第79話 『結果:したくない!』
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決して楽な道のりではなかったが、それでもなんとかスケジュール通り。
残すところは一日、そして一層。七日目に第79層を踏破すれば、次の第80層以降はユウたちシャドウ組と合流する手筈である。
そのため翌日の朝。アレンは宿を出ると、この長く熾烈を極めた一週間に区切りをつけるべく、確固たる足取りでバベルへと——
「ねえアレン、ちょっと早く出ちゃったし、どこか寄ってかない?」
「また小倉トースト食べたいのか? ほんと好きだよなぁ」
「えへへー。いいじゃん、時間あるんだから。アレンだって甘いの好きでしょ?」
「まあ、そうだけどさ。……そう毎日のように食べてたら、いくらなんでも太るぞ?」
「愚かにも軽々に口にしてしまったねっ、禁断のワードを————!」
バベルには向かわず、ノゾミと歩いていた。
朝はシャドウ組の進捗共有のため、いつもの応接室でミーティングの予定なのだ。もっともアレンに関しては、ノゾミからおおむねのことは聞いていたのだが。
朝陽に照らされた街路にはちらほらとほかの転移者がいて、一見するとアレンが転移した——より正確には『今回』のループにて目覚めた日となんら変わらない光景。
だがアレンにも、きしむような、独特の空気が町を覆っていることが感じられた。
往来は以前よりも静かで、行き交う人々はうつむきながらどこかそそくさと移動している。町の空気は緊張めいたものを孕み、静けさは嵐の前触れを思わせた。
バベルの狩り場からモンスターが消えて一週間だ。
PPの枯渇。それに伴う飢餓。暴動。混沌期の再来。
不吉な想像は、言葉がなくとも人々の脳裏に共有されているはずだった。それが町に不穏な影を落としているのだろう。
(……か細い糸のような危うい均衡。だが、まだ保たれるはずだ。そのためにみんながんばってるんだから)
PPの不足はシルヴァやユウたちの主導するシャドウ狩りによって補われている。また、アレンたちがバベルを攻略していることも、人々が希望を抱く一助となっているはず。
「きっとうまくいくよね。ううん、いかせるんだ。わたしたちの手で。第100層でパンドラって子を倒せなかったら、次のループにいって、アレンと出会ったこともなかったことになっちゃう。それだけは絶対嫌だから」
往時と比べると亀裂の入ったような街の有り様に、より早く転移したノゾミも同じようなことを考えていたのか。突然の話題に振り向いたアレンの碧い瞳に、じゃれ合っていたよりずっと真剣な、憂いを帯びた横顔が映る。
「バベルの攻略は順調だ、なんとかなるよ。約束、果たさないとだしな」
「ふふ。頼りにしてるからね、わたしのかわいいナイトさんっ」
「かわいいは余計だ」
「かわいいだけでいいんだ?」
話していると時間が経つのは早いもので、いつの間にか目的地に着いている。
今やすっかり慣れ親しんだ〈サンダーソニア〉のギルドハウスの門を押し開けながらアレンは、問いには答えずに半身だけ振り向いて言った。
「ほら、いくぞ。ミーティングの前にエルの様子、見に行くんだろ」
最初からそのために朝早くから宿を出たのだと、とうにわかっている。それは人並外れた情報処理の才能、『鷹の眼』の洞察によるもの……などではなく。
どこにでもあり、誰の中にでもあるようなありふれた感情。ただ同じ時間を、すぐ近くで過ごしてきたからこそわかる、友愛の賜物だった。
「アレン……うん。うんっ!」
孤児院の方へと向かうと、ノゾミはにこにこしながら後をついてくる。妙だとは思いながらもどうも邪険にはできず、そのまま建物へ入る。
孤児院の中は建物をぐるりと囲う廊下と、それに面した部屋がいくつもあって、どこか学校のようだ。とはいってもアレンの通っていたような近代的なそれではなく、今よりも百年ほど古くに見られたような木造の校舎。
馴染みこそなくとも、木材の持つ得も言われぬ温かみは国や世代にかかわらず共通だ。指定したのはおそらくギルドマスターのシンダーだろうが、アーカディアの世界に来て親とはぐれた転移孤児たちの境遇を思えば、気遣いのある適切な選択と言える。
エルの部屋を訪ねようとしたが、広間の方から声がしたため、そちらを覗いてみる。すると幅広のテーブルに向かって三人の子どもが並んでいた。
「エル、ミソラ、サク。なんだ、お勉強か?」
「こらアレン、まずは挨拶からでしょ? おはようございますっ!」
「あっ、アレンさんにノゾミさん。おはようございます」
「おはよう……ございます」
「んー……おは」
背筋を伸ばし、落ち着いて挨拶をするミソラ。残りふたりは対照的で、サクはゆったりとした所作でアレンたちを見据えたまま軽く頭を下げ、エルに至っては机にぐでーっと上体を投げ出したまま過度に短縮した挨拶を口にする。
机には各々のノートと教科書らしきものがあった。案外、アーカディアにはAIによって書かれたと思しき書籍が多くあり、このテキストもその類なのだろう。
「アーカディアに来ても勉強とは感心だ。……うーん、ほんとに立派だな、不登校時代の自分に見せてやりたい勤勉さだ」
「リーダーが宿題を出してくれるんです。現実に戻った時、学力が落ちないようにって。忙しい合間を縫ってチェックまでしてくれて……」
「シンダーが? そうだったのか」
「バベルのことから町のことまで、大変だろうにね。すごいなぁシンダーさん。わたしとそう歳も変わらないはずなのに」
「……はい、ですのに、おふたりときたら!」
ばんっ、と机を叩いて立ち上がるミソラ。視線の先には孤児院のダウナー系代表ふたり。
ノートにウサギの絵を落書きしているサクと、机と一体化したオブジェのごとくだらけているエルだ。
「宿題をやろうと言い出したのはサクなのに、もう集中が切れてしまったんですか! エルも、直前まで意気込んでたのにこの体たらく! しゃんとしなさい!」
「疲れた……脳の酷使による……疲労……」
「勉強、したことなかったから、してみたかった。結果、したくないということがわかった。ありがとうミソラ。エルはまたひとつ、学んだ」
「まだ勉強を初めて五分も経ってないし、エルもお礼を言うには早すぎ! うわぁん、サクとマチだけでも手に負えないのに、エルもだらけ組だったなんて——!」
「ミソラ、苦労してるんだな……」
頭を抱え、黒髪を振り乱す有り様にアレンは同情した。委員長気質というか、しっかり者なミソラは普段から周りの面倒を見てくれているらしい。
「そういえばミソラちゃん、マチちゃんは? 今日はいっしょじゃないのね」
「……マチならさっきまでいました。ノートを開いたとたん、我慢ならないとばかりに外へ駆け出して行きましたが」
「なるほど……」
「そうだアレンさん、ノゾミさん。もしお時間がおありなら、ふたりに勉強を教えるの、手伝ってくれませんか? わたしだけではもう……これ以上は……っ!」
「せ、切実な頼みだな。まあ、少しくらいなら大丈夫だ。ノゾミもいいか?」
「うん。勉強なんて人に教えられるほどじゃないけど」
それはアレンも同様だった。なにせ元不登校。
しかし、小学校の範囲くらいならばまあ問題はないだろうということで、アレンとノゾミはしばし少女らとテーブルを囲む。
だらけようとするエルに、すぐに別のページに目移りするサクと、ふたりを正そうといきり立つミソラ。アレンとノゾミはまるで教師のように、三者三様の少女たちを宥め、テキストに書かれた問題が解けるよう導き、時には自分も答えがわからず内心で焦りながら頭をひねる。
慌ただしくも穏やかな時間。もしかするとそれは、少し奇妙なことだったのかもしれない。
なにせ、今やアーカディアには危機が訪れている。バベルからモンスターが失せ、パンドラという管理者は65536回目のこのループを終わらせようと手を講じているのだ。
静かに、しかし確かに崩壊へと向かう箱庭。そんな中、アレンとノゾミは子どもたちに勉強を教えている。
(……ループが起きれば、この時間だってなかったことになるんだろう)
ペンを手に教えていると、そんな考えが頭をよぎることはあった。
どんな出会いも、どんなつながりも、ループが起きれば無に帰す。廃棄され、黒い海へと沈むのだ。
ならば勉強など、なんの意味があるだろう?
ましてや、それを今止めようとバベル組・シャドウ組に別れて連日対処をしている、アレンとノゾミが付き合う理由などあるのか?
ある、とアレンは言うだろう。聞けばきっと、ノゾミも同じだとアレンは信じる。
失敗すれば消えてなくなってしまうようなことでも。ともすれば軽んじられてしまうような小さなことでも。それをする意味はあるのだと信じるからこそ、アレンはこのわずかな時間にかけがえのないものを感じるのだ。




