第68話 『2億2937万2500のデッドエンド』
ユウの視線の先。波紋ひとつなかった黒い水際に、変化が生じる。
ちゃぷんと水音を立て、なにかが水面を突き破り、陸地に伸ばされる。それは腕だった。
「きゃああああぁぁぁっ!?」
驚愕から悲鳴を上げるノゾミ。黒い手が地面のふちをつかみ、その影が地獄の底から這い出てくる頃には、その場の全員が異変に気が付いた。
黒い海から湧き出るように現れるシャドウ。それが——二、三、四。都合五体もの数で、瞬く間にアレンたちを取り囲んでいた。
「明日は靴屋に行かないと。食べないと。たくさん足を食べないと。靴、入らない? 留めておいてよ、マウスに刺した意味がなくなるじゃない。胃もたれが悩みなのよねぇ」
「空の彼方、雲の向こう。星の人格が破滅の喇叭を吹き鳴らす。方舟は彼の地にて終末の使者に抗い、意識世界でさえもその足で踏む。かくて地の底にて青き天恵は傲慢な不死を誅すだろう」
「ごいっしょにポテトはいかがですか? より多くのポテトはいかがですか? さらなるポテトはいかがですか? それポテトは? いかがですかポテトは?」
「商会どもめ、私の遺物を奪いおって! 迷宮の宝は私のものだ、すべてすべてわたしの……! 忌まわしい心臓無しがッ! 今に見ておれ、業腹だがあの業突く張りの手を借りてでも……!」
黒い影は多種多様、体型も違えば声も違う。話す内容にも関連性はわずかたりとも見出せない。
唯一の共通することといえば、会話が成り立つ様子が皆無なくらい。シャドウたちは不自然に首を折り曲げ、小刻みに震え、地面を見つめるように前傾になり、かと思えば上体を起こして空を仰ぐ。足取りは不安定で、真っ黒い頭部は前方が視えているのかさえ定かでない。
「……仮に彼らが元々は同じ転移者だったのだとしても。狂気に呑まれて自我を失ったのならば、それは害をなす獣と同じ。撃破し、撤退します!」
銀の槍を構えるシンダー。アレンたちも了解の返答を発し、交戦を開始する。
シャドウたちにもはや理性は残っていなかった。それも当然のことだ。元は意志ある転移者であっても、廃棄物の海に溶けてしまえばデータの原型など残るはずもない。
それはもはや、人だったモノの残響だ。意味を考える思考も、なんらかの目的を果たそうとする意思も、自分が今どこでなにをしているのかという認識もない。
壊れたレコードのように、生前の名残を再生しているだけ。
ならば疾く打ち砕き、粒子へと還すことこそが慈悲であろう。亡者にふさわしいのは墓の下、過去の残骸が沈むべきは廃棄物の水底だ。
(強さにもバラつきがあるな……。いや、転移者の成れの果てだとすればそれも当然か)
本能を剥き出しに、向かってくる影たちをアレンは迎え撃つ。形こそヒトの面影を残しているが、シャドウの動きはとても人間のそれではない。痛みも感じないのか、関節をおかしな方向に曲げ、論理性を欠いた軌道でボーナスウェポンだったと思しき武器を振るってくる。
しかし理性が壊れているということは、ある種のリミッター、力をセーブする枷が外れているということでもある。軌道自体はでたらめであっても、その動きは鋭く速い。
さらに彼ら黒の軍勢は疲れ知らずでもあった。肉体の自壊による痛苦など、感じる神経自体が死んでいる。
「く——射撃の隙がない……っ!」
「雪花に生まれた代償は掲げる剣の喪失なり。されど銀の腕はそこに在りて、荒ぶる竜の命脈を断たん」
「ご注文はポテトでしょうか? ポテトも追加でいかがでしょうか? ポテトもお付けいたしましょうか? ポテトにしてしまいましょうか?」
二体のシャドウを相手取りながら、アレンは攻勢に打って出られない状況に歯噛みする。
『鷹の眼』を駆使し、読みづらい軌道で振るわれる刃を避け、向けられる棒状の武器をかわす。しかし影に疲労はなく、防戦に徹しようとも反撃の機会はやってこない。
否、攻撃の合間に射撃を差し込むくらいのことはアレンもやっているのだが、いかんせん痛覚のない相手だ。効いてはいるはずだが、相手が微塵もひるまず攻撃を続けてくる以上、アレンとしては回避を優先するほかない。
「アレン、わたしが防ぐよ!」
「……! ああ、任せたっ」
そこへ、盾を手に割って入るノゾミ。アレンは素早くその背後から射線を通し、慎重に発砲。弾丸はノゾミのすぐそばを通り過ぎ、シャドウの一体を撃ち抜く。
「てやあっ!」
残る一体も、盾を押し付けるようにしてノゾミが自由を奪ってくれた。一瞬の隙ではあるが、アレンにとっては十二分なサポートだ。横に動き、大きく射線を確保したアレンは弾倉の中身をすべて発射し、二体目を撃破。互いを信頼した見事な連携だ。
そして、その時には残る三体もシンダーたちの手によって倒されていた。影たちは粒子となり消滅する。もっともそのデータの行き先は今目の前に広がる廃棄物の海なのだから、これはその場しのぎの、根本的には無意味な対処でしかないのかもしれないが。
「とりあえず倒せた、か。悪いな、そっちに負担をかけた」
「いえ。こちらのシャドウはさして強くなかったようです。これはやはり、元になった転移者の実力の差……ということなのでしょうか」
「僕が攻撃に参加できたくらいだし、バベルで言えばせいぜい第30階層くらいの強さだったかな。確かにシャドウはその強さも、それに言動も個体差が強い。おそらくはシンダー君の推察通りなんじゃないかな。……そうなると、アレンちゃんのシャドウとか出てきたらかなり厄介そうだね」
「うげ、アレンが敵になるかもってこと? やだなぁ、それ。気持ち的にも戦力的にも……」
「俺も自分と戦うなんて経験、そう何回もやってたまるか。ネームレスでお腹いっぱいだっての」
——だいたいネームレスとの戦いとて、勝利と呼べるかは怪しいものだ。
実力では負けていた。なにせ相手はアレンの能力にそのままプラスで『再構築』と『拡張脳』の権能が乗っかっている状態なのだ。
むしろ精神の部分、アレンを偽物だと主張するネームレスに対し、道を違えたのは彼の方なのだと示すことで敗北を認めさせたに過ぎない。
ともあれ戦闘は終わった。付近にシャドウの影はない。アレンは息を吐き、肩の力を抜く。
「結局、団長の予感が当たっちまったみたいですね。外れてくれればよかったんですが」
「なんですかシルヴァ、まるでわたくしが悪いみたいな言い草ですわね」
「ああいや、そういうワケじゃ……。えーっと、シャドウは一体だけじゃなく、この廃棄物の海からやってくるってのはわかったわけか。しかし、どのくらいの頻度で、どれくらいの数現れるんでしょうかね?」
「話題を換えようとしていますわね?」
「う」
シンダーの橙色の瞳にじろりとにらまれ、シルヴァは目をそらす。なんだか年頃の娘に怒られる頼りない父親、といった景色を連想させるやり取りだった。
「……ふう、まあいいです。確かにその疑問は突き詰めるべきことですから。もしもシャドウが無尽蔵にこの黒い海からあふれ出てくるのだとすれば、いずれ森を越え平原を越え、街へなだれ込んで人を襲うでしょう」
「防衛線を築くのも簡単じゃないだろうね。なにせ、この海はアーカディアすべてを囲っている。シャドウが街へ来るのなら、それは全方位からの襲撃になるだろう」
「影たちの侵攻、か。パンドラのことだけで手一杯だってのに、そんな三流ホラーみたいな展開になったらひとたまりもない。街の転移者にも協力を仰がないと対処なんてできっこないぞ……」
アレンは眉を寄せ、シャドウの軍勢が街を襲う最悪の未来を脳内でシミュレートする。
廃棄物の海に沈むのは、65535回の世界。
(確かカフカのやつは、街を燃やしたあの日の時点で、アーカディアの転移者の数はおよそ3000人程度だとか言っていた。だけどノゾミの友人だったリーザみたいに、混沌期の騒乱でゲームオーバーになった者も多いはずだ——)
ざっと見積もって3500人程度は、このアーカディアに意識を囚われているのだとして。
それら全員分の生きた『記録』が、ループの回数だけ、廃棄物の海には溶けているはず。ならばシャドウの最大数は3500に65535を掛け合わせた——
(——229372500。ひとたまりもない、なんてレベルじゃない。二億越えなんてすべての転移者で団結しても勝機は皆無だ)
薄い背中に冷たい感覚が走る。
『鷹の眼』が計算するその終局は、完全なデッドエンド。パンドラが命じるデウス・エクス・マキナのループなど待つまでもなく、シャドウが押し寄せるだけでこの世界は終了する。
とはいえ、それは本当に最悪の想像だ。
先ほどの様子を見るに、シャドウは今のところ散発的に発生している。なんらかの統率された意思によって操られた存在ではなく、世界を繰り返し過ぎたがゆえに起きている単なる現象と見るべきだろう。
「……これも希望的観測か? まだ情報が足りない……いやでも、少なくともシャドウを倒してもPPと経験値は手に入ったんだ。バベルに代わる『稼ぎ』の手段にはなりうるか? 裏を返せばこの事態はバベルのモンスターを枯渇させたパンドラにとっても想定外のはず……」
「あのー、アレンもみんなも、考えるのは後にしない? ほら、ここにいるとまたいつシャドウが出てくるかわかんないし」
「ん——それもそうだな。シャドウが現れる数とか頻度とか、そういうのも調べる必要はあるだろうけど、一旦戻ってから整理するべきか」
「あとお腹も空いたし……」
「そっちが本音か」
呆れてツッコミを入れるアレン。誰からともなく、くすりと笑う。
「そうですね、一度ギルドハウスへ戻りましょう。シャドウが複数体存在するという確証も得られましたし、取り急ぎ街にも大々的に伝えなければなりません」
「伝え方も考えにゃあなりませんね。つい先日の、平原にいたティラノの一件の続報って形になるか」
「そうですね。騎士団のない今、無理強いをして反感を招けば一気に治安の瓦解を招きかねません。アレンさまの言う通り、戻ったら一度情報を整理しましょう」
方針が決まり、一行は一度眼前の黒い海を去ることに決める。
考えるべきことは山積みだった。なにせ目下、転移者を襲う脅威はシャドウだけではない。パンドラを倒さねば、約半年でこの世界もループによる崩壊に巻き込まれ、分解されたデータとなってこの黒い海へと消えるのだ。
そう、アレンの思考はそうした考え事によって圧迫されている。
加えて戦闘後の気の緩み。さらには、幼女の足で平原と森を踏破したことによる疲労。
それらを勘案すれば、決してアレンが油断していたのだと非難することはできまい。そもそも警戒を欠かさずにいたとしても被弾は避けられなかっただろう。なにせライフルの弾丸は音速を超えており、仮に『クラウン』による反射神経のバフがあったとしてもそれを視認しあまつさえ回避行動を取るというのは不可能に近い。
繰り返すが。この時点でもう、被弾を避けるすべはなかったのだ。
頭部に向けて飛来するその弾丸を。
「—————、う……ッ!!?」
がつん、と勢いをつけて殴られたような、それとも鋭利な刃物でこめかみを突き刺されたような衝撃。
帰路への一歩を踏み出そうとしたアレンの視界が傾ぐ。わけもわからぬまま、その場に倒れ込んだ。
(狙撃! 銃声からして距離はさほど遠くない。ならば一刻も早く次弾への対処を——)
土に激突する瞬間には、比類なき『鷹の眼』は状況の把握を済ませている。次いで対策を練ろうとする。
だがこれ以上ないくらいのヘッドショットを受け、思考は千々に乱れつつあった。
(——まずい、意識……が)
脳が揺らぐ。意識が遠のく。回転した視界が暗く、夜のように光を失う。
全身の力が入らなくなり、痛みを感じる間もなくアレンは気を失う。その間際、まぶたが落ちる寸前に、薄暗い景色の中でノゾミが慌てふためいた表情で駆けよってくるのが辛うじて見えた。




