差し込んでしまったのだから。
「……さて、帰るか」
俺は一人、薄暗くなり始めた夜道を歩き出す。
視界の端には、相変わらず正体不明の『影』が揺れている。
だが、その光景は不思議と以前ほど寒々しくは見えなかった。ポケットの中で、彼女から届くであろう新しいメッセージを待ちながら、俺は少しだけ早足で家へと向かった。
後日談が2話あります。




