第七十五話 アジ・ダハーカ 対 この世の全て
……
元の姿、力を取り戻したアジ・ダハーカは動き出す。
まずは、この場にいるすべての命を消し去るために――膨大な魔力を一点へと収束させた。
三つの口が、同時に開かれる。
喉奥に光が宿り、次第に膨れ上がっていく。
――シュウィン。シュウィン。シュウィン。
殺戮の音。
神々すら焼き滅ぼす、終焉の詠唱。
だが、その刹那――
「……オリオン」
【ん?】
何故か、ある人物の声、笑顔が頭をよぎった。
あの、黒髪の少女。
――シュウゥゥゥゥゥゥゥゥン……。
光が、静かに消えていく。
【……クルサ】
アジ・ダハーカはそう呟いた。
破壊の化身が、殺戮を止めた。
【あやつは……どこにいる】
信じられるだろうか。
世界を滅ぼす竜が攻撃を止め、三つの首を揺らし、たった一人の人間を探している。
アジ・ダハーカはクルサの呪いについて漠然としたことしか知らない。
“魔力が高まれば、理性を失う”――それだけだ。
つまり、竜にとって彼女は何の脅威でもなく、今もただの“餌”にすぎないはずだった。
元の姿を取り戻した今、聖なる儀式で魔力を高める必要もない。
人間など、もはや滅ぼす対象でしかない。
――なのに。
竜は、ふと下を見た。
更地と化した大地の中に、かすかに揺らめく生命の気配を感じ取る。
そして、
【……生きていたか】
それを見つけた。
血に染まり、無数の傷を負いながらも、なお立ち続ける少女の姿を。
竜はゆっくりと降下した。
その瞳に宿る光は、怒りでも、憎しみでもなかった。
――破壊ではなく、癒しの意志。
まるで、焼け焦げた村で初めて彼女と出会った、あの日のように。
しかし、その瞬間、アジ・ダハーカは自らの行動に気づき、動きを止めた。
なぜだ。
力を取り戻して安堵したのか。
主アンリマユの望みを果たせると、心が緩んだのか。
――いや、違う。
本人は気づいていない。
クルサが“生きていた”という事実が、竜の心をわずかに揺らしたのだ。
彼女が怪我をしている。
それだけで、無意識に“癒そう”としてしまった。
【……我は何をしている】
低く呟き、三つの眼が自らの爪先を見下ろす。
そこにあるのは、焼き払うための爪――救うための手ではない。
自分でも分かっている。
今ここで殺してしまっても、何一つ困らぬということを。
それでも――胸の奥に、得体の知れぬ痛みが走った。
【……くだらぬ】
吐き捨てるように言い、竜は顔をそむけた。
【どうせ世界ごと滅ぼすのだ。意味はない】
――バサァン。
巨大な翼が広がり、嵐のような風が吹き荒れる。
その瞬間、聖都市に巣食っていた異形たちの姿が一斉に掻き消え、黒い霧となって魔界へと還っていった。
竜は天を裂き、黒い稲妻を伴って飛び去った。
世界各地へと。
……
その頃、地球上の至るところで観測できないほどの大地震が起き、嵐が巻き起こり、街も森も海も、すべてが崩壊していた。
悲鳴が世界の音をかき消していく。
ある少女は、
「お母さんっ、起きて! お願いっ!!」
瓦礫の下に埋もれた母の腕を掴む。
だが、その腕は冷たく、もう動かない。
熱風が吹き抜け、涙が一瞬で蒸発した。
ある少年は、
「イダい、イダいよ! 誰か、誰か!」
建物の崩壊に巻き込まれ、下半身が瓦礫に埋もれていた。
必死に腕を伸ばし、誰かを求めて叫ぶ。
ガラガラ…… ダンッ。
空が落ちてくるような音。
「たすけ……」
ドガンッ。
声は届かず、頭上から降り注いだ瓦礫が彼を押しつぶした。
……。
人々はただ走る。
「おい、逃げろ! こっちだ――!」
「だめだ、もう道が!」
「他だ! 諦めるな、きっと安全な場所が――」
ズズズ……ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン―――。
地面が鳴いた。
それは地震ではない、“何か”が近づいてくる音だった。
ゾワァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
頭が狂いそうになるほどの魔の気配が、世界を包み込んだ。
空気が重くなり、呼吸ができない。
誰かが空を指差し、声を詰まらせる。
「……おい、何だ、あれ」
バサンッ バサンッ バサンッ バサンッ。
夜空に浮かぶ、巨大な竜。
四翼を広げ、天を覆い、地上に黒い影を落とす。
月の光を閉ざし、人々の目から希望を奪う。
見上げる――いや、見上げるしかなかった。
あらゆる災厄を形にしたかのようなその存在を前に、
誰も動けない。
口を開けない。
息すらできない。
そして悟った。
――死を。
静寂。
アジ・ダハーカの瞳がわずかに細まる。
全属性、【千の魔法】を統べる竜が、わずかに口を開く。
黒き咆哮とともに――
【五十の魔法】が一斉に解き放たれた。
炎と氷、雷と毒、光と闇、風と重力――
ありとあらゆる理が交錯し、天地を焼く。
海は沸騰し、山は砕け、空は裂けた。
刹那、その地は“音”を失った。
悲鳴も、祈りも、すべてが塵と化す。
アジ・ダハーカは、ただ静かに翼を広げたまま、滅びの景色を眺めていた。
山、海、建物、命――。
もう何もない、無音の地上を。
竜は次なる場所へ……。
……
聖都市だけではなく、世界中にも都市があり、人も魔族も、そして様々な偉業をこなした英雄も存在する。
「撃て!撃てぇー!!!」
見たこともない強大な竜に、なお抗おうとする者たちがいた。
英雄や高位の魔術師たちが魔法を放つ。
空が、閃光で染まる。
無数の光線が竜を貫いた。
ババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババババーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!
しかし、
ザバァァァァァーーーーーーーーー。
竜の体表が波打つ。
ひとつ、傷が刻まれるたびに――そこから無数の“何か”が生まれ出た。
ピキンッ!
「シャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ひび割れた皮膚から、ぬるりと“それ”らが這い出してくる。
翼を持つもの。
牙を持つもの。
虫のようなもの。
そして、形すら定まらぬ、名もなき異形。
どれもが、この世の理から外れた存在だった。
彼らは地上へと降り注ぎ、蠢き、生きとし生けるものを見つけては襲いかかる。
悲鳴が、また一つ、また一つと途切れていく。
そして、竜の体はより強固な体へと変化し、魔法はどんどん通じなくなっていく。
倒しても、燃やしても、すぐに再生し、また異形が増える。
その繰り返し。
地上は地獄と化した。
そして――。
ヴァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
その咆哮とともに、竜の背が脈打つ。
皮膚が裂け、そこから新たな首がいくつも生まれ出た。
百、千――数えることすら無意味だった。
ガガガガガガガガガガガガーーー!!!!!!!!
無数の首が大地を噛み砕き、海をすくい上げ、空を喰らう。
地上の命は逃げる間もなく捕らえられ、噛み千切られ、丸のみにされた。
喰われた者は瞬く間に竜へと吸収され、その魔力が脈動する血潮となってアジ・ダハーカの身を巡る。
――もはや「戦い」ですらなかった。
竜は魔法を放つことなく、ただ異形たちと、無数の首だけで命を刈り取っていく。
まさに一方的な捕食。
数分後、そこにある命は全て無くなった。
ヴォ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ガ゛ギ゛ャ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大気が震え、雲が砕け、地の底までもが軋む。
天地が断末魔を上げる中、アジ・ダハーカは静かに翼を広げた――。
全てを破壊するために……。
だが、
その姿はどこか、寂しそうに、誰かを求めているかのように。
竜は飛び立った。
…………
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