②
半年前
さいたま新都心駅から徒歩五分、三十三階建てマンションの最上階に福田一家は住んでいた。3LDKの間取りは、小学校に入学したばかりの娘と三人で住むには丁度いい広さだ。
「ただいま」
福田がドアを開けて、玄関に腰を下ろして、革靴のヒモをほどき出す。リビングに続く廊下は静まりかえっている。福田はシューズラックの上に置かれた、除菌スプレーを脱いだ靴の中に吹きかけた。
「シューッ」
吹き出されるガスの音が静かな玄関に響いた。福田はシューズラックの扉を片方だけ開けて、靴をきれいに揃えてしまった。スリッパたてから、自分専用のスリッパを廊下におとして、左足からスリッパを履いた。「ペタ、ペタ」と音をさせて、廊下をリビングへ向けて歩いた。
「ただいま」
誰もいないリビングに声をかけた福田は、いつものようにテーブルに置かれたメモ書きに目を落とした。【先に寝ます。食事が済んでないようでしたら、冷蔵庫の中の赤いタッパーの中に煮物が入っていますので、レンジで温めて食べてください。】
「もう寝たのか?」
福田は壁に掛けられた時計を見た。短針は十一と十二の間、長針は六の上に置かれている。午後十一時三十分だ。福田は妻ゆかりの趣味で購入したイタリア製ソファーに疲れた体を沈めた。サッカー選手の福田は、春から冬のシーズン中は月の半分以上を地方遠征で過ごす。食事はほとんど外食だ。今日も、チームメートと行きつけの中華料理屋で済ませてきている。
妻のゆかりは福田よりも四歳下で、モデルやキャンギャルの仕事をしていた。チームメートからの紹介で知り合い、福田の一目惚れで結婚にこぎつけた。
ゆかりは東京都港区生まれで、港区育ち。三歳違いの姉は女優をしている。
福田はさいたま市生まれのさいたま市育ち。男ばかり三人兄弟の真ん中で育った。
結婚後、子供ができるまではラブラブという表現がピッタリな関係だったが、妊娠、出産後二人の関係は少しずつ変化していった。多くの女性がそうであるように、ゆかりの気持ちのほとんどは生まれたばかりの子供に注がれた。地方遠征が多い福田は、満足に子育てを手伝うこともできず、二人で築き上げた時間は数えるほどしかなかった。
中華料理屋で飲んだ紹興酒が効いてきたのか、福田を眠気が襲ってきた。福田は腰掛けたソファーに横になると眠りに落ちた。
「もう我慢できない。離婚しましょう」
翌日目覚めた福田に向かって、ゆかりが投げかけた言葉だった。福田はいつもの愚痴が始まったと思い、アクビでゆかりのヒステリーに答えた。
「ふぁ~あ。わかった、わかった」
「解った。解った?今そう言いましたね?それでは、決定!サインしていただきます」
ゆかりは食器棚の下に備え付けられた引き出しの中から、一番下の引き出しを開けた。引き出しの中には保険の証券や、マンションの賃貸契約書など、契約に関する書類がしまわれている。ゆかりは書類の束の一番下から、緑色の文字と線が敷き詰められた薄っぺらい用紙を一枚抜き出した。A4サイズほどの用紙を自分の顔の前へ持ち上げて内容を確認するように、目線を左から右へ移動させる。最後に視線は用紙の下の方で止まり、ゆかりは小さく笑った。福田の寝ぼけた頭にはその紙が何を意味して、どんな効力があるのかはすぐには浮かばなかった。
福田は冷蔵庫から野菜ジュースが入ったペットボトルを出して、ふたを反時計回りに回した。「くるくるくる」と音を立てて、白いキャップが外された。福田はキャップをテーブルの上に置くと、左手に握られたペットボトルの開栓したばかりの口を自分の口に合わせた。
ゆかりは、右手で掲げていた用紙を福田が置いた白いキャップの隣にゆっくり滑らせた。福田は上を向いて、ペットボトルに口をつけながら視線を下へ落としたが、ゆかりが置いた書類が何であるのか、確認できない。
「ゴク、ゴク、ゴク」
福田は七割くらい残された野菜ジュースが入ったペットボトルを下を向いて口から離した。白いふたを閉めようと、テーブルの上に置かれたキャップに目を落とすと、自然と視線は横に流れて、ゆかりが滑り込ませた書類に移される。用紙の左上には【離婚届】と書かれていた。
「ゲホゲホ。えっ?えっ?なんだよこれ?本気かよ?」
福田は野菜ジュースを鼻から吹き出しそうになりながら、ゆかりに尋ねた。ゆかりは憮然とした態度で口を開いた。
「見ての通りの離婚届です。そこにサインしてください」
「ちょ、ちょっと、待ってくれよ」
福田は慌てながらペットボトルにふたを閉めた。
「いえ、今日まで待ってきましたから、もう待てません」
ゆかりは寝室へ戻ると、部屋の鍵をかけた。五分後に鍵は開けられ「ガラガラガラ」という音とともに、キャリーバッグを引いたゆかりが出てきた。
「実家へ帰らせていただきます」
ゆかりは冷たく言い放つと、玄関めがけて急ぎ足で廊下を歩いて行った。
「おいおい、待てよ」
福田の静止も聴かずに、ゆかりは玄関から姿を消した。福田は玄関にたたずんだが、すぐに廊下を引き返した。リビングへ引き返す途中に寝室がある。福田とゆかりの寝室だ。娘のサエは去年までこの寝室で寝ていたが、小学校に入学したことをきっかけに、自分の子供部屋で寝るようになっている。
福田は寝室の中の様子を確認した。クローゼットは開きっぱなしで、中には福田の服だけが掛けられていて、ゆかりの服もサエの服も無くなっていた。福田は不思議に思い、クローゼットの隣に置かれた洋服ダンスの中を確認した。
取っ手を引いたときの感触があまりにも軽かったので、福田は拍子抜けした。一段目と二段目にはゆかりの下着や、ジーンズやトレーナーなどの普段着がしまわれているはずだったが、中は空だった。次に福田は、対面に置かれた化粧台のサイドに設けられた小さな引き出しを引いた。中には指輪やネックレス、腕時計などの装飾品が保管されているはずだ。取っ手を引く感触は先程と同じく、あまりにも軽かった。
引き出しの中は空だった。
化粧台に取り付けられたすべての引き出しを開けてみたが、化粧品や装飾品は見あたらず、コットンパフが何枚か残された小さな箱と、封を切られていないポケットティッシュが一つ残されているだけだった。
「今度は、本気か?」
福田は独り言を吐くと、サエの部屋に向かった。サエは今日は学校に行っているはずだが、朝、家を出て行った気配を感じなかった。いつもなら、「パパ行ってきます」と言い残して、学校に行くのだが、今日はそう言われた記憶はない。いやな予感がした。
サエの部屋には、何も残されていなかった。春に買ったばかりの勉強机もベッドも、三歳の頃から大事にしていた熊のぬいぐるみも、壁に貼られていた着せ替えキャラクターのポスターも、何もかもなくなっていた。
福田は息を止めた。心臓から上で血の気が引いていくのを感じた。
西部ライオンズの試合はテレ玉テレビで全試合放送している。豊田がホームラン打っても三振をしても、その様子は電波に乗せて県内に発表される。いいことも、悪いことも、全て。
今シーズン豊田は、オープン戦から活躍した。昨年末に年俸二十五パーセントダウンの一年契約で、何とか契約にこぎつけた豊田にとっては勝負の年にしなければならなかった。その思いが通じてか、開幕一軍に名前を残せる成績をオープン戦で上げることができた。
豊田は開幕から順調に仕事をこなした。控えキャッチャーという立場から四月を終えての成績は、出場試合十二試合。三十五打数、八安打。打率は二割をわずかに超えるぐらいなので決していいとは言えなかったが、豊田が先発でマスクをかぶった試合は七勝五敗と勝ち越していた。ベテランならではの打者の裏をかいたリードが投手の力を最大限まで引き出したからだ。
豊田の一人息子ショージが学校を休みだしたのは、ゴールデンウイークが開けてからだった。その頃から部屋に引きこもるようになったと妻から聞いた。豊田も福田と同じく一年間の半分以上は遠征で地方へ行っている。子供の教育や管理は妻に任せっきりにしていた。妻から遠征先へかかってきた電話で子供が学校へ行かなくなった事実を聞かされた。原因は、豊田の仕事にあるらしいと妻は続けた。
ゴールデンウイークにライオンズ球場での試合に妻と子供、そして子供の同級生を招待したのだが、その試合が全ての原因だと妻は語った。
豊田はその試合で三打数ノーヒット。三振も一つした。家族が観戦に来た試合では、その選手が活躍することが暗黙のルールとなっているはずであったが、相手のピッチャーは今年入団したばかりの中国国籍のピッチャーで、日本やアメリカで通じる暗黙のルールが通じなかった。それに加えて、敵のキャッチャーは自分より先輩格の大ベテランで、くせ者と言われている野々村だ。
試合は一対一の緊迫した接戦で、九回まで進んでいる。豊田の四打席目は九回の表に回ってきた。ツーアウト二塁、二塁走者はワンヒットでホームまで帰ってくることができる。俊足だ。
豊田は打席に入ると、バッターボックス内の足場をならしながら、キャッチャーに話しかけた。
「今日は、俺の家族が観にきているんだ。妻と子供、それに子供の友達もだ」
「ああ聴いてるよ。でも豊田、ウチのチームとお前さんとこのチーム、今どんな状況か解ってるよな」
キャッチャー野々村は、ミットの砂を払いながら答えた。豊田は言いたいことはすぐに解った。ライオンズは五位、相手チームは六位で、この試合に負けた方が最下位になる。しかも、お互いにここまで六連敗である。義理人情で負けるわけにはいかないと言いたいのだろう。
「解った、真剣勝負で」
豊田は足場を固めていつものオープンスタンスで構えた。
結果はファールで粘った五球目のスライダーを見送って三振。ベンチへ戻る途中にスタンドの妻と子供に視線をあげた。二人とも残念そうな顔で豊田と視線を合わせた。
その裏、劇的な幕切れで試合はゲームセットをむかえた。ツーアウト三塁で四番バッターへ投じた球はインコース高めのストレート。ストライクゾーンぎりぎりで、豊田としてはボールにするつもりだった球だ。バッターは長めに持ったバットで思いっきりスイングした。球はバットの上っ面にあたり、大きく宙へ舞った。三塁手とホームベースの中間に高く舞い上がった。三塁手はミスターライオンズ伊予原。野性的感が売り物の二十七歳。豊田の子供やその友達も試合後に伊予原のサインをもらいたいと、昨日の夜からはしゃいでいた。
この位置にフライが上がった場合のルールとして、豊田が捕球することになっていた。ツーアウトなので三塁ランナーのことは気にしなくてもいいので、捕球地点に一番近く、伊予原よりも先輩格で捕球のうまい、豊田が捕球することになっていた。豊田が捕球の構えに入ったとき、息子の声と敵ベンチから同じ声が上がった。
「伊予原―!」
豊田は、一瞬ボールから目をそらした。伊予原が自分のすぐ近くで同じように豊田の方向を見ている。球は二人の視線の中間を真っ直ぐに天から落ちてきた。
「ポトッ」
球がグランドに落ちた音のすぐ後に歓声が響いた。振り返る豊田の視界には足でホームベースをゆっくり踏む三塁走者の姿と、口を開けて動きを止めた子供の姿がフラッシュバックのように交互に映し出された。
その日の夕食は、帰宅途中のレストランで、外食の予定だったが豊田の子供は「食べたくない」といい、レストランの駐車場に停められた車の中で、豊田夫婦の食事が終わるまで待っていた。
「ねー、あなた。あの子最近変なの」
豊田の妻がコーンスープを満たしたスプーンを口に運びながら話した。
「変って、どのへんが?」
豊田も同じようにコース料理のスープを喉に流し込んだ。
「なにか、学校でいじめにあっているみたいなの」
「いじめ?」
「ええ、あなたが試合で三振したり、相手のバッターに打たれたりした翌日は、クラスの友達や部活動の先輩からカラカワレルらしいの」
「ふ~ん」
豊田は耳が痛かったが、カラ返事で聞き流した。
「ねえ、大丈夫かしら?登校拒否になったりしないかしら?」
「大丈夫だろ、思春期の男の子にはよくあることだから、すぐにはね除けるよ。それに、俺の子だ二~三日したら、ケロッと忘れるよ」
「そうかしら?そうだといいのだけれど」
妻は心配そうに左手で頬を押さえた。豊田はボーイにスープ皿を下げて、前菜を運ぶように目で合図を送った。
「せめて、あの子に兄弟がいたら、相談できたのかしら」
妻は暗黙のルールを破る発言をした。
「それは言わない約束だろ」
豊田は空になった妻のスープ皿を見て、同じようにボーイに目で合図を送った。
「そうだったわね。ごめんなさい」
二人はこれ以上子供を望むことはできなかった。妻の子宮に異常が発見されたのは、第一子を出産してすぐのことだった。医者から、これ以上子供は期待しない方がいいと言われた。
妻の涙腺が微かに潤んだ。花粉症の季節は終わりに近づいていたが、所沢の自然あふれるこの地域にはまだ、花粉は飛んでいるのかもしれない。豊田は妻の涙の意味を花粉のせいと捉えた。それは小さな勘違いだった。豊田はもう一つ勘違いをしていた。子供は豊田一人の遺伝子を受け継いだわけではなく、妻の遺伝子も受け継いでいるのである。繊細な妻の遺伝子も。
つづく