第七十七話 敵か味方か、正義か悪か、死か生か
「ヘラクレス、命令だ。われらと共に竜を討つぞ」
われはゼーロ、隣のアスモデウスへと視線を送った。
彼らは意図を察したように、薄く口角を上げて頷く。
――二人とも気づいている。われがまだ“新世界”を目指していることを。
ヘラクレスは踵を返し、こちらに振り返った。
「……ロキ、どういう風の吹き回しだ?」
「うぬもゼーロの話を聞いているだろう。どうやら、このクルサという女はスラエータオナと同質らしい。ならば――この女を利用して、あの竜を討てるかもしれん。そのためには、うぬらの力が必要となってくる」
ゼーロはクルサの首にナイフを突きつけていた。
だが彼女は反抗の素振りもなく、虚ろな瞳でただ立っている。
利用する……まぁ、具体的に言えば竜の元へ連れて行く、だがな。
「信じる保証がどこにある。お前は裏切り者だ」
当然の反応。
ヘラクレスの声は冷たく、剣の刃先に似た重みを持つ。
「ヘラクレス、これは提案ではない。命令だ。偶然だが、世界を救う鍵──このクルサをわれらが握っている。お前たちが命令に背くならば、その場で女を絶つだけだ」
「お前……」
「われはどちらでも構わぬ。だが時間はない。選べ。われらと共に竜を討つか、クルサを失い、われらと運命を共に滅ぶか」
「ふざけるな!誰がお前たちと戦うものか!」
金髪の生徒が叫び、その場から飛びかかろうとした。怒りが全身を震わせている。だがその瞬間、ゼーロがひとつ、甘く囁いた。
「いいのぉ~?そんなこと言っちゃってさぁ~」
ナイフをさらに沈めるようにして、クルサの首元へ近づける。鋭く落ちた刃先から一滴の血が零れた。
その赤を見て、金髪の足が止まる。ヘラクレスの瞳が鋭く光る。
人質を握るこちら側が、明らかに優位だ。ゼーロはそれを充分承知している。
われが命令せずともヘラクレスたちが応じなければ躊躇なく殺すだろう。
そう……われが鍛えてきたのだ……多くの人間を殺させて。
「どこまでも卑怯な……僕と、僕とだけで戦え!」
「われは英雄ヘラクレスに問うている。弱者の戯言など聞いておらぬ」
「くっ!」
シリウスの魔力が増大した……余ほど、われらに恨みがあると見える。
ヘラクレスもまたわれを憎んでいる……こういった時、人間はどのような行動を取るか分からない。かつてわれが怒りに身を焦がし奴隷の国を滅ぼしたように、こいつらが暴れても何も不思議ではない。
しかし、そうなったとしても、われは何としても生き延びなくてはならない。
世界が滅んだその瞬間に立ち会わなければ、安心してこの世を去ることができないからだ。
われは再度、ゼーロに視線を送った。
するとゼーロが挑発を始める。
「早くしないと~このトゥルントゥルンのおっぱいを持っているクルサちゃんが~ナイフでギョキンッ!ってなっちゃいますよ~」
ゼーロはいやらしく絡むようにクルサの体を触りながら発言する。
胸を揉み、先端を触り、くりくりとこねくり回す。首元を舐め、自分のものだとマーキングするように。
その当人のクルサは……やはり反応がない。
性別も、体系も異なるが……似ている。英雄スラエータオナに。
実際に会ったことはないが、伝承ではスラエータオナという人間は、まるでアジ・ダハーカを殺すためだけに生まれたような存在だったという。
善神の命令に従い、ただひたすら、竜を倒そうと剣を振るう。
彼は無表情で無反応、竜を前に動く機械そのものだった、と。
今のクルサと非常に似ている。
もしも、この無反応が周囲にアジ・ダハーカがいないことが関係するのならば、竜の近くに連れていくことで殺そうと勝手に動くかもしれない。
ヘラクレスは拳を握り血を流す。
「……チッ」
舌打ちをし、血で濡れた右腕で頭の後ろをざり、と掻きながら返答した。
「……はぁーーーッ!! クソが! 分かったよ! 分かった。……だが策はあるんだろうな?」
「うぬが一番よく理解しているはずだ」
「……アルマゲドンか。千年前とまったく同じ手をやるつもりか」
「そうだ。女を竜と一対一でぶつけ、残りをわれらが押さえる」
「ハァ~……やっぱり、それしかねぇのかよ」
そのとき、話を聞いていたシリウスがたまらず声を上げた。
「先生!!」
「シリウス、俺もこいつらと一緒に戦いたいとは思わない。だがな、今は一刻でも早く竜を倒さねばならん。そして……あの女の話が本当なら、いや……“本当である可能性が高い”」
「何でそんなことが分かるのですか!相手は黒翼、極悪人共ですよ!少なくとも僕は!」
「……俺はスラエータオナと会ったことがある」
シリウスが息を呑んだ。
ヘラクレスは低く続けた。
「だから分かる。今のクルサからは……あいつとまったく同じ魔気が出ている。忘れようとしても忘れられん……“静寂”そのものの魔気だ。どこまでも静かで、どこまでも異質で、どこまでも……竜を殺すために研ぎ澄まされた気配」
俺の推測だが――
「クルサはスラエータオナの子孫で、力を受け継いでいる……そう考えるのが最も自然だ」
なぜクルサがスラエータオナと同質の力を持つのか。
ヘラクレスが知らないなら、誰も分かりはしない。
だが、理由などどうでもいい。
――希望があるなら利用する。
それだけのことだ。
「そんな……でもクルサ君が……それに、こんな奴らと共闘なんて――!」
「シリウス、俺だって今、必死に怒りを押し殺しているところだ。こんな惨状を引き起こした張本人――こいつを今すぐ殴り殺したいくらいにな」
吐き捨てた声は、血が滲むほどの怒りを孕んでいた。
「だがな……時間がないんだ。俺たちが言い争っている間にも、世界のどこかで何千、何万という命が消えていく。今日中に、世界は文字通り終わる」
ヘラクレスは拳を強く握りしめた。
「あの竜は――俺たちでは倒せない。スラエータオナと同じ力を持つであろうクルサしかいないんだ。……教師としても、英雄としても情けない話だがな」
「くっ……! ちくしょう……!」
ヘラクレスはシリウスの肩に大きな手を置き、次の瞬間、片腕をぶんと伸ばしてわれを鋭く指差した。
「だがな、ロキ――これだけは絶対に忘れるな」
その瞳は剣より冷たく、氷より深い殺気を宿していた。
「協力は“今だけ”だ。竜を殺したその瞬間、お前とは決別だ。もし生き残っているのなら――俺の拳で、お前の心臓を粉々に叩き潰す。肝に刻んでおけ」
「……いいだろう」
殺せるものならな。
*
こうして、互いにいがみ合っていた者たちは手を結んだ。
殺意は消えていない。ただ、世界の終わりが、その刃をわずかに鈍らせただけ。
彼らは強烈な魔気の渦巻く方角へと歩みを進める。
その一歩一歩が、滅びへ向かう鐘の音のように重かった。
一方その頃――クルサは。
*
ブク……ブク……。
「……ここ……どこ……?」
まるで、深い海の底に沈んでいるみたい。
水の中じゃないはずなのに、世界がゆらゆらしていて……全部が遠い。
身体が軽くて、力が入らない。
指を動かしてみようとしても、うまくいっているのかどうかさえ分からない。
それより……眠い。
あくびが出そう。目を閉じたら、そのまま沈んでいきそう。
(私……何してたんだっけ……)
記憶を辿ろうとすると、霧の中を歩くみたいに足元がふらつく。
ゼーロ……そう、ゼーロって人と戦って……そこまで覚えてる。
でもその次が、ぷつんって――切れてる。
(……どうして? 何でそこで終わってるの……?)
胸の奥がざわってした。
焦るほどじゃないのに、何か大事なことを忘れている気がする。
誰かが、私の名前を呼んでいたような……そんな気配が残ってる。
でも――思い出せない。
*
アジ・ダハーカが再び目を覚ました瞬間、スラエータオナの呪いが発動した。
呪いは容赦なくクルサの意識を外界から閉ざし、深い深い眠りへと引きずり込む。
クルサはそこで――千年前の光景を見ることになる。
……
次回: アルマゲドン




