第72話 『もうひとりの名無し』
「この顔。忘れもしない……この子は、パンドラだ。『今回』じゃない。僕のいた、『前回』の……!」
森に倒れる灰色の髪をした少女。かすかに寝息を立てる彼女に、動揺を露わにユウは言った。
「前回の……パンドラ!?」
「ええ——っ!?」
この継ぎ接ぎ世界を支配する管理者、パンドラ。
しかしそれは、ループを経るごとに新生する。それこそが第70層で当人によって明かされた真実だった。
そして今、目の前で倒れているのは旧管理者。65535回目のアーカディアで管理者だった少女。一行は驚愕に見舞われ、その寝姿を固唾を呑んで見つめる。
周囲の気配に気付いてか、彼女はゆっくりと目を開いた。輝くような黄金の瞳が、まだ眠気を引きずったぼんやりとした視線をさまよわせる。
そうして、少女は緩慢な動作で身を起こした。
「——」
すぅ、と呼吸をする。それに合わせて細い肩が上下する。
一同を打ったのは緊張だった。相手はどう見ても年端のいかぬ少女であるが、それが見た目だけのものであると誰もが理解している。
なぜならその頭上、転移者IDが収まるべき箇所にあるのは黒く塗りつぶされた表記。
——『■■■■■■■』。ネームレスやシャドウたちのように初めからIDを持たないわけではなく、IDを持ちながら、それが壊れているという明らかな異常。
「起き抜けに悪いが、質問に答えてもらうぞ。お前は何者だ? アーカディアの管理者なのか? 俺たちの……敵なのか? あのパンドラと同じで!」
皆を代表するように、アレンは少女へと一歩近づいて問いを発した。
碧色の視線、黄金の双眸。見つめ合う二者の姿はどちらも幼く、ともすればそれは見目麗しい子ども同士が対面するだけの微笑ましいワンシーンのよう。
しかし、アレンがにじませる焦燥に似た緊張感はそのような牧歌的な雰囲気や幼さとは無縁のもの。
もし眼前の少女がユウの言う通り、この箱庭の旧管理者なのであれば、パンドラと同じくあの超越的な『権能』を用いるかもしれない。
ゆえに警戒は必至。敵か味方か——ごく短い時の経過を何倍にも感じるアレン。
アーカディアに来て幼女の姿になってしまった、『鷹の眼』の異名を冠する元プロゲーマーの目の前で、灰の髪の少女は問いに答えるべくその口を開き——
「……ぱん?」
——『わたしなんにも知りませんよ?』とでも言いたげに、かくんと小首を傾げた。
*
「……まさか、記憶喪失だなんて」
一時間後。アレンたちとともに〈サンダーソニア〉のギルドハウスに戻ってくると、主である女性・シンダーは混迷を吐き出すようなため息をついた。
部屋はいつもの応接間。ノゾミやユウ、シャドウの調査へ赴いた面々に囲まれ、ソファにちょこんと座っているのは森から連れ帰ってきた少女。
彼女にはどうやら、記憶がなかった。
己の名も。どうして森で倒れていたか、という経緯も。このアーカディアのことも。
なにもわからないのだと、たどたどしい言葉で説明してみせたのだ。
「まいったね、手詰まりだ。どう見たって一般の転移者じゃないんだけど、本人にわからないんじゃどうしようもない」
「うーん……ねえ、あなた。本当になにも覚えてないの?」
屈んで視線を合わせ、顔を寄せながら問いかけるノゾミ。灰の髪の少女は、わずかに考える素振りを見せてから、変わらない表情で言った。
「目的、あった。なにか……しなければならないことが」
「目的?」
ノゾミは聞き返すも、それ以上の返答は得られない。少女自身にもわからないのだ。
ただ、『なにかをしなければならない』という意識だけが、波に攫われた残滓のように残っている。それも、自身のことさえなにひとつ覚えていない中で。
「ユウ?」
ふとアレンは、傍らの男がやけに険しい表情を浮かべているのに気付いた。
アサガミユウ。『前回』のアーカディアから来たイレギュラー。そして彼曰く、少女の見た目は『前回』の管理者、パンドラとそっくりなのだという。
「……ああ、なんでもないよ。しかしあれだね、名前がないのは不便だ。アレンちゃん、ここはなにか気の利いた命名をしてあげた方がいいんじゃないかな」
「は? な、なんで俺に振るんだよ。ってか、いきなり名前を付けられるなんてこの子も嫌だろっ」
「ばっちこい……」
「乗り気なのかよ」
少女は無表情のまま、身振りで承諾を表す。瞳の色といい、容姿はいくらか、バベルで遭遇したあの恐るべき管理者・パンドラと似通ってはいたが、性格の方はまるで大違いのようだった。
突然名付け親になることになり、アレンは腕を組んで考え込む。
アレンのプロゲーマーとしての才能、高速で情報を処理する自慢の『鷹の眼』もこうした場面では役に立たない。うぅんうぅんとうめきを上げ、やがて顔を上げて出た言葉はごく完結なものだった。
「……エル」
エル。その二文字を与えられた少女は、数度、目をしばたたかせた。
「ん、わかった。わたしはエル」
そして口元をわずかにほころばせる。森からここまでずっと無表情な彼女だったが、それは初めて見せた確かな笑みだった。
「おお、お気に召したみたいだね。けれどアレンちゃん、なんだってエルなのかな。由来が気になるね僕は」
「スルーしてたけど、ちゃんを付けるなっていつも言ってるだろうが。いいだろ別に由来なんて、本人が受け入れてくれてるんだから」
「ええー。そうはいっても気になるよアレンたん」
「オタクっぽい呼び方もやめろ。だいたい初対面の時から馴れ馴れしいんだよお前は……ああいや、『二周目』のユウからすれば初対面じゃないのか。くそ、ややこしい」
「でもわたしも気になるなー、名前の由来。ね、エルちゃんもそう思うよね? なんせ当人だもん!」
「んぅ……まあ、そこそこに」
「冷めてるぅ」
わざわざ説明をするのはどこか気恥ずかしさもあり、避けたかったアレンだが、ノゾミにも追及されてしまう。なんだかんだノゾミには弱いアレンなので、視線をそらし、口の中をもごもごしながら解説を始めた。
「その、初めに森で倒れてた時さ。体を折り曲げてただろ? こう、『くの字』の形に」
「うん?」
「そんで、『くの字』ってのは、ほら。角度を変えるとちょうど、アルファベットの『L』になるだろ」
「うんうん……それで? それがどうなるの?」
「どう、って。いや、これで全部だが」
「え? それだけ? 倒れてた姿がアルファベットの『L』に似てる……ってだけ?」
「あ、ああ。そうだけど」
ある種、何者よりも雄弁な沈黙がその場に降り立った。
訊いたノゾミも、初めに疑問を呈したユウも、離れて話の行方を窺っていたシンダーも、同様に言葉を失う。
——そんな単純な理由で名前を決めたのか?
顔にそう書かれているのがありありと浮かぶようだった。
「だから説明したくなかったんだよ……! なんだよ『気の利いた命名』って! そんなもんとっさにできるかー!」
「わ、怒らないでアレン! 大丈夫、いい名前だって! 呼びやすいし……それにほら、ええと……呼びやすいし!」
「フォロー下手くそか! 擁護するならちゃんとしてくれっ」
「まあまあ、無茶ぶりをして悪かったよ。でもほら、エルちゃんも気に入ってくれてるみたいだし、結果的によかったじゃんか。テキトーな命名がうまくいって」
「お前バカにしてるだろ? 今日という今日は目に物見せてやるっ、来い、キングスレ——」
「あのっ、アレンさま!? ギルドハウス内で銃を取り出そうとするのはご遠慮いただけますか!?」
「——ぐ、〈サンダーソニア〉に迷惑はかけられないか。ふん、命拾いしたな、ユウ」
「え、シンダー君が止めてくれなかったら発砲されてるのか、僕。おかしいな、もうすっかりアレンちゃんの仲間の一員っていう認識だったんだけど……」
「そのちゃん付けをやめないうちは、味方であっても一線を引かせてもらうからな」
アレンはそう釘を刺しながら、インベントリの虚空より愛銃を取り出そうとした腕を下ろす。
冷静になってみれば、なにを馬鹿やってるんだ、という自嘲が胸に湧いて出た。
こんなことをしている場合ではないのだ。このねじ曲がったMMORPG、アーカディアの状況は今、深刻なものと化している。
シンダーも現況への懸念に思いを巡らせたか、窓の向こうの夕暮れに視線をやり、不安を隠しきれない様子で言う。
「シャドウたちのことは、今頃シルヴァが団員たちを指揮して、その脅威を町へと伝え広げてくれています。彼ならばうまくパニックにならないよう誘導してくれるでしょう。ですが、それも時が経てばどうなることか……」
「シャドウ?」
それに反応したのはエルだ。灰の髪を揺らし、シンダーの方へと振り向く。
シンダーはどこまで話すべきか迷ったのか、若干の間を置いて答えた。
「現在、この町の外には恐るべきモンスター……いえ、厳密には違うのですが、それに近しい存在が湧いています。町の外は危険だから、出てはいけませんよ」
「モンスター……」
わかっているのかいないのか、エルは人形のような無表情のまま。
現在、アーカディアを襲う危機はふたつある。森を囲う廃棄物の海より出でる、過去のループの残滓——シャドウたちの存在。
だがこちらについては、あくまで65535回という莫大な世界のループによって生じた自然的な現象であり、積極的に町へ向かうといった指向性は持っていない。接触すれば危険はあるが、現状森に入らなければ出会うこともあるまい。
より深刻な危機はもうひとつ。転移者たちが通貨であるPPを得る狩場、バベルの下層からモンスターが消失してしまったことだ。
このアーカディアに造幣局などありはしない。倒すべきモンスターがいなくなれば、人々が通貨を得る手段は消滅する。それはNPCの店から食糧を得たり、宿で寝床を得たりすることが不可能になることを意味する。




