【11】言葉なき謝辞は、波紋のように
ビルの中にある水族館ということで、正直そこまで期待はしていなかった。
だが、その先入観は見事に裏切られた。 館内は予想以上に広く、多種多様な海の生き物たちが展示されている。何より、緻密な光の演出が作り出す空間は、どこまでも幻想的だった。間近でペンギンを観察できるエリアでは、彼女は大はしゃぎで、子供のように目を輝かせていた。
つられて俺のテンションも上がる。そうだ、デートはこうでなくては。
入館前の卑屈な危惧は、今や完全に払拭されていた。それどころか、俺は今、夢のような時間を過ごしている。彼女の隣にいるだけで、世界が色鮮やかに見える。一分一秒が、ただただ幸せだった。 俺たちはペンギンの散策が終わった後も、色々なコーナーを回っては写真を撮り合い、他愛もない会話で盛り上がった。
「あっ、クラゲですよ!」
「わあ、綺麗……。なんだか癒されるね」
ブルーライトに照らされたクラゲの水槽の前で、俺たちは足を止めた。 神秘的な青い光の反射に、吸い込まれそうになる。水中をゆらゆらと漂うクラゲの動きは、残酷なほど優雅で美しい。 ふと、隣に立つ彼女の横顔を盗み見た。水槽をじっと見つめるその横顔は、まるで青い夜に舞い降りた妖精のようで、思わず息を呑む。
その時だった。 繋いでいた彼女の手に、ぎゅっと力が込められた。
異変を感じて顔を覗き込むと、彼女は不安げに、何かに怯えるように俯いていた。 どうしたんだろう――。 問いかけるより早く、俺は気づいた。彼女のすぐ傍に、『影』が立っていたのだ。
いつも通り、ただそこに佇んでいるだけの無害な存在。普段なら放置するところだが……。 せっかくの二人きりの時間を、その薄汚いナニカに邪魔されたような気がして、猛烈な不快感が込み上げた。 俺は無意識のうちに、その『影』を射抜くように凝視した。 ――霧が晴れるように、あっさりと消える。いつものことだ。俺の視界から、邪魔な異物を排除したに過ぎない。
だが、今日は違った。 消した瞬間、彼女の肩がピクリと跳ねた。そして、縋るような瞳で俺を見上げたのだ。
「あ……ありがとうございます」
唐突なお礼に、動揺が走る。 理由を考えないようにしていたが、やはり彼女には「分かる」のだ。視えてはいなくても、自分を蝕んでいた嫌悪感が、俺の行動によって消え去ったことを。 俺はまだ、自分の能力について彼女に何も話していない。だが、彼女は確実に、俺が「消した」ことに反応した。
「……なんのことかな?」
動揺を悟られないよう、必死に平静を装う。 彼女は一瞬、少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐにいつもの眩しい笑顔を取り戻した。
「なんでもありません! ありがとうございました!」
優しい彼女は、それ以上踏み込んでこなかった。 彼女になら、話してもいいのかもしれない。俺の目に映るこの歪な世界のことを。 そう思わせるだけの温もりが、繋いだ手から伝わってくる。 だが、もし話して拒絶されたら? 気持ち悪がられ、この温もりが永遠に失われてしまったら?
(キモっ。こっち見ないでくれる?)
心の奥底に封印していた、苦い記憶が疼き出す。 俺は慌てて思考を遮断した。やめよう。今は、これ以上考えるのは毒だ。せっかくの楽しい時間が台無しになってしまう。 俺は過去の残滓を振り払い、再び目の前の光景に意識を集中させた。
この瞬間を、大切にしたい。 隣で微笑む彼女が、あまりにも愛おしかったから。




