第四十二話 英雄【ジークフリート】 対 蜘蛛の女王【アラクネ】♡
くちゅ、くちゅ、と唇を舐める淫靡な音が響く。
同時に――
シュルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルッ!!
彼女の背後から放たれた無数の白銀の糸が、空間を切り裂くように舞いながら、ジークフリートたちへと猛スピードで迫る。
突如始まった戦闘。
「――退避ッ!」
ジークフリートが大声を上げる。だが、仲間たちは誰一人として動かない。
怒り。ただそれだけが、彼らの表情を塗り潰していた。
握られた拳。噛み締められた奥歯。ギシギシと、堪えきれぬ“何か”が滲み出す。目の奥からは血が噴き出さんばかりに充血し、全身が震えていた。
そう――動けないのだ。
アラクネの呪い【狂憎の糸】。
それはアラクネを見る者全てに、“限界を超えた怒り”を植え付ける。
壊したい。焼き尽くしたい。八つ裂きにしたい。
しかし、怒りが強すぎるが故に、身体が反応しない。
――だが、その中でただ一人。
ジークフリートだけが、動いた。
彼は即座に状況を理解し、腰の剣に手をかける。
標的はファフニールから、目の前の蜘蛛女へと脳みそを切り替えていた。
「聖剣バルムンク」
ビリビリッ シュウゥゥゥン……!!
呼応するように、闇と雷を纏った一本の剣が鞘から抜かれる。
剣の鍔は十字型。中心には不気味な紫の宝石が嵌め込まれていた。
その剣は“聖剣”などという名に相応しくない――まさに、「呪いの黒剣」。
感情を“喰らい”、代償に雷と闇属性……そして膨大な魔力を持ち主に与える刃。
かつて、ジークフリートはこの剣に“怒り”という感情を完全に喰われた。
だからこそ、彼だけが動けたのだ。
光、闇、雷……三属性を併せ持つ剣士、ジークフリート。
彼は剣を両手で縦に構え、十字を正面に見据える。
――目を閉じ、空間を包む360度、全方位からの白銀糸の気配を感じる。
シャン――ッ!!
瞬間、それら全ての糸を雷の斬撃で一瞬にして焼き切った。
ジリジリと焦げた魔力の残滓が霧のように舞う。
――それはまさに、一瞬の出来事。
第三者の目には、ジークフリートがただ立っていたようにしか見えなかった。
彼は一歩も動かず、しかし次の瞬間には、白銀の罠が跡形もなく消えていたのだ。
「光魔法:聖癒」
ジークフリートの足元に魔法陣が展開され、光が爆ぜる。
半径十メートルに渡って拡がった癒しの光は、仲間たちの呪いを払おうと彼らを包み――
――パリンッ!
ガラスのように砕けた。
「無駄よ♡」
アラクネが甘ったるい声を漏らしながら微笑む。
「アタシの呪いはねぇ~、魔法じゃ解除できないの。ふふふっ。アタシから距離を置くか、アタシを殺すしか、方法はないのよぉ~?」
ニィッと裂けるような笑み。濡れた唇を、舌がねっとりと舐め上げる。
「ならば」
ジークフリートが呟く。
「殺す」
――ドンッ!!
剣を片手に、ジークフリートは空を蹴った。
稲妻のような軌跡を描き、一直線にアラクネへと飛翔する。
木々の梢を踏み砕きながら、黒雷を纏った男が真空を裂く。
「――来なさいよォ♡」
アラクネは誘うように両腕を広げ、八本の蜘蛛脚が勢いよく跳躍――黒い脚が樹木を蹴り、ジークフリート目掛け斜め上へと直線。
瞬間、
ガンッ――! ゴオオオオオッ!!
ジークフリートの斬撃とアラクネの黒く硬い脚が空中で衝突する。
「ふふっ、重いわね♡ でもぉ――」
ギィンッ!! バンッ!!
アラクネの脚が回転し、ジークの斬撃を弾いた。力の方向をずらし、そのまま彼を斜め下へと叩き落とす。
空中に開いた間合い。
ジークが落下し、アラクネが高く舞い上がる。
――その最中。
アラクネの掌が魔法陣を描く。
複雑な紋様に包まれた円が、空中に蜘蛛の巣のごとく展開されていく。
「蜘蛛糸呪陣♡」
魔力を帯びた無数の黒糸が空間に広がり、檻のようにジークを囲い込む。
ジークフリートは目を伏せ、静かに息を吐く。
「上級魔法:轟雷斬」
激しい雷が瞬時に剣に纏った。
振り抜いたその一撃は空間を一閃……雷の斬撃が前方へと放たれる。
ズガアアアアアアンッ!!!
黒糸の檻が雷によって裂け、爆ぜ飛ぶ。雷の斬撃がアラクネへと向かう。
同時に――
「中級魔法:聖光・竜撃砲」
剣を持っていない左手を前へ突き出す。
その掌に刻まれた魔法陣が一瞬光を放ち――直後、収束した聖なる光線がアラクネ目掛けて発射された。
ヒュウィーーン……!!
バーーーーーンッ!!!
爆音が空を裂く。
聖光が一直線、射線の先――アラクネの“人間の姿”を正確に捉えた。
同時に雷の斬撃が交差するように空を駆け、二重の魔法攻撃がアラクネを襲う。
「ッ――!? きゃあッ♡」
甘ったるい声とともに、アラクネは反射的に体を丸め、巨大な蜘蛛の体を前面へ突き出す。
バゴォォォンッ――!!!
爆光が広がり、煙が空間を覆う。
だが――
「ざんねん~♡」
煙の中から、アラクネの艶やかな声が響く。
薄れゆく白煙の帳。
そこに、優雅に宙を舞うアラクネの姿が現れる。
彼女が前面に掲げた巨大な蜘蛛の体――それは、黒曜石のように光を弾き、禍々しくも滑らかな艶を放っていた。
無傷だった。
「アタシ、すっごく硬いの♡ 上級魔法くらいじゃなきゃ、かすり傷も入らないんだからぁ……♡」
舌なめずりをしながら、蕩けるように笑う。
血が滲むどころか、甲殻には一筋の亀裂すらない。
――そのとき、
ボワッ
煙が渦を巻く。
その奥から、風を裂く音とともに男の影が姿を現した。
「融合魔法:聖冥絶界斬ッ!」
ジークフリートの剣が光と闇を纏い、空間を裂く。
シュワンッ!!
一閃――そして、
ドゥガアアアァァァンッ!!!
バチィィィィンッ!!!!!!
ズギャアアアン! ズバババババババァッ!!! ドンッ!
光と闇、相反する属性が重なり合い、放たれた融合の斬撃。それは稲妻のように走り、風を切り裂きながらアラクネを貫いた。
斬撃が炸裂した瞬間、爆風が吹き荒れ、地上にある木々が軋みを上げながらなぎ倒されていく。岩の地面には抉れた跡が走り、土煙が立ち昇る。
刹那……辺りが閃光に包まれ、爆音が遅れて耳を叩いた。
衝撃に叩きつけられたアラクネの巨体。黒曜石のような甲殻に、はっきりと斬痕が刻まれ、そこから黒い血が噴き出す。
ビチャッ……ビシャッ……
血が地面を濡らし、蜘蛛脚が痙攣する。
空を舞うジークフリートは、静かに下を見下ろしていた。だがその表情は緩まず、なおも鋭さを保っている。
すると、
「ふふふっ♡ ……痛い、わ……」
アラクネは倒れた体をゆっくりと起こし、ねっとりとした目でジークフリートを見上げる。
唇の端を吊り上げ、狂気じみた甘い声が漏れた。
「でも、もっと欲しいの♡ねぇ、もっと苦しませてぇ……♡」
蜘蛛脚を艶めかしくしならせながら、陶酔したように笑う彼女。
その目は熱を帯びて潤み、息は荒く、頬は妖しく紅潮していた。
「アタシを壊して……♡その剣で、もっと♡」
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次回:第四十三話 ”オリオン”……いえ、あなた……”誰なの”?:お前は、”誰だ”?




