4. これから二人で side.フィリベルト
幼い頃の俺は、何をやってもヘンリック兄上には勝てなかった。
二才という年齢差を差し引いても兄は優秀だった。学問や武術だけではない。他者を魅了し思い通りに動かす術を、兄は生まれながらにして持っていた。
追い抜こうなどとは露ほども思っていなかった。俺にそんな才はないと、理解していたから。ただ少しでも追いつきたくて、彼の隣に立ちたくて頑張った。
兄と共に講義を受けていた時、珍しく講師が俺を褒めた。
確かケルテット地方の歴史について問われ、俺が答えたときだったと思う。たまたま以前興味を持って調べたことがあったから、詳しく答えられた。
「出来損ないがちょっと褒められたからって、いい気になるなよ」
講師が席を外した隙に、ぼそりとそんな事を言われた。
幻聴かと思った。いつも明るくて優しい兄が俺を睨み、蔑んだ眼を向けるなんて。
しかしそれからというもの、俺が何か褒められるようなことをする度に兄が脅してくるようになった。暴力を振るわれたこともある。跡が残らないよう、巧妙に。
誰に話しても信じて貰えなかった。
兄は「天真爛漫で優秀な王子」という姿を演じきっていたからだ。
殴られるのが怖くて、わざと出来ないフリをする。周囲はそんな俺を、才の足りない王子という評価をするようになった。
「何故こんなことをするのですか。脅さなくたって、俺は兄上には敵いません。誰もが兄上こそ次期国王になるべきだと」
「国王には姉上がなるべきなんだ」
「なぜです?兄上は王太子になりたくないのですか」
「煩い!とにかく、お前は目立たず大人しくしていればいいんだ」
思春期を迎えるころ、ようやく俺は兄の目的を理解した。
兄はエルフリーデ姉上へ恋をしているのだ。
実の姉へ向ける汚らしい劣情を覆い隠し、愛らしい少年を演じる姿に吐き気がする。そしてそんな兄に何一つ勝るものがない、俺自身にも。
ローゼマリー・ファインベルグ公爵令嬢に出会ったのは、彼女が兄の婚約者に定まったときだった。ローゼマリーは素直に兄へ恋慕を向けていて、それがひどく憐れで気の毒に思った。いつか真実に気づいたとき、どれだけ彼女が傷つくだろうかと。
聡い彼女は、ほどなく気づいたようだった。しかしローゼマリーは傷ついた目をしながらもそれに打ちひしがれることなく、王子の婚約者として在るべく前を向いていた。
ぴしりと伸びた背筋が彼女の生き様を表しているようで……。俺は感銘を受けた。兄の足下でどうにでもなれと腐っていた自分が恥ずかしくなり、同時に彼女を美しいと思った。容姿ではなく、その真っ直ぐで強かな精神を。
ローゼマリーが欲しい。気づけばそう強く願うようになっていた。
しかし彼女は兄の婚約者だ。それにローゼマリーは兄を慕っている……。
俺はダルロザ国への留学を願い出た。このまま安穏と過ごしていたとて、何も変わらない。自分を変えたかった。
両親は良い顔をしなかったが、エルフリーデ姉上が後押ししてくれたおかげで留学が認められた。
留学先で俺は必死に勉学へと打ち込んだ。剣術や体術などは修練を積み過ぎて周囲に止められるほどだった。兄に勝ちたいという思いがあったのかもしれない。
またダルロザの貴族たちと積極的に交流を行い、人脈作りに励んだ。好かれるように人当たりの良い王子を演じるのは簡単だった。いつも兄の演技を見ていたおかげだろう。皮肉なことだ。
ダルロザだけではなく、休暇を利用して様々な国を訪れた。視野が広がると、我が国が如何に劣っているかが良く分かる。領地が小さくとも農作物や鉱物などの産物は豊富にあるのに、杜撰な国政のせいでいつまでも国力が弱いままなのだ。
古い慣習に固執する重臣たちや私腹を肥やすことにしか興味の無い貴族たち。姉への恋慕で跡継ぎ争いをかき回す兄とそれを許している国王夫妻。
……もはや彼らに政を任せることは出来ない。
ファインベルグ公爵から連絡が来たのは、そんな決意を固めた頃だった。
兄の後ろ盾である公爵が俺に何の用が?と当初は警戒した。しかしじっくり話してみると、彼もまた国を憂う一人だということが分かった。
公爵の目的は兄ではなく、俺を次期国王として担ぐことだった。
それが彼の野心に寄るものなのか、本当に国を憂いているからなのかは分からない。
だが公爵が俺を利用しようとするのなら、俺もまた彼を利用すればいい。
ファインベルグ公爵の力があれば王太子への道が開ける。そして何よりも……ローゼマリーを手に入れられるかもしれない。
そして俺とローゼマリーが組んで仕掛けた策は面白いようにハマり、兄はどんどん堕ちていった。
俺を脅そうとして、逆に投げ飛ばされた姿は痛快だったな。
幼い頃のように弟を思い通りできると考えたのだろうが。謂れのない暴力に怯え、兄の言いなりになっていた俺は、もういないのだ。
◇◇◇
「立太子おめでとうございます、殿下」
「先日も新しい治水計画を立案されたとか。殿下が即位なされば、この国は急速に発展を遂げるでしょうな」
本日、俺の立太子とローゼマリーとの婚約が正式に公表された。夜会に参加した多くの貴族が俺たちに挨拶しようと列をなしている。
「ファインベルク公爵令嬢、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます、バーデン侯爵夫人。末のカリーナ様もご婚約が決まったと聞いておりますわ。慶事が続きますわね」
傍らに立つローゼマリーは光り輝くような美しさだ。
しかも美しいだけではない。
貴族たちと会話を交わしているが、その当主だけでなく家族の名前や現況に至るまで完璧に把握し会話に織り込む彼女に、相手が感嘆の声を上げる。
やはり俺の目に狂いはなかった。彼女こそ王妃に相応しい。
今のローゼマリーを見たら、兄はどんな顔をするだろうか。
ちなみにこの場に彼の姿は無い。
兄は未だに俺の立太子を認めたくないらしく、悪あがきを繰り返している。未練がましくローゼマリーへ付き纏ったため、怒ったファインベルク公爵により王家へ抗議が来て今は監視付きで自室へ押し込められているのだ。
ファインベルク公爵を敵に回すことがどれほど愚かな事か、兄は分かっていなかった。ローゼマリーや公爵一門が兄を支えていたからこそ、優位に立てていたのに。姉上の縁談を防ぐために形振り構わなくなった挙句、兄は一番必要なものを手放したのだ。
欲しい物のために策を弄することを否定はしない。俺もやっていることだ。
だからといって自分を慈しみ、支えてくれる者たちをないがしろにしていいわけはない。王族として、国を守る責務を忘れていいわけもない。
他者を顧みなかったのだから、同じように他者から見捨てられるのは当然だろう?
ローゼマリーは報われない兄への想いに傷ついていた。
今の彼女へ恋情を訴えても受け入れてはくれないだろう。だから敢えて野心を前面に出し、彼女の能力と公爵家の後ろ盾が欲しいと伝えたのだ。
それは賭けだった。
あの時点でローゼマリーはまだ兄の婚約者だったから、俺が迫った決断は彼女を不貞の共犯にしてしまう。
兄が王族ではなくなっても添い遂げたいのならそれもいい。あるいは兄とも俺とも離れたいのであれば別の嫁ぎ先か、独りで生きられる道を用意するつもりだった。
俺の望みは彼女が幸せになることだから。
しかし彼女は俺と共に生きる道を選んでくれた。今までの人生で、あの日ほど嬉しかったことはない。
俺とローゼマリーの関係は、婚約者というより共闘者に近いだろう。
今はこれでいい。これからゆっくりと、愛を育んでいけばいい。