1.せっかく第一王女なのだから{前}
私が自分の前世を思い出したのは十歳のとき。きっかけは、食事の席でわがノルドランの国王である父が発した、クソくだらない、あら失礼、耳にした者の気分を著しく害する、とある発言だった。
「それで私は言ってやったんだ、あの生意気な女に。『おやおや先生、お国の言葉は堪能でも、われわれ大陸西部の言葉はあまりご存じないようですな』とな」
食堂の長いテーブルで、気持ちよさそうに父は笑った。
「女教師め、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしておったわ。いい気味だ」
「女教師」とは、王宮の外国語教師のこと。
わが国のあるこの大陸西部で使われている言葉は各国ほぼ共通だけれど、海の向こうの国々とは言葉の壁がある。王といえども、外国語の研鑽は欠かせない。
なのに、語学に限らず学問全般が嫌いで、おまけに女性蔑視のはなはだしい父は、たとえ教師でも女性に従うのは気に入らず、家臣に大陸の古いことわざを探させて件の教師に皆の前でわざと意味を尋ね、恥をかかせて楽しんだらしい。
つまり父は、母国を離れて働く外国人女性の揚げ足をとることで、ちっぽけなプライドを満たしたわけだ。
(器、小っさ!)
あまりにレベルの低い父親の言動にショックを受けて、ナイフとフォークを手にしたままその場で固まった私とは対照的に、
「まあ、よく言っておやりになりましたこと」
「お父様、すごーい」
テーブルの向こう側で、義母と五歳の妹がわざとらしい声をあげた。
黒髪に黒い目の地味な私と違い、揃って茶色い髪に大きな緑色の目をした、まるでお人形のような顔立ちの王妃と第二王女。ふたりに持ち上げられて、父が目を細める。
その瞬間、私の脳裏で、見たこともない情景が勢いよく再現され始めた。
――『ははは。男に説教するなら、相手が後輩でもちゃんと持ち上げてやらなきゃ。いくら君が美人で優秀でも、三十そこそこのお姉ちゃんに詰められて素直に言うこと聞くやつなんていないぞ?』
したり顔で肘掛椅子にふんぞり返る中年男性と、彼のデスクの前でうなだれる黒髪の女性。
直感的にわかった。
年齢も環境も違うが、あの地味なスーツ姿の彼女は私――前世の私だ。
他にも、同僚たちの前で表彰されている私の姿や、明かりの落ちたオフィスで深夜にひとり働く私の姿などが、頭の中で流れていく。
……信じがたいことだが、どうやら私はいわゆる転生者。前世では、わが国とはまるで違うトーキョーという街の会社員だったらしい。それも、かなりできるタイプの。
(ちなみに「スーツ」とか「オフィス」といった概念は、前世の記憶と共に脳内に流れ込んできた)
気づくと同時に、ノルドラン王国の第一王女セシリアという十歳の私の人格は、三十一歳にして通勤途中の交通事故で亡くなった(「ロウサイ」というらしい)前世の人格と統合されていった。
――それから八年たった、十八歳の現在。
「次のお見合い相手は、いったいどなたかしら。また連敗記録の更新かしらね」
自室の豪華なドレッサーで侍女に髪を梳かれながら、なにげなく私はつぶやいた。
癖のない長い黒髪と、白い肌に黒い瞳。整ってはいるがやや中性的な、昔から大人っぽいといわれる顔立ち。
鏡に映る私の姿は華やかさに欠け、身長が高いこともあり少々圧がある。次期女王たるもの、威厳があるのは悪くないけれど、モテという面ではいささか不利だ。
「連敗だなんて! 姫様は負けてなどおられません!」
私の自虐に、侍女のドリーが背後でブラシを振り回す。
赤毛に青い目とそばかすがキュートな彼女は、両親や妹との関係が良好とはいいがたい私に昔から尽くしてくれる、姉のような存在だ。
「ありがとう、ドリー」
鏡の中のドリーに向かって、私は苦笑する。
――最初のケースは、前世を思い出して間もない十一歳のときだった。
相手は当時の婚約者、東の隣国ハミークの第二王子ヘンリー殿下。
「もう、うんざりだよセシリア」
あの日、音を立ててティーカップを置いたヘンリー様は、自慢の金髪をかき上げてお行儀悪く足を組み、深いためいきをついた。
「口を開けば国力増強だの外交だの。いくら国同士が決めた婚約者とはいえ、せっかく僕と会うのに楽しい話題は用意できないの? 北の大国ジデオンへの備えなんて、大人たちに任せておけばいい。君には、この世のよきものを愛でる心がないのか?」
「……もちろんございましてよ、ヘンリー様」
向かいの席で、私は顔に浮かべた笑みを崩さぬまま、手にしたカップを軽く上げてみせた。
「たとえばこちらのお茶は、ヘンリー様のお好みに合わせてブレンドさせた特別なお茶。そちらのお菓子も、海の向こうの遠国より取り寄せたばかりの品です。そうそう、いつもお出ししているこの茶器一式も、わが国最高の職人たちに、ヘンリー様とのお茶会のために作らせたもの。気に入っていただけたら幸いですわ。……ですが」
わずかにあごを上げて正面から彼の顔を見据えると、ハミーク王族特有の美しい琥珀色の瞳に怯えたような色が浮かぶ。
「未来の女王たるもの、美しきものよきものを愛でるだけでは務まりませんのよ。無論、未来の王配殿下も」
(やれやれ、こんなことで、王位継承順位一位であるわが国の第一王女と結婚するお覚悟は足りておいでなのかしら)
ためいきを押し隠して微笑んだ私の前で、
「……もう、うんざりだと言っている!」
顔を真っ赤にしたヘンリー様が、勢いよく立ち上がった。
「この婚約は、なかったことにしてもらいたい!」
「……まあ。ですが婚約は国と国との取り決め、この場で解消するわけには」
淡々とこたえる私を涙目でにらみつけ、
「うるさい! 僕に指図するな!」
肩を怒らせて部屋から出ていった彼は、その後二度と私の前に現れることはなかった。
――今思えば、無理もないことだった。
国の決めた婚約者とはいえ、ヘンリー様は当時まだ十三歳、恋や結婚に憧れもあったことだろう。一国の王子としては頭の中身が少々残念だけれど、見方を変えれば年齢相応のかわいらしい少年だったのだ。
それをいうなら当時の私もかわいい十一歳の少女だったわけだけど、なにしろ中身は三十一歳元社畜。婚約者同士の甘い会話を成立させるには、こちらが相手に合わせるしかなかったはず。
(婚約解消自体は、正直ウェルカムだったけど)
私の髪をせっせと結い上げるドリーの姿を鏡越しに眺めながら、私は思い返す。
(そのせいで北のジデオンへのハミークとの共同戦線計画がポシャったのは、残念だったわ)
当時のハミークにはヘンリー様と年の近い兄君や弟君もいたが、第二王子と婚約解消した私のもとに、新たに彼らとの縁組の話が来ることはなかった。ハミーク王には母親の違う年の離れた独身の弟殿下もいらしたけれど、この方は当時すでに王位継承争いを避けて他国に移り住まれていたとか。いずれにせよ、政略結婚の駒が多くてうらやましい限りね。
しかも、山がちな内陸国ながら、ハミークには“魔法”という切り札がある。詳しい内容は伏せられているものの、同国の王族は代々不思議な力と“魔道具”を持ち、それらを用いて何度も国の危機を脱してきたのだとか。
他方、大陸の西端に位置し、貿易港と温暖な気候のおかげで人や物の行き来こそ盛んなわがノルドランだが、特筆すべき産業はなく、王である父は恵まれた環境に安穏とするだけの超ぼんくら、失礼、現実から目をそらすことに長けた性格。
つまりハミークにすれば、わざわざ王子に意に沿わない結婚をさせてまで、わが国と縁を結ぶ必要は感じなかったわけだ。
(……まあ、うんざりしてたのはこっちも一緒だったけど)
王子のセリフを思い出して、私はそっと苦笑する。
そう。十一歳のあのときすでに、私はうんざりしていた。ヘンリー様に限らず、凡庸な男性をちやほやすること全般に。
なにせ私は前世の記憶持ち。仕事相手の「男のプライド」とやらのために余計なエネルギーを費やす経験なら、クソほど、あら失礼、いやというほどあったのだ。
(あーやだやだ)
改めて思い出してしまい、私はげんなりする。
前世には「女の敵は女」なんて言葉もあったけれど、あんなの大嘘。一度社内の男性に敵認定されたら、そこから先はもう、拗ねるわ、こちらの粗探しするわ、徒党を組んで陰湿なことするわで、女性の同僚よりずっと厄介だったものだ。
こちらが女というだけで、なぜか自動で「俺より下」認定、そしてそんな「俺」より私が成果をあげると、これまた自動で「女を使った」とか言い出すんよな、あいつら……。
(いけない。あまり思い出すと、顔と言葉が荒れちゃうわ)
私は鏡をのぞきこみ、眉間に寄ったしわを指で伸ばす。
もちろん、すべての男性がそうだったわけではない。仕事ができて女性とも普通に接することのできる、つまり尊重し合える人もいた。残念ながら、希少種だったけれど。
……なので。
(好きにやらせていただくわ、今世では)
にんまりと私は微笑む。あら大変、鏡の中の自分が黒い笑みを浮かべているわ。
幸いにして、今世の私は王位継承順位一位の第一王女。父を除けば、国内で私以上の権力を持つ者はいない。
というわけで今世では、「男のプライド」だの「男を立てる」だの、面倒なことは全部パスで。
かわりに一国の統治者として、この身が朽ちるその日まで努力は惜しまないつもり。社畜魂の有効活用よ。
外では妻である女王の邪魔にならないよう振る舞い、内では妻の支えになってくれる夫。希少種とはいえ、どこかにいるでしょう? そんな男性も。
……と、思っていたのだけれど。
(残念ながら、事態は私の予想を超えてたのよね)
その後のことを思い出して、私は肩をすくめる。