【12】「まだ」彼氏じゃない、という希望
その後、少し遅めの昼食を済ませてから水族館を後にした。
駅前まで戻る間も、彼女との距離感は相変わらずの「ゼロ距離」だった。がっちりと手を繋ぎ、腕を絡ませ、片時も離れようとしない。少しでも距離が空こうものなら、彼女はあからさまに不満げな顔をして隙間を埋めてくる。……その繰り返しのせいで、俺の脳内は常に「これはもう恋人なのでは?」という甘い錯覚と、「いや、自惚れるな」という理性が激しく火花を散らしていた。
正直に言えば、俺の精神状態はそろそろ限界だった。
これほど長時間、美少女と密着し続けて、理性を保っていられるはずがない。触れ合う部位から伝わる柔らかさや、時折ふわりと届く甘い香りに、俺の脳はとうにオーバーヒートを起こしていた。このままでは顔がゆで上がって爆発してしまいそうだ。そんな俺の切実な余裕のなさを察してか、彼女がふと口を開いた。
「えっと……もう一箇所、行きたい場所があるのですが、いいですか?」
断る理由なんて、どこにもなかった。せっかくの彼女からの提案だ。それに、この夢のような時間を少しでも長く引き延ばしたいという気持ちの方が、今の俺にはずっと強かった。
「もちろん、いいよ」
即答すると、彼女は申し訳なさと嬉しさが混ざったような、複雑で、けれど柔らかな表情を浮かべた。
電車で二駅。中心部から少し離れるだけで、景色は一気に長閑なものへと変わった。都会の喧騒とは無縁な、落ち着いた空気が漂う閑静な住宅街。駅から数分ほど歩くと、一軒の趣ある屋敷が見えてきた。瓦屋根の日本家屋でありながら、壁面は重厚な煉瓦造りという、和洋折衷の美しい邸宅だ。石畳のアプローチの両脇には丁寧に手入れされた植栽が並び、古びた門柱には、達筆すぎて一見しただけでは読めない『鈴音』の表札が掲げられていた。
「えっと、ここは……?」
「私のおばあちゃんの家なんです」
鈴音さんのおばあさんの家。……なるほど、相当な名家か旧家なのだろう。門をくぐり、彼女に続いて敷地内に入る。すると、玄関脇の縁側から一人の老婆が顔を出した。
「あら、澪奈ちゃん。いらっしゃい」
「おばあちゃん!」
駆け寄る彼女を、老婆は朗らかな笑みで出迎えた。白髪混じりの長い髪を後ろでまとめ、上品な眼鏡をかけたその女性は、まさに「優しいおばあちゃん」を体現したような佇まいだった。穏やかな瞳の奥に、どこか凛とした知性を感じさせる。年齢は八十代くらいだろうか。鈴音さんによく似た面差しだが、少し顔色が悪いのが気になった。どこか、ひどく疲れが溜まっているような……そんな印象を受ける。
「あらあら。澪奈ちゃんが彼氏さんを連れてくるなんて、珍しいわね」
「も、もうっ!おばあちゃん、まだ彼氏じゃないです!」
おばあちゃんの茶目っ気たっぷりな言葉に、彼女が激しく動揺する。真っ赤になって否定するその様子は、俺の目にはひどく可憐に映った。俺としては「まだ」という言葉に淡い期待を抱いてしまうのだが……いや、落ち着け、俺。
「ふふふ、ごめんなさいね。私は鈴音晴香よ。よろしくね」
「……神崎正視です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
軽く会釈をして挨拶すると、晴香さんは目を細めて俺を見つめた。一瞬、値踏みされるような鋭さを感じたが、そこに敵意や警戒心はない。むしろ、何か愛おしいものを見守るような、深い慈しみを感じさせる眼差しだった。
「さあ、どうぞ。上がってちょうだい」
招かれるままに、俺は鈴音家の重厚な玄関を跨いだ。




