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福田の前を歩く広報担当者が振り返って耳打ちした。
「福田さん今日の参加者の中にちょっと問題のある子がいるみたいなんですよ」
「問題のある子?って、どんな子?」
福田は歩みを止めずに尋ねた。
「引きこもりっていうか、ちょっと」
「引きこもり?どの子だよ?」
福田の質問に広田は脇に抱えた封筒から、参加者リストを抜き出した。指にツバをつけ、何枚かをめくり、ある用紙のところで指を止めた。
「これです。この子です」
広田は用紙を一枚福田の前に差し出した。福田は左手でそれを受け取ると、上から目を通した。
氏名 金井 家明
年齢 十二歳 市立桜田小学校 六年生
家族構成 小児科医の父とジャーナリストの母との三人家族
将来の夢 特になし
体験希望コース サッカー
「この子が引きこもりなの?」
福田は顔を上げて広田に尋ねた。
「ええ。夏休みが終わってから、学校にほとんど行っていないらしいです」
「へー。そんな子がどうして、このスポーツ教室には参加したんだ?」
「福田さんの大ファンなんですって。だから、何とかこの機会に、引きこもりを脱却したいと、親御さんの方からの希望で」
広田の言葉に福田は小さく息を吐いた。
「サッカーの力を持ってすれば、世界中の子供心は動かせる。そういうことか?」
福田は横目で広報の顔色をうかがった。広報は満足そうにうなずいた。
「あと、それから、この子成績優秀です。テストの時だけ学校に行くらしいです。それで、成績はクラスで一番。親の血というかDNAというか、IQはずば抜けて高いらしいです」
「めんどくさそうな子供ということか?」
福田は手を広げて、自分のこめかみを親指と人差し指で二回揉んだ。
サッカー場に着いた福田を参加者と父兄が拍手で迎えた。参加者は小学四年生から六年生までの十二人。学年順に左から並んでいる。並んだ列の一番左には黄色い蛍光色のジャンパーを着たイベントスタッフが、肩からトラメガを下げてにこやかにお辞儀をした。
「それではこれより、スポーツ教室サッカーの部を始めさせていただきます。私、このエリアのディレクションを担当させていただきます、坂と申します。どうぞよろしくお願いいたします。まずは端から自己紹介をお願いいたします」
坂の仕切りで参加者は左端から自己紹介を始めた。福田は引きこもりの金井家明がどの子であるのか興味を持ちながら、自己紹介を聴いた、
金井家明は向かって一番右で一番最後に自己紹介した男だった。身長は百六十五センチくらいで筋肉質。小学生にしては大きい。とても引きこもっていたようには見えない。あえて引きこもりという言葉を連想させるとすれば、髪の毛が長いことくらいだろう。それ以外は至って普通に見える。
全員の自己紹介が終了すると、坂は福田の方向を見た。
「それでは、ここからは浦和レッドの福田さんにバトンを預けたいと思います。福田さんどうぞよろしくお願いいたします」
坂は福田にトラメガを渡すと、二歩後ずさりした。福田は自己紹介を始めた。
福田とユース選手の自己紹介を参加者と父兄はかしこまって聴いた。
「こんにちは浦和レッドの福田です。今日はお招きに預かりましてありがとうございます。さて、今回のスポーツ教室の主旨が、最近一人っ子や二人っこが増えている関係で、大勢の中に自分がおかれた際に、自分のポジションを見切れない子供が増えていることを懸念し、企画されたものと聴いております。私は子供が一人。娘がおりまして、いや、離婚しましたので、正確には過去形になります」
笑顔で話す福田の表情を見た参加者の父兄は笑った。参加者の子供達は意味が理解できないらしい。キョトーンとしている。
「そんな、親御さん達の気持ちも何となく解ります。ぜひ、サッカーの力で、団体行動時自分のポジションをこなすことが、いかに大事であるかを子供達に教えていければと思います」
福田の話に参加者父兄から拍手が起こった。福田は恐縮しながら頭を下げた。
福田の仕切りで、十二人いる参加者を二つに分けて、柔軟体操から指導に入った。五十メートルダッシュを数本繰り返し、四人でのパス回しを終える頃にはランク分けができた。
福田は肩から提げたトラメガで自分の声を拡声させて、子供達を自分たちの待つベンチ前まで集まるように声を張り上げた。
「はーい!終了。みんなこっちへ集まって」
「はーい」
子供達は元気よく返事をして、全力疾走で福田の元へ集まってきた。福田は集合した子供を上級、中級、下級の三つのグループへ分けた。金井家明は福田が指導する組へ振り分けられた。すなわち、上級のグループだ。中級、下級はユースの二人に任せて、福田とユースの一人は上級グループの指導をすることにした。
「チーム分けは以上です。このチームはみんなが持ってる技術に応じて分けました。それぞれの指導者の下で練習してうまくなって下さい」
「はーい」
福田の言葉に参加者は大きな声で返事をした。
「じゃ、ここの六人は僕の方へ来て下さい」
福田は自分の前に集めた六人をグランドの中央へ移動させた。あらかじめパイロンが何本か置かれている。福田のアシスタントをするユースチームの選手が、パイロンの先頭付近へボールを持って移動した。福田が声を上げて子供達に練習の内容を説明しだした。
「はい、これから行う練習を説明します。まず、一人がドリブルをして、パイロンをジグザグに進みます」
福田の説明に合わせてユースの選手がドリブルを始めた。
「最後のパイロンを超えたところで、僕へボールをパスしてください。みんなからもらったボールを僕がゴールへ向けてシュートします」
福田の言葉に子供たちは喜びの声を上げた。自分が福田のゴールをアシストできるのである。こんなチャンスはめったにない。子供たちは我先にとパイロンの先頭へ走っていった。
福田は子供たちの準備ができたことを確認した。
「みんな、準備はいいか?」
「はーい」
子供たちの声が、天高く響いた。
「それじゃ、最初の人から開始。ピィー」
福田は首からぶら下げたホイッスルを力強く吹いた。子供たちは無我夢中でドリブルをして、パイロンをすり抜けて福田へパスをまわした。このサッカー場の芝はヨーロッパ芝ではない。十一月上旬の気候では緑でおおわれているとは言えないが、子供たちが蹴りこんだボールの軌道には、新しい可能性が生命体として緑の尾を引いたように福田には見えた。自分の存在を認めてくれ、自分を司令塔として、尊重してくれるこの状況が福田にはうれしかった。例えそれが、子供たちからであったとしても。
一年前
福田は自分のマンションのリビングルームに置かれたイタリア製ソファーに腰掛けて、テレビのスポーツニュースを見ていた。そこへ掃除を終えたゆかりが話しかけてきた。
「ねえ、今度の連休にサエと旅行に行こうと思っているんだけど、あなたは行かないわよね?」
福田はテレビから視線を離さずに答えた。
「ああ、今度の日曜日はアウェーで大分トリイーダ戦だから。行けないね」
「あら、そう。よかった」
ゆかりは手を腰にあてて、上体を少しだけ折り曲げて、皮肉まじりに答えた。福田はその表情に気づかずに、スポーツニュースの解説者が話す言葉に耳を傾けていた。ゆかりは自分に注意を向けない福田に少し腹立たしさを感じながら、リビングからキッチンへ向けて歩き出した。
冷蔵庫の扉を開けて、中の食材を一品ずつ賞味期限を確認しながら、福田に尋ねた。
「明日の朝食、どうします?なにが食べたい?」
「んん?なんでもいいよ」
福田は相変わらず無関心だ。ゆかりは手に取ったピーマンの袋を冷蔵庫の野菜入れの中へ戻した。
「ピーマンの賞味期限は明日まで。私たちの賞味期限もそろそろかしら」
ゆかりの呟く言葉はテレビから流れでたCMの効果音でかき消され、福田へ届くことはなかった。
「さて、風呂に入ろうかな」
スポーツニュースを見終えた福田は、ソファーから立ち上がった。
「ゆかり、サエは寝たんだろ。今夜は久々にどうだ?」
福田はキッチンで冷蔵庫の検品を終えたゆかりの背中に手を回した。ゆかりは無言のまま、分別されたゴミ容器の中から、生ゴミを選択して、賞味期限の切れたモヤシと卵を捨てた。
「今日はそんな気になれません」
ゆかりはゴミ容器を閉めた手で福田の手を払いのけた。
「今日はって、もう半年以上もしてないぞ」
背中を向けたゆかりに、ふて腐れた子供のように福田は言葉を吐き付けた。
「いいえ。正確には八ヶ月です」
ゆかりはエプロンの紐をほどくと、小さくたたんだ。エプロンはリビングのテーブルの上に置かれ、ゆかりは自分の寝室へ続く廊下を歩いていった。
「ふっ」
福田はゆかりの姿を目で追うと。溜息をついた。小さくたたまれたエプロンに右手の指を滑り込ませると、ゆっくりと握ってみた。そこには、微かではあるが、ゆかりの体温が残っているような気がした。八ヶ月間確認していない体温が。
シャワールームからでてきた福田は、バスタオルを下半身に巻きつけて、キッチンへ向かった。ガラス製のコップに、水道の蛇口からひねり出された水を勢いよく押し込めてから、左手ではコップの口を自分の口に宛がい、右手では水道のコックを押し上げて水を止めた。
「ゆかり、やっぱりダメかな」
福田はコップをシンクの中に転がして、寝室へ足を運んだ。寝室のドアノブに手をかけて、ひねろうとしたが、ドアノブはある一定の場所で小さく音を立てると、それ以上先へは回らなかった。福田はドアノブをそれ以上回そうとはしなかった。
「また、今夜もか………」
福田は肩を落として、リビングルームへ逆戻りしていった。廊下を歩くスリッパの音だけが空しく響いていった。
リビングに置かれたソファーの下から毛布を引きずり出して、冷蔵庫から三百五十ミリリットルサイズの缶ビールを一缶取り出した。音が出ないように、プルタブをゆっくりと引き上げると泡が「シュワ、シュワ」と音を立てて膨れ上がってきた。福田は急いで口を近づけると泡を「ズズズー」と音を立てて吸い込んでいった。
「いつからだろー、こんなになっちゃったのは」
ビールが缶の残り半分くらいになったところで、福田は独り言を吐いた。高層階の窓の外には、ソニックシティーの灯りと大宮駅を発車したばかりの電車の灯りが、にじんで映っている。福田はにじんだ明かりを頼りに記憶を手繰り寄せた。
結婚式はハワイで親族だけで挙げた。ゆかりの希望でそうした。披露宴は六本木の外資系ホテルでスポーツ界、芸能界から著名人を多数招待して盛大にあげた。この頃二人の関係は、順風万端という表現以外に思い浮かばないほどラブラブだった。どこへ行くにも一緒で、腕を組み、頬を寄せ合って歩くことが自然な二人のポジションだった。
新婚当初はゆかりの希望で港区内の賃貸マンションに住んでいたが、浦和レッドの練習グランドがある秋ヶ瀬公園や、ホームスタジアムがある駒場へ通うことが安易ではなかったので、一度目の更新時期にさいたま市の高層マンションへ引っ越してきた。
賃貸で借りようと話す福田の意見をさえぎって、ゆかりは購入の道を決断した。福田もゆかりが言うのであれば反対する気にもなれずに、購入する事にした。そのころも、二人はラブラブであった。
長女のサエが生まれたのは、その一年後だった。身重の妻は東京都港区内の実家に身を寄せ出産に備えた。その頃の福田は、週二回のリーグ戦とワールドカップの予選に日本代表として名を連ねていたので、ほとんどゆかりに会うことはできなかった。
サエの出生を知ったのは、アウェーでの中国戦を終えたばかりのことだった。ロッカールームで着替え始めた福田は、サッカー協会の編成担当者からその一報を聴いた。福田は飛び上がって喜んだ。
「末は女子サッカー日本代表だな」
そんな言葉がロッカールームに飛び交った。福田は、以前にもましてトレーニングを積み試合で成果をあげた。出産、育児は女の仕事。男は外で稼いでくればいい。男三人兄弟で育った福田にしてみれば子供の頃、自分の父親が口癖のように言っていたそんな言葉を思い出していた。
男子厨房に入るべからず。
この言葉も福田の父親がよく口にしていた言葉だ。九州出身の福田の父親は男には男の役割、女には女の役割がある。お互いにその役割をこなす事によって、お互いを尊敬しあえるものだ。と福田に教えていた。
サッカーに目覚めた福田は、その言葉の意味を理解するようになった。サッカーも十一人がピッチ上でそれぞれの役割をこなして、チームを勝利へ導くものだと経験で感じ取ったからだ。もちろん、監督やコーチ、レフリーにいたっても同じで、各自が役割をこなしてこそ、組織は成り立つのだから。
翌朝、ソファーで眠る福田を横目にゆかりはキッチンへ向かった。水を飲もうとシンクへ目を向けると、昨晩福田が転がしたコップが目に入った。
「また?………これくらい洗ってくれてもいいのに………」
十ヶ月前
新年の挨拶回りを終えて、自宅マンションへ戻った福田家族はリビングへ腰掛けた。福田は左腕につけた時計へ目を落として時間を確認した。夕方五時。
「ごめん。ちょっと出かけてくる」
福田はキッチンのゆかりに向かって声を掛けた。
「出かけるってどこへ?」
ゆかりはキッチンから顔だけのぞかせると、福田の後ろ姿に話しかけた。
「サッカー雑誌の編集の人に新年会に誘われているんだ。深夜遅くまで掛かるから、ゆかりはサエと留守番していてくれ」
「雑誌の編集の人って、新年会の場所はどこなの?」
「川口の方だ。たぶん帰りは明日の朝だと思う」
福田は玄関で靴を履きながら答えた。ゆかりは廊下をゆっくりと歩いて福田の後を追いかけた。
「なにも、元旦の夜くらい出かけなくてもいいじゃない。家族でゆっくり過ごしましょう」
靴のヒモを結ぶため、背中を丸めた福田の背後から、ゆかりは哀願するように話しかけた。
「仕方ないだろう。どうしても断れないんだ。もし、来年チームから首を切られてみろ。そのときは新聞や雑誌での執筆活動や、テレビの解説くらいしかお金を稼ぐ道がなくなるかもしれないんだぞ」
福田の返事にゆかりはあきらめた表情で、「フッ」と息を吐いた。
「もう少し、家族のことも見て下さい」
ゆかりはあきらめたように、福田の背中に吐きつけた。
「見てるよ。見てるからこその行動だろ」
靴を掃き終えた福田は玄関に立ち上がり、ドアからチェーンキーをはずした。
「バタン」
玄関のドアは音を立てて閉められた。ゆかりの左手くすり指から結婚指輪がはずされた。そして何かが音を立てて仕切られた気がした。
「一人で家庭を守っている私の身にもなってほしいわ。やっぱり、ダメなのかな………」
ゆかりはため息をついて自分の指先を見つめた。
つづく