05. 嘆きの湿原
幸いその声は、一言告げただけで気配ごと消えていった。木々をざわつかせていた物騒な空気も綺麗さっぱりなくなって、静まっていた鳥の声が再び聞こえ始める。
しかし、四人を取り巻く空気は一変していた。先ほど響いた声を思い出して、エセルがぶるりと体を震わせる。
「え、え……なに今の声……まさか魔王……?」
「ものすごい威圧感でしたね……僕まだ手が震えています」
ダンは傍らのシシィに視線を向ける。彼女の手は無意識にダンの服を掴んでいた。手の色が真っ白くなるくらいぎゅっと強く握り締められて服が皺になっているが、鋼鉄のシルク製の服なので跡が残ることはないだろう。まあ、跡が残ったところで気にするダンではないけれど。
「……ヴェルザード……」
シシィが呟いたその名前は、かつてダンと相討ちになった魔王のものであった。シシィがダンを助けたことにより息絶えたかと思ったが、あれも存外しぶとい男だ。
服を握るシシィの手を、ダンの大きな手が包み込む。包帯越しに伝わる温度に、シシィの手の力が少しだけ緩んだ。
「僕がいる」
「ダン」
「なにがあってもシシィを守る。だから大丈夫」
見ていたエセルとフィルは思わず赤面した。なんだろう、ものすごく犯罪的な一場面を見ているような気がする……。
「……ゴホン。えーと、シシィちゃんとダンさん。今のって魔王の声なの?」
「そう。あれが当代魔王ヴェルザード・アーダベルト・ヴォリス。百年前に斃されたんだけど、復活したみたいね」
てっきり新魔王が選出されたという意味での『魔王復活』だと思っていたシシィだが、違ったらしい。
とはいえ、ダンの体が魔剣のせいで未だにバラバラなように、ヴェルザードの復活もまた聖剣の影響で不完全なものに違いなかった。それほどまでに百年前の戦闘は激しかったのだ。
彼らの体が完全回復するためには、どちらかが相手を殺した場合のみ。ダンが魔王を倒せばダンは完全回復し、魔王がダンを倒せば魔王が完全回復する。それを考えると、なにがあっても負けるわけにはいかなかった。そして向こうもきっと同じことを考えているはずで。
ちなみにエセルとフィルは魔王の声をはっきりと聞き取ることができなかった。完全復活していないヴェルザードがこんな遠くにまで『声』を届けることができたのは驚異的なことだが、それでも魔族以外がその響きを聞き取ることは難しい。おかげで「シトラシア」を聞かれずにすんでホッとしているシシィである。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。できれば明るいうちに嘆きの湿原を越えてしまいたいし」
「あ、うん」
頷いたエセルが傍に置いてあった弓を取り、フィルが火の始末をし、ダンが背嚢を再び背負う。シシィも『消えぬ灯火』の様子を確かめて、燃え尽きかけた『退魔の香木』を追加した。千時間経って火が消えるまでは、念のため焚き続けておいたほうがいいだろう。これがあれば魔獣はしばらく寄りつかない。ちなみにカラクリ仕掛けの魔導衛兵には効果なし。
そうして一行は川沿いを進み、やがて大きな湿地帯へと辿り着いた。青紫の水面には美しい鈴蘭が咲き乱れ、その間を木の板を組み合わせた足場が設置され、ずっと向こうまで続いている。明らかに人工的なその橋のようなものを見て、フィルが不思議そうに首を傾げた。
「これって……通行人のためのものですか?」
「ええ、そうよ。通る人なんてあんまりいないけど、ゼロではないから。私も魔界都市にいた頃はたまに来ていたし」
シシィの言葉に、そういえば彼女は魔界都市出身だからと、道案内役として同行していることをエセルとフィルは思い出す。
「そうなんだ。確かに綺麗な景色だもんねえ」
「それもあるけど。一番の目的は精神修行の一環でね。『嘆きの鈴蘭』にあえて触って、過去のトラウマに負けなかったら合格。負けて死んだら不合格って感じで」
「…………。そ、そうなんだ……」
エセルは引いたし、フィルも引いた。そしてダンは珍しく真面目な顔で「そういう危ないことはもうしないで」と真っ当なことを言った。その通りだとエセルもフィルも思った。
「とにかく水面にも鈴蘭にも触らないようにね。五つある難所の中でここが一番マシだから、さっさと抜けちゃいましょう」
「あ、はい。……わっ、い、意外と不安定ですね」
いざ木の板に足をかけたフィルが慌ててバランスを取る。橋といえば聞こえはいいが、実際は横に三枚並んだ木の板がずっと向こうまで続いているだけだ。掴まれる手すりなんてないし、なんなら木の板が湿原の上に浮いているだけの状態に近い。
何度もここに来ているシシィと、一度目の魔王討伐の際にもここを通っているダンはすでにコツを掴んでいるが、エセルとフィルはそろそろと進んだ。慣れるまでは普通に歩くのも難しい。
「うぎゃっ!」
「エセルさん!?」
そして案の定、エセルが派手に転んだ。どうやら足下の溝に気づかずに蹴躓いたらしい。ぎょっとしたフィルが慌てて手を伸ばして橋から落ちそうになる彼女を支える。おかげでエセルは落ちることこそなかったが、片手がバシャンと湿地に浸かってしまった。
その瞬間、エセルの脳が大きく揺れた。誰かが頭の中に手を突っ込んで、無遠慮にかき混ぜてくるような、そんな感覚。
「ぅあっ……!?」
エセルが苦悶の声を漏らした。頭の中をかき混ぜられて、引っ張り出されたその記憶に顔が歪む。
気づけばエセルは、いつかの水辺に立っていた。大小さまざまな沼や湖が密集している地域で、この国では『腐敗の大森林』の次に危険だとされる『底なしの湖沼地帯』だ。
『エセル、あんただけは逃げて……っ!』
背後から聞こえた悲鳴のようなその声に、エセルはバッと振り返った。
そこにいたのは、かつてのパーティメンバー。同じ村出身の幼なじみ五人で結成した、ギルドでも上位に食い込む敏腕パーティだった。
そんな彼らが、幼い頃からずっと一緒にいた彼らが、エセルの目の前で次々と死の底なし沼へと引きずり込まれていく。
『行け、エセル! 俺たちに構うな!』
『生きてギルドに報告して! ここは中難易度なんかじゃない! ギルドが把握してるよりもっとやばい魔物の巣窟だって!』
『誰かが報告しないと、なにも知らない冒険者がまた犠牲になる! 行くんだ、エセル!!』
恐らくは、ここで同じ目に遭った冒険者は他にもたくさんいたのだろう。けれど誰もギルドまで報告を持ち帰れなかった。みんなここで命を落とした。だからギルドは今日までここの実態を知らずに『中難易度』に指定してしまっているのだろう。
仲間たちが次々と湖の中に引きずり込まれていくのを、エセルはなにもできずに見守るしかなかった。当然だ。いま見えているこの光景は、あくまでエセルの記憶の中の話なのだ。過去は変えられないし、当然誰も助けられない。
「いやああああああああ!!」
「エセルさん!? しっかりしてください、エセルさん!」
そして現実世界では、橋の上で大暴れするエセルをフィルが必死に抑えていた。あまり暴れると同じ橋の上にいる三人も落ちかねない。ダンだけは超人じみた平衡感覚のおかげで何食わぬ顔で立っているが、シシィはわりと必死に踏み留まっている。
「殴る?」
「やめなさいダン。仲間をなんだと思っているのよ」
「…………」
「そのきょとん顔もやめなさい、まったく」
このままではエセルがダンに手痛い一撃を食らわされそうだったので、シシィが止めてくれている間にフィルが特級癒術の『精神安定術』を行使する。その名の通り相手の精神を安定させる癒術だが、一時的でも気休めでもなく本当に安定させてしまうあたりが上級を通り越して『特級』癒術とされている所以であった。これを使える癒術師は、癒術院でも十人に満たない。
フィルの掌から溢れた淡い光が、エセルの全身をゆっくりと包み込んで、そして消えていく。たったそれだけで暴れていたエセルがみるみる大人しくなった。かと思えば、全身の力が緩んでがくりとフィルの腕に崩れ落ちる。
「……エセルさん? 大丈夫ですか?」
「…………ごめん、フィル。ありがとう」
目を真っ赤にしたエセルがのろのろと顔を上げた。どうやら本当に落ち着いたらしい。見ていたシシィは感心した。『宝石薬』は体の怪我や病気を治すだけで、心の傷には効果がない。そのうちその方面にも効く薬も開発しようかと構想を練りつつ、フィルの圧倒的な癒術にはただただ感心するばかりだった。人の精神に干渉する術は、どの分野においてもかなり高度なことを知っていたから。
「立てますか? エセルさんくらいなら僕でも抱えられますけど」
「大丈夫……でも、あんまりここにいたくない。シシィちゃん、早く行こ」
「わかったわ。フィル、エセルをお願いね」
「はい、任せてください」
こうして一行は足元に注意しながらもできる限り足早に湿地帯を通り抜けた。距離は長いが一直線だ。余計な邪魔が入らなければ抜けるのは容易である。
そう、あくまで邪魔が入らなければの話だが。
「シシィ、あれ」
「ああもう、手荒い歓迎ね。いいわ、とにかく突破よ突破」
橋の先で待ち受けていた魔導衛兵の一団にシシィは胡乱な目をした。これはもう完全にこちらの動きを読まれているとみていいだろう。
シシィが全神経を集中させて、魔導衛兵の急所に攻撃の狙いを定める。仮に胴体を大破させてところで、左手の指先にある五つの核をすべて破壊しなければ魔導衛兵は何度だって復活するのだ。
先ほどと同じように聖剣による範囲攻撃が使えれば良かったのだが、それだとエセルとフィルが巻き添えになる可能性が高い上、不安定な足場にいるシシィとダンも無事では済まない。魔導衛兵を殲滅するついでに、自分たちも湿原の餌食になってしまう。
というわけで、シシィは頑張った。ダンが聖剣でがんがん攻撃している隙に、核を確実に破壊していく。体を破壊しても復活するとはいえ、一瞬で復活するわけではないのだ。動き回る魔導衛兵たちの左手を苦労して捕捉するよりも、ダンの攻撃によって一時的に動けなくなったところを狙ったほうがはるかに楽だし確実である。
それを考えると、エセルの『追跡攻撃』は非常に有効かつ高度な技術であった。的が動いていようがお構いなしに攻撃できるというのはかなり大きい。
魔導衛兵との攻防はしばらく続いたが、後方待機しているエセルとフィルに近づけることなく無事に撃退に成功する。シシィはじっと自分の掌を見つめた。……かすかに震えている。これは、どうにも悩ましい。
「シシィ、大丈夫だった?」
「……ええ。でもさすがに時間がかかったわね」
「シシィさん、ダンさん、ありがとうございました」
「迷惑かけてごめんね、みんな……」
未だに涙声のエセルであったが、フィルに支えられながらなんとか一緒に湿地帯を抜ける。空を見上げればすでに日が傾いて薄暗くなってきていた。四人は破壊されてガラクタと化した魔導衛兵を尻目に、野営できる場所を探して先へと進む。
「……あのね、みんな」
野営するのにちょうど良い岩影を見つけてそれぞれ荷物を下ろしていたシシィとフィルは、エセルの声に振り返る。
「どうしましたか、エセルさん」
「さっきあたしが暴れた時のね、……昔の話、聞いてくれる?」
エセルが語り始めたのは、今から二年前、エセルのパーティが彼女以外全滅した時の話だった。
当時まだ中難易度に指定されていた『底なしの湖沼地帯』が、『腐敗の大森林』に次ぐ死地として認定されたきっかけは、まさにエセルが命からがら帰還してギルドに報告したからであること。仲間たちのあまりに悲惨で衝撃的な最期を、今でも時折夢に見ること。……仲間を見捨てて逃げたのだという意識が、恐らくはこれからもずっと消えないだろうこと。
シシィとフィルは、黙って聞いていた。今のエセルにはどんな慰めも励ましも意味がないことは、二人ともにわかっていたのだ。なにを言っても、もうエセルの仲間たちは帰ってこない。エセルだけが生き残ったという事実は今後も変わらないし、彼女がそれを死ぬまで抱え続けなければならないことも変わらない。
「……つらかったですね、エセルさん」
「…………」
「そうね……でも忘れちゃいけないことよね」
そうなのだ。エセルはまたもやボロボロ泣きながらも頷いた。
つらかった。でも誰かに話して「あなたのせいじゃない」「仲間たちは誰もあなたを恨んでなんかいない」と言われたところで、なんの意味もなかった。だからなんだという話なのだ。そうだとして、一体なにが変わるというのだろう。
だからこそ、つらかったこと、そして忘れなくてもいいと言ってもらえたことが、エセルにとってはどんな慰めや励ましよりもよほど「わかってもらえた」と思えたのだ。
「ありがと、二人とも」
そんな三人を遠巻きに眺めながら、ダンはひとり顔を伏せた。……彼もまた、パーティが全滅してなお自分だけ生き残った立場だった。エセルとは違って、ダンは失ったかつての仲間のことを考えたりはしないけど。
それぞれの心にさまざまな感情を呼び起こしながら、夜が更けていく。




