第78話 『メデューサエッグ』
「一体なにが起き——っ」
迸る光が視界を白く染め上げる。
言い切る前に、アレンの体表は石になった。水が表面を流れて伝うように、光を直視した碧色の目から一気に灰色の石と化す。その浸食は先日の凍結などとは比べ物にならない速度で、目や耳といった器官はすぐに一切の情報を得られなくなり、すぐに全身の自由が奪われる。
(なにが、起きた……!? さっきのシンダーの言葉……石化っ?)
もはや地面に立っている感覚もなかったが、意識だけはあった。
石になっているのは体表だけ。白い光から一転、視界の閉ざされた暗闇の中で、アレンはぴくりとも動けぬまま、無限にも思える時の経過に耐えるほかない。
(また俺だけ状態異常なのかよぉ——!!)
——しかも、よりにもよって動けなくなるようなやつばっかり!!
声も出せぬ状態のため、心の内だけで叫んだ。
二度あることは三度ある。麻痺、凍結に続き、石化の憂き目に遭ったアレンは不幸を嘆く。
しかし叫ぶのも、嘆くのも、そう長くは続かない。外界の刺激を一切感じない環境下において、感じられるものは己の心の動きのみ。
けれども感情とは消費されるものであり、やがてアレンは状況に対する情動を欠くと、自然に思考を停止した。無反応な暗闇へなにかを思うこと自体に飽いたのだ。
どのくらいそうしていただろうか。なにも変わらぬ暗闇で、なにも考えないアレンはある意味で世界と合一していた。自他の境界は薄れ、すべてと一体化したような感覚だけがぼんやりと心を占めている。
それはどこか安らぎに似ていた。停滞という安寧、閉じているからこそ完成した、なにも欠けることのない空間と時間。
だが人間の知性は『なにもない』状態にさえ耐え難い、ひどく脆い構造をしていることをアレンは知らない。凪いでいるはずの心がざわつき、閉じているはずの世界が揺れ始める。
——刺激。刺激が欲しい。
なんらかの音、聞き慣れた誰かの声などを耳に入れることができれば、他者を間近に感じられるはず。それにどれだけ救われるだろう。
味を感じるのでも構わない。好物の甘い菓子とは言わないから、青臭く苦い生野菜でも、酸味ばかりが際立つ柑橘でもいい。
いっそ光を感じるだけでもいい。薄くまぶたを開いて、うららかな陽の光を浴びられたら。あるいは草木、壁や床のような人工物、誰かの手に触れる感触でも。
とにかくこれ以上、なにもないことには耐えられない。
けれどアレンの体は石に覆われ、五感の一切は封じられている。その境遇に対し、もがくことも抗議することも許されない。
安らぎに似たものは、やはり似ているだけで程遠いなにかだった。暗闇が脳を通し、思考にまでにじんでくるような錯覚。
錯覚? 本当に? 正常な感覚なんてもうどこにも感じられないのに?
焦燥と混乱が波のように押し寄せ、叫び出したい衝動は行き場がない。正気と狂気とを隔てる壁がぽろり、ぽろりと剥がれ落ちるようにして崩れていく。
そしてついに壁が崩落すると、アレンの精神は正常さを手放して——
「——はっ!」
「あ、起きた。おはようアレン、石化の状態異常ってどんな感じなの? わたし、見たの初めてだから気になるなぁ」
剥がれ落ちたのは、全身を覆う石だった。石化は一切の前触れなく解除された。アレンの体表から石はすべて離れ、倒したモンスターなんかと同じく粒子となって消える。
視界に広がる迷宮じみた風景。石造りの壁面に掛けられた燭台の、かすかに揺れる炎の灯り。足の裏で靴越しに感じる地面。
暗闇から解放されたアレンの五感が、開かれた世界の膨大な情報を浴びる。
なによりも……眼前に立つ少女の、気持ちを軽くするようなその声と、笑いかける姿。確かにそこにいるという存在感を表す息遣い、体温。
「の、のぞ……ノゾミぃ……!」
「あれ!? なんだかアレンが弱り切った子犬みたいな眼差しをしているよぉ!?」
「鉱物と生物の中間の生命体になるかと思った……」
「しかもヘンなこと言ってる——!!」
情けなくも涙ぐんだ。あのままずっと暗闇に閉ざされていたら、間違いなく精神に異常をきたしていた。
そうならず、無事に戻ってこられてよかった。アレンは心底から安堵し、深く息を吐く。
「わ。アレン、さっきよりお肌つやつやじゃない? ぷにぷにほっぺがいつもに増してぷにぷにしてる……!?」
「あぁ……たぶん、表面だけ石になってたから。老廃物みたいなのもいっしょに剥がれたんだろ」
「…………アレンがぷにぷにしても抵抗しない。これは相当なことがあったとみたね」
ノゾミの執拗なスキンシップも今ばかりは抵抗する気力が湧かなかった。どんな感覚でも、あるいは痛みでさえ、今のアレンにとっては己の存在を示してくれる安息なのだ。
憔悴しきったアレンの様子に、新手の警戒をしてくれていたのか、少し離れたところで槍を構えていたシンダーが顔を向けて言う。
「しかし、アレンさまが石化していたのはせいぜい一分。疑うわけではありませんが、そのように疲れ果てているのはいささか不可解ですね」
「は……ちょ、ちょっと待て。一分? 一分だって? 本当か?」
「ホントだよぉ。いやぁ、怖いねー。もう戦闘が終わったあとだったからまだよかったけど、麻痺や凍結に比べると効果時間は結構長いみたい。戦闘中に一分も動けなくなってたらタコ殴りだよっ」
「俺の体感じゃ、そんなもんじゃなかったぞ……?」
あの暗闇で身じろぎさえ許されなかった、拷問に等しいひと時を思い出す。
外界を感じられなくなり、体感時間がおかしくなっていたとしても、そんなに短いはずはない。どれほど少なく見積もっても、三時間やそこらは孤独に耐えていたはずなのだ。
「そうですか……なるほど。いえ、当時の騎士団があのモンスターだけは気を付けるべきだと触れまわっていた理由がわかりました。石化の状態異常を受けている間、体感時間は何倍にも引き延ばされるようですわね」
「体感時間を引き延ばす? そ、そんなことができるのかよ」
「あはは。ゲームの世界に閉じ込められてるんだから、ある意味今さらじゃない?」
「ノゾミさまに賛同します。そもそも、このアーカディアが六万回以上もループしていると明らかになった今、現実世界の時間とも同期しているとは思いたくありませんわ」
「……そっか、確かに」
アレンはまだ平静さの戻りきらない頭で、ぎこちなく考える。
今現在のアーカディア——65536回目のループを迎えた『今回』は、開始から約半年が経過している。『前回』で最後にゲームオーバーになったアレンが目覚めたのは数日前だが、当初からアレンが出遅れていたという話はノゾミに聞いていた。
もし仮に65535回のループすべてで、『今回』と同じように半年、つまり6カ月ほどの時間は経っていたものとすれば。最低でも393210カ月、年単位に換算して約32000年が経過していることになる。
「もしも現実と同期してるなら、俺たちの肉体はとっくにお陀仏だが……さすがに三万年以上もこのゲーム世界を維持できるわけもない」
「そういうことです。VRデバイスであるSEABEDが、いくら意識をデータ化するまるで映画や漫画みたいな機能を備えていたのだとしても、それらを束ねて動かすサーバーのようなものが必要になって然るべき。それが何万年も稼働し続けるのは、まあありえないでしょう」
「ううぅ、話が難しくて付いていけない……いや、こういうことはこれまでもあったけど。なんだかゲームとは別方面に難しい話だね」
「いいさ、今考えても仕方がないことではある」
どちらかといえば、希望の持てる話だとアレンは思った。
おそらくアーカディアと現実の時間は同期していない。そう考えるのが妥当だ。
それはつまり、何度も繰り返し、空回り、幾億の生を廃棄物の海へと沈めてきたこの無慈悲な連環も、終わってしまえば現実視点ではそう長くない出来事なのかもしれないということ。
一千年か百年か、数十年か数年か、それとも一年か一か月か一日か、そこまではわからないが。
「で、話を戻すが。さっきの石化モンスター、シンダーは知ってたのか?」
「ええと、はい。名前は確か、メデューサエッグ……第40階層辺りにも出現するモンスターでした。ただ、当時攻略を進めていた騎士団が注意を呼びかけていたのを覚えていただけで、この目で見たのは初めてです。それゆえに思い出すのに時間がかかり……申し訳ありませんアレンさま。制止がもっと早ければ」
「ああいや、シンダーが悪いわけじゃない。責めたいんじゃなくて、純粋にあのモンスターについて知りたかっただけだ。メデューサエッグ、名前のほかになにかわかるか?」
「攻撃をすると殻が割れて、そこから出る光を直視してしまうと石化の状態異常になります。なので騎士団によると、布を被せて光を遮るとか、光が出ている時は最悪そっぽを向いているだけでも無効化できるそうですわ」
「そうか。なら、対策は容易そうだな」
撃つ瞬間だけ目をつぶっていればいい。動きも遅いようなので、アレンであれば簡単なことだ。もちろん味方が石化しないように、撃つ前の合図は忘れないよう注意が要るが。
そうしてトラブルこそあったものの、対策法を確立したアレンたちは探索を再開。階層が上がってきたこともあり、少人数での攻略はいよいよ厳しさを増していたが、アレンの卓越した腕前やチームとしての連携によって辛くも突破する。
シャドウ組とバベル組に別れて六日目、アレンたちは第78層までを攻略しきったのだった。




