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10. 百年前の記憶


 ――気づけばダンは、なぜか裂魂の荒野に立っていた。

 強い風が吹いている。しかしダンは小揺るぎもせずに空を見上げた。


 大きな鳥が視界を横切っていく。見たことのない鳥だったが、興味はなかった。ただ、あんなふうに飛べたら魔界都市まで一瞬で行けるのに、とは思った。

 どさっと、誰かがダンの足元で倒れる。見ればここまで一緒に旅をしてきた仲間の戦士だったが、ダンは特に心配することもなく彼を襲った魔導士を見返した。

 同士討ちを誘発する風に煽られて、ダン以外のパーティ全員が狂ったように互いに武器を向け合っていた。ダンだけが風の影響を受けていない理由はただ一つ。彼らを『仲間』だとは思っていないからだ。

 面倒だな、と思った。彼らに対する仲間意識はないが、戦力としてはいてもらわないと困る。少なくとも、魔王討伐が終わるまでは必要な存在だった。


 確か当時の自分は、乱闘を繰り広げる彼らを適当に引き離して、物理的に距離を置かせたはずだった。そして互いが視界に入らない距離を保って行軍することで切り抜けた。……ような気がする。正直あんまり覚えていない。


 ダンは戦い合う仲間を尻目にさっさと歩き出した。シシィがいない時点で、これは現実の出来事ではないとわかっていた。遠い遠い、とっくの昔にダンが置き去りにした過去に過ぎない。

 次々と景色が切り替わり、ダンはそれを無感情に視線で追う。けれどその中のどこにもシシィの姿はなかったから、無視してただただ歩き続けた。


 そしてついに、場面が魔王の間へと切り替わった。絶命した仲間たちが冷たい床に転がり、ダンも魔王と相討ちになって全身がバラバラになる。

 けれどダンは、その光景のどれにも心を動かされはしなかった。自分でも異常なことだとは薄々わかっているが、とにかくダンは昔から感情が極めて希薄なのである。面倒だなとか、嫌だなと思うことがたまにあるくらいで、それ以外は誰がなにをしようと、自分の身になにが起ころうとあまり気にならないのだ。でも。


 シシィのヒール音が響いたあの瞬間、まるで雷にでも撃たれたかのような衝撃を受けた。

 一目惚れとは違う、どちらかといえば自然の驚異を目の当たりにした時の感動に近かった。そのあまりの存在感に圧倒されて、彼女に比べたら自分がいかにちっぽけな存在なのかを思い知る。


 綺麗だ。触れたい。近づきたい。彼女のことが知りたい。

 そんな人間らしいことを、この時ダンは人生で初めて考えて。しかしそのすべて即座に否定した。

 周りはみんな、ダンがシシィのことを好きだと思っている。シシィでさえも。なぜならダン自身が好きだと人目も憚らずに公言しているからだ。そこは自他ともに認めるところである。


 だが、少なくとも彼女と初めて出会ったこの時。ダンの凍りついた心を溶かした感情は、恋情でも愛情でもなかった。


 ダンがシシィに対して一番最初に抱いた感情は、渇仰だった。


 そしてそれは、それまでダンの中には欠片もなかった強烈な生への渇望にも繋がっていく。それこそ死にたがりには興味のない、聖魔女シトラシアの心を動かすくらいには。



『生かして』



 そう言ったダンを、シシィはじっと見つめた。それから彼女は倒れ伏す魔王を見て、けれどすぐに視線を切ってダンのほうへと歩み寄る。



『……勇者ロダン。今の状態のあなたを助けるには、私の魔力の大部分をあなたに注がないといけない。そうすればあなたはもう人間でも魔族でもない存在になってしまうけど、それでもいいの?』


『構わない。僕は生きたい。そのためなら、なにを犠牲にしても構わない』



 ダンの言葉に、シシィは頷いた。

 そして彼女は自身の生命維持に必要な魔力以外をすべてダンに注ぐことで、瀕死の彼を救ったのだ。




◆ ◆ ◆




 ハッと目を覚ました時、真っ先に見えたのはシシィの顔だった。



「ダン、起きた?」


「……シシィ?」



 労わるような手つきで髪を梳かれて、ダンは自分がシシィの膝の上で寝ていたことに気がついた。

 ここがどこで、今がいつなのか、ダンはぼんやり考える。魔王の間での出来事がまだ続いているようにも思えたが、目の前にいるシシィが子供の姿ではなく大人の姿だったので、今いる世界のほうが現実だと判断した。

 気怠げに寝返りを打って、そのままシシィの腹部に顔を押しつける。彼女は抵抗もせずにダンの頭を撫でてくれた。



「魔剣の呪いのせいで体がしんどいでしょう。ぐっすり寝てたわよ」


「ここ、どこ?」


「グェンさんたち解放派の隠れ家。もう少し休んでて。今フィルを連れてくるわね」



 シシィが立ち上がろうとするのを、ダンは彼女の腰に腕を回すことで(とど)めた。



「まだここにいて」


「……なにか嫌な夢でも見た?」


「ううん。シシィと初めて会った時の夢。でも夢じゃなくて現実のシシィが一番好き」



 数拍おいて、シシィは「そう」と答えた。

 昔からダンは真っ直ぐな言葉でシシィに想いを伝えてくる。おかげでこの百年、シシィはダンからの好意を疑ったことは一度もなかった。疑いようもなく、彼はいつだって純粋に愛してくれていたから。


 かつてのダンの渇仰を、シシィは知らない。けれど今のダンから向けられる、深い愛情は知っている。


 それはシシィの知らない種類の愛情だった。魔王家では一度も、誰からも向けられたことのない感情。一番近かったかもしれないヴェルザードの、執着じみたそれとは違うもの。



「……私も大好きよ」


「うん。知ってる」



 シシィの膝の上で、ダンが満足げに笑った。愛して、愛して、けれど別に自分は愛されなくてもいいと思っているダン。それでもシシィから確かな愛情を返されるたび、彼はこの上なく幸せそうに笑うのだ。まるで思ってもみなかった贈り物をもらったとでも言わんばかりに。



「ねえ、シシィ」


「なに?」


「僕はヴェルザードを殺すよ。今度こそ」



 その言葉に、シシィはじっとダンを見つめた。ダンはまた寝返りを打って、シシィの視線を真正面から受け止める。



「あいつがシシィにとって大事な従兄だって知ってる。たくさんの綺麗な思い出があることも知ってる」


「……そうね」


「でも僕は、あいつを殺す。今度こそ。たとえそれでシシィに嫌われることになったとしても」



 勇者としての使命とか、バラバラな体を回復させるとか、ましてやシシィのためですらない。

 ただ単に、ダンはヴェルザードのことが嫌いなのだった。一度目の魔王討伐の時からずっと。

 なんの理屈もなくダンがシシィを愛しているように、なんの理屈もなくダンはヴェルザードのことが嫌いなのだ。後付けの理由ならいくつかあるけど、そんなものなくてもダンはヴェルザードを一目見た時から直感していた。


 この男とは、なにがあっても絶対に、分かり合える日など来ないこと。そしてたぶん、向こうもダンに対して同じことを思っている。

 生まれながらの敵対者。それがダンとヴェルザードなのだ。


 シシィは瞑目した。……葛藤がないと言えば、嘘になる。

 それでもシシィは、ダンを止めようとは思わなかった。百年前の因縁を清算する日が来た。それだけの話なのだ。少なくとも、ダンとヴェルザードにとっては。そこに第三者が口を挟む余地などない。だからシシィは、ダンの額に唇を寄せるだけにした。――願いを込めた聖魔女の口づけ。



「生きてね、ダン。なにがあっても私があなたを支えるわ」


「うん。シシィがくれた命を無駄にするつもりはないよ」



 とろりと瞳を溶かしてシシィに笑いかけたダンだったが、ふとその視線を鋭くして部屋の扉をじっと睨んだ。そして。



「……だからエセルさん、押さないでくださいってば……!」


「だってよく見えないし……! フィルばっかりずるくない!?」


「ちょ、もっと声を抑えて……!」



 なんだか知った声がごちゃごちゃ聞こえる。気づいたシシィもくすくす笑い、ダンは渋々起き上がった。せっかくいい雰囲気だったのに、いろいろと台無しだ。

 シシィが指先をすいと動かせば、細く開いていた扉がバタンと全開した。突然扉が開いたことで、言い争っていたエセルとフィルはぴたりと口を噤んで気まずそうな顔をする。



「あ、……え、えへへ。ダンさん、体は大丈夫?」


「あの、なんかすみません……」



 屈んだフィルの頭の上に、エセルの顎が乗っている。妙な姿勢の二人を見てダンは半眼になったが、面倒臭いので結局なにも訊かないことにした。居住まいを正したシシィに手招きされて、二人はおずおずと室内に入ってくる。



「えっと、そろそろダンさん起きたかなって様子を見にきたんだけど……」


「なんだかいい雰囲気だったので入る機会を逃してしまって……邪魔してすみません……」


「わかればいい」


「ダン、そういう意地悪なこと言わないの」



 そうしてフィルがダンの体を診ている間、シシィは解放派の間を回っていたエセルから話を聞く。



「というわけで、あたしたちが魔力泉にいた時に魔力監視網がそっちに集中して、他は一時的に緩んだらしくて。その隙にグェンさんたちがこっそり入り込めたみたいなの」


「そう。でも今はきっとバレてるわよね。それでも魔導衛兵たちが鎮圧にこないってことは、ヴェルザードがくれた三日間の猶予は解放派にも適用されているみたいだけど……」



 考え込むようにシシィは顎に手を当てた。

 やるべきことは決まっている。魔王討伐だ。この三日間でそのための準備を整えて、魔王城に向かわなくてはならない。

 そして、都市の外縁部で抑圧に苦しんでいる人々も救う必要がある。こちらに関しては別に頼まれたわけではないのだが、魔王家の一員だったシシィの心残りでもあるので、できればなんとかしたい気持ちがあった。



「エセル、解放派の目的は革命なのかしら?」


「ううん、そういうわけじゃないみたい。結果的にそうなる可能性はあるけど、解放派の人たちは別に魔族や魔王家が憎いわけじゃないから。あくまで平等な世界が目的だと思う」



 その証拠に、彼らは生粋の魔族であるシシィにはむしろ好意的なのだ。種族に関係なく平等な社会を目指しているからこそ、シシィの血筋や立場ではなく行動を評価してくれているのだろう。

 シシィは部屋の隅に置いてあった自分の荷物の中身を確認した。そして、ふむと思案する。



「シシィちゃん? どうしたの?」


「んー……ちょっと雑貨屋を再開しようかなと思って」


「え?」



 なにやらわけのわからないことを言うシシィにエセルが首を傾げれば、ようやくフィルによる応急処置が済んだダンが近寄ってくる。



「シシィ」


「はいはい、なあに?」


「『綸言の秘薬』って魔王の妹にも有効?」



 シシィは胡乱な顔をした。ダンがなにを目論んでいるのか大体わかった。



「効くけど……グロリアーナに使うつもり?」


「だってあいつ鬱陶しいし、それ使って黙るなら一番手っ取り早いでしょ」



 正直ダンにとっては戦う価値もない存在だ。シシィに向かってキャンキャンと鬱陶しくて敵わない。

 ちなみにいかな綸言の秘薬といえど、残念ながらヴェルザードには効かないのだった。その手の小細工は魔王相手には一切通用しない。なおシシィに関しても以下同文。効果があるのはせいぜいグロリアーナまでだ。



「そういえばダンさん、解放派の皆さんが勇者に会いたがっていましたよ。一度だけでいいので彼らに会ってあげてくださいませんか」


「やだ」


「ダン」


「…………一瞬だけなら」



 一瞬では意味がないのでは……とシシィは思ったが、フィルが「ありがとうございます!」と言ったので一瞬でもいいらしい。あるいはエセルと二人がかりで二秒くらいは保たせるつもりなのかもしれないが、まあ、特に止める気のないシシィである。

 そんなわけで早速連れて行かれるダンを見送りつつ、シシィは荷物のそばに置き去りにされていた聖剣に目を留めた。



「…………」



 部屋に誰もいないことを確認してから、シシィは聖剣に手を伸ばす。

 途端、バチンッ、と激しく抵抗された。反射的に手を引っ込めたシシィだったが、まったく気にせずもう一度手を伸ばして鷲掴む。



「勇者を守らないくせに、魔族には抵抗するってどういうことなの」



 聖剣は沈黙している。しかし文句で言いたいのかシシィをバチバチと地味に攻撃してくる。ひどい火傷を負ったような感覚がしたが、やっぱりシシィは気にしない。



「もうすぐあなたの片割れと相見えることになるわ。……あなたが気に入って二度も選んだ勇者を守りなさい」



 聖剣が、シシィの手の中で徐々に大人しくなる。シシィは続けた。



「いいわね、聖剣カレトヴルッフ。勇者を守る気があるのなら、()()()()()。いつまでも夢現のままでいられたら困るのよ」



 その瞬間、聖剣はシシィの言葉に呼応するかのようにかすかに光を放った。妙にチラついてはいるが、これはたぶん魔族であるシシィに握られているのが不本意だからだろう。とはいえシシィの魔力を纏うダンには抵抗しないので、これは単に聖剣の好き嫌いでしかないと思われる。

 まあ、やる気になったのならいいだろう。シシィは聖剣から手を離して元の場所へと戻した。


 その後、五分も経たないうちに戻ってきたダンがシシィの手の火傷に気づいて大慌てすることになるのだが、そのあたりは語るまでもない余談である。


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