2.どストライクは突然に{前}
「ねえふたりとも、そんな警戒しないでさあ」
流行のシャツを着た若者が、こちらのテーブルに一歩近づく。
ここは城下で最近開店した人気カフェ。お忍びでドリーと訪れた私は、さっきから大店の跡取りらしい若者にしつこくまとわりつかれて、閉口していた。
馴れ馴れしく私の肩にかけようとした手を、
「無礼な!」
ドリーがはねのけた途端、彼の顔色が変わった。
「なんだよ、人が下手に出りゃ調子に乗りやがって」
「あ、あの、お客様」
店主らしい初老の男性が止めようとするが、頭に血の昇った若者は見向きもしない。
そのとき、
「そのへんにしとけ」
若者の背後から、よく響く低い声がかけられた。
「なんだよ!」
勢いよく振り返った彼が、
「う……」
声の主を見て言葉を詰まらせる。
「アーチーさん」
おろおろしていた店主が、ほっとした顔になった。
シンプルなシャツとパンツ姿の、程よく厚みのある長身。若者をたしなめた声の主は、黒髪を無造作にうしろで結んだ、三十代半ばほどに見える屈強な男性だった。
まくり上げたシャツから出た腕の、しなやかな筋肉。くっきりした眉の下の大きな目には、こんな状況にもかかわらずうっすら笑みが浮かんでいる。
「やだ、かっこいい……!」
立ったままのドリーが、胸の前で手を組んでつぶやいた。
(ほんと……正直、どストライクかも)
私も内心大きくうなずく。
少し甘めの整った容貌といい感じの筋肉に、そこはかとなく漂う威厳と余裕。おまけにイケボ。だけどあの、琥珀色の瞳は――。
「……なんだよおっさん!」
気をとり直した若者が、弱い犬が吠えたてるように男性に食ってかかった。
「この辺でうちの親父に逆らったらどうなるか」
「わかったわかった」
なだめるように両手を上げて、黒髪の男性が前に進み出る。
そのまま若者の薄い肩に手をかけ、なにげなく耳元に顔を寄せた彼が、
「……おまえのパパのことは知らんが、ところでパパは、折れた息子の鎖骨をくっつけてくれるのか?」
他のテーブルには届かないくらいの声でささやいた。
同時に、肩にかけた手に力がこめられて、
「ひっ」
痛みに若者が顔をひきつらせる。
慌てて店から逃げ出す貧相な後ろ姿を眺めながら、
「喧嘩の仕方も知らねえバカ息子が」
男性がつぶやいた。
(そうよね! あれって絵に描いたようなバ……ピー息子よね!)
自主規制しつつ、私は大きくうなずく。
「アーチーさん、ありがとうございます。お代は結構です、本当に助かりました!」
白髪交じりの頭を何度も下げて、店主が店の奥に戻っていくと、
「嫌な思いをさせて悪かったな、お嬢さん方」
男性が振り向いた。
「大丈夫か?」
こちらをのぞきこむ大きな目が、不意に緩められて、
「……!」
目を合わせたまま、私は言葉を失う。
(ま、まずいわ、これは)
なんなのこの、色っぽさは? どうして軽く微笑んだだけで、ふわーんと大人の色気が全開になるのよ?!
脈絡のないセクシーにさらされてぼうぜんとしたまま、
「今のうちに帰るといい。途中まで送ろう」
アーチーさんと呼ばれた男性に促されて、私はドリーと共に店の外に出た。
石畳の上を歩き始めた途端、
「……あ」
刺激的なできごとが続いたせいか、めまいを感じて私はふらつく。
「おっと」
隣にいたアーチーさんが身体を支えてくれて、なんとか転ぶのは免れた。
「ごめんなさい。ほっとしたせいか、めまいが」
彼の太い腕にもたれて、私は目元を押さえる。
……くうう。せっかくの筋肉なのに、めまいのせいで感触がわからないわ。
「そうか。……ちょっと失礼」
一瞬ののち、
(えっ?)
ふわりと世界が回転した。
「近くに俺の店がある。少し休んでから家に戻るといい。そっちのお嬢さんは歩けるか?」
「は、はい!」
アーチーさんとドリーが歩き始める一方、
(キャーーー!)
私は彼の腕の中で、声も出せずに固まっていた。
(おおお、お姫様抱っこっていうやつよねこれ! 前世のマンガで見ました!)
腕、太! それにこの肩幅、すごい安定感! しかもこの、シャツ越しでもわかる胸の固さ。大胸筋、発達!
抱きかかえられればさすがに諸々の感触もわかって、頭の中が大渋滞となった私は目を伏せる。
(そういえば、道行く人たちに今の私の姿はどんな風に見えているのかしら。馬車の通る広い道でないのがせめてもの救いね。って、あっ、ふと見たらアーチーさんのシャツの襟元から、鎖骨が! いや、見てない! 見てないけど見えちゃう! キャー!)
まるで熱があるみたいに頬が熱い。胸のどきどきも止まらない。
(神様、このままでは心臓が持ちそうにありません。今すぐ降ろして! いやダメ違う、やっぱまだ降ろさないで!)
そんな私をよそに、長い脚でさっさと脇道に入ったアーチーさんが、小さな店の扉を押し開けた。
カラン、とドアについたベルが軽やかな音を立てる。
「申し訳ありません、まだ準備中で……ああ、店長」
カウンターの中の細身の男性が、アーチーさんに横抱きにされた私を見て、銀縁眼鏡の奥の青い目を見開いた。
ここは飲食店だろうか。オフホワイトの壁に暖色の明かりの店内は、正面がカウンター席、手前がふたつのテーブル席となっている。
「少し休ませてあげてくれ」
アーチーさんが壁沿いのソファに私を横たえると、
「ひめ……お嬢様。ご気分はいかがですか?」
ドリーがすぐに近づき、私の背中にクッションをあて、ドレスを整えてくれた。
こんな風にお忍びで出かけるときは、私は貴族令嬢、ドリーはそのメイドということにしている。
「ここは、俺のやってる薬草バーだ。落ち着くまで休んでいくといい」
アーチーさんが私たちに声をかけた。
「ありがとうございます」
まためまいが起こらないよう、私はゆっくりあたりを見回した。
「薬草の、バーですか?」
言われてみれば、店内には薬草の独特の香りも漂っている。
「あなたは、薬師?」
ソファの足元に腰を降ろし、私と目の高さを合わせてくれている彼にたずねると、
「そんなもんだ」
アーチーさんが軽くうなずく。
そこへ、
「よろしければ」
先ほどの細身の男性が、グラスに入った水と毛布を運んできた。
バーのカウンターの中にいたということはバーテンダーなのだろうが、アーチーさんより年下に見える彼は、クールな口調といい撫でつけられたプラチナブロンドといい、高級貴族の執事のような雰囲気だ。
アーチーさんが、毛布を私の肩にかけてくれた。
その拍子に手と手が触れて、
「冷えてるな」
軽く眉をひそめる。
「お気になさらず。いつものことです」
手足が冷たいのは、めまいとは関係ない。心配させまいと慌てて言った私に、彼の眉間のしわが深くなった。
「この店では、酒に限らず薬草全般を扱ってる。身体に関する知識は多少あるつもりだ。よかったら、少し背中をさすってもいいか?」
うなずくと、薄手の毛布越しに、そっと肩や背中をさすられた。
そばではドリーも様子を見守っている。
「緊張の強い生活をしているようだな。身体も冷えて固くなってる」
大きな手に背中を優しくさすられ、いつのまにか運ばれていた湯たんぽを膝に抱えていると、
「……ありがとう。温かい、です」
ゆるゆると、身体の力が抜けていくのを感じた。
「それはよかった」
続けて、肩から鎖骨にかけても、温めるように押されていく。
薬草の香りの温かい空間。
傍らには、頼りになるドリーと、危ないところを助けてくれたアーチーさん。
初めて来た場所だというのに、なんだかとても居心地がいい。
そのまま、ごく弱い力で首筋に圧をかけられ、温かい手で耳たぶに軽く触れられた途端、たまらない眠気に襲われて、
「……」
私は思わずまぶたを閉じていた。