後編。
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このお話の主役、漱吾とふたばさん――彼女の名字は聞かなかったし、名前の漢字も聞かなかったけれど、ひょっとしたら、本名を隠すために、漱吾がでっち上げた、うその名前なのかも知れない――が出会ったのは、公園そばの区立図書館、その一階、花の図鑑だか植物の図鑑だかを落とした彼女に、それを拾ってあげたのが、きっかけだったと言う。
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「ってか、なんでアンタが図書館に?」
「アオイさんが借りてた本が部屋に置きっぱなしでさ、代わりに返しに行ったんだよ」
「アオイさん……って誰だっけ?」
「ほら、コスプレイヤーの」
「ああ、“エヴァーガーデン”のアイリスの。キレイなひとだったわよね」
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ま、もちろん、コイツはコイツなので、そのコスプレ美人とも、ワンシーズンだけお付き合いして、お別れして、傷心――になるようなタマではないのだけれど――そんなときに出会ったのが、彼女だった、と。
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「でもまあ、そんときはそんときだけで、そのままお別れしたんだけど――」
「しばらくして、音大の学祭で再会したのね――って、ちょい待ち。その子いくつよ?」
「あー、えーっと? そんときは……、18だったかな? たしか」
「はあ――」
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正直、わたしの年齢をバラすことにもなるので、あんまり言いたくはないのだけれど、もう、ね、こう、ね、わたし達の年齢でね、二十歳未満の子に手を出すってのはね、法律的にはどうかは知らないけど、やっぱマズいと想……え? そのときは別の女性とお付き合いしてた?
あー、そのひとの関係で音大に行ったワケか――って、それってひょっとして、あのピアノの先生? 日本版アルゲリッチみたいな格好の?
あんた……、それはそれで、年が離れすぎなんじゃないの?
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「でもよ、愛さえあれば年の差なんて――」
「ワンシーズンもってないんでしょ? バカ言ってんじゃないわよ」
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で、まあ、そんなこんなで、コイツはやっぱりコイツなわけで、そのピアノのお姉さまとも、しばらくしてお別れすることになるワケだけれど、そのふたばさんとは、その後も何回か、駅とか公園とかで偶然会ったりして……、え? それでなに? けっきょくお付き合いしたってこと?
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「いや、なんだかんだで、まだ子どもだったしよ、まずは連絡先交換して、たまにお茶したり、学校のはなし聞いてあげたり、クラシックのコンサートにいっしょに行ったり」
「クラシック? あんたが?」
「とちゅうで寝ちまったけどな、せっかくチケット用意してくれたし」
「って、あんたそれさあ――」
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ほんと、コイツがどこまで分かってやっているのかは分かんないけれど、二十歳そこそこのおんなの子にとって、男の人とそんな感じでお出かけしたり、お話したりするのって、けっこう勇気がいるというか、それこそデートとか? お付き合いしてるとか? そんな風に感じるもんなんじゃないの? ふつう。
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「でも、そのころ俺、カオルさんとお付き合いしてたし、そのことはふたばさんも――」
「ちょい待ち。あんたがお付き合いしてたのは、チヅルさんのほうでしょ? 双子の妹さんのほう」
「いや、チヅルさんとは、ツカサさんとお付き合いする前に別れてて、カオルさんとは、コトネさんが福岡に行ったあとに――」
「って、おい、こら、まず、ツカサさんってのは、誰だ?」
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と、まあ、私もどこまで把握出来ているのかいよいよ分からなくなって来たんだけれど、要は、そのふたばさんと、“お友だち付き合い”していた間も、このバカは、3~4人ほどの女性とお付き合いしては、そのどなたとも円満なお別れをして――って、ほんと腹立つわね、このバカ――で? そのことはふたばさんもご存知だったと。
うーん? そしたら……、どうなんだろう? ふたばさん的にも、“お友だち付き合い”ってことだったのかなあ? “気のいいおじさん”的な? ――彼女、彼氏とかは?
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「いや、なんかいいとこのお嬢さまで、ずっと女子校だったそうだし――」
「そんなこと言い出したら、わたしだって女子校だったけど、彼氏持ちの子なんてたくさんいたわよ」
「だから、そういうタイプの子じゃないんだって、それに――」
「それに?」
「生まれつきからだが弱かったらしくってさ、そのへん、遠慮がちに生きて来たっぽい」
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で、まあ、それから、そのまま、そんな感じに、“お友だち付き合い”をしていたふたりなんだけど、ある時期から、ふたばさんの連絡が途絶えがちになった、と。――いよいよ愛想つかされたってこと?
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「いや、そしたらしばらくしてさ、そこの執事さん? みたいなひとが、俺んとこ訪ねて来てよ――お見舞いに来てくれねえかって」
「お見舞い?」
「ほら、タカノダイの――」
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どうやら、ふたばさんご自身は、コイツとの“お友だち付き合い”を、周囲に隠していたらしいんだけど、その入院のばたばたとかで、彼女――ふたばさん家の執事さんね――が、彼女の日記を見てしまい、こいつの存在を知ってしまった、と。
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「昨年の秋頃から、お嬢さまのご様子が、たいへんお変わりになりまして、それまでは無口な、ふさぎがちな方だったのですが、お出かけになられる回数も増え、家のわかい者たちと、学校や外出先でのことで盛り上がることもあり、それは……、もう……、ほんとうに楽しそうで――」
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「ちょっと待って、漱吾」そう言ってわたしは、ここでこいつの話をさえぎった。「これちょっと、場所変えてはなさない?」ファミレスに流れる、クソみたいなBGMに、我慢ならなくなりそうだったからだ。
ふと窓の外を見ると、さきほどのウェイトレスが、私服に着がえ、車の流れを無視しながら、まえの通りをわたって行くのが見えた。彼女のまわりだけ、時のながれが、狂っているような感じだった。壁際の席では、つめたくなったレモンティーだかリアリティーだか、そんなものに悪態を吐いている酔っぱらいがいた。
「どうか彼女が、無事に、そこにたどりつけますように」――そんなことを、想った。
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ひさしぶりに会った彼女は、ずいぶんとやせてしまっていたそうだが、それでもなんだか元気そうで、なんだかんだと漱吾に愛想をふり撒くと、病院の食事や、なかよくなった看護師さん、薬局のお姉さんと若い研修医の恋物語や、それに、庭で見付けた、あわ紫のちいさな花について、語ってくれたそうだ。
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「あのね、ソウゴさん」
「なに? ふたばさん」
「あのね……」
「うん?」
「ごめんなさい、なんでもないです」
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で、まあ、それからの数ヶ月だかなんだか、その執事さんのはからいで――って言うか、ふたばさんがあえるタイミングを、あっても大丈夫なタイミングを、彼女が漱吾に教えてくれて、こいつはそのたび、ふたばさんのところに行っては、会っては別れ、別れては会ってを、くり返していたらしいんだけど――、
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「それがさ、会うたんびにさ、」と、すっかり暗くなった公園のベンチにすわり、漱吾は言った。「わかるんだよな、これが」
お酒もおおかた抜けたのだろうか、手にしたペットボトルのラベルを、はがすでもなく、かりかりとさわっては、手をはなすをくり返している。「わかりたくないけどさ、わかるんだよな、これが」
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「ちょっと待って下さいよ、カツキさん」
「もちろん、無理は承知でお願いしております。三尾さん」
「しかし、それは……、ふたばさんの気持ちとかも――」
「お嬢さまのお気持ちなら、十分に分かっております。あなたのお名前ばかりが、なんどもなんども、日記に出て来るのです。あなたがこうした、あなたがこう言った、あなたが、お嬢さまに、ほほ笑みかけてくれた。そんなことばかりが、書かれてあるのです。明日はあえるだろうか? 明後日はどうだろうか? 来月は? 再来月は?――そんなことばかりが、くり返し、くり返し、書かれているのです」
「でも、それとこれとは――」
「お願いです、三尾漱吾さま。ぜひとも、最期に、お嬢さまの願い、叶えてあげては、頂けないでしょうか?」
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家にもどると、居間のテレビは点けっぱなしになっていて、その前のグレーのソファでは、例の居候が、わたしの寝間着をかぶったまま、しずかな寝息を立てていた。
テレビのなかでは、ずいぶん昔のエドワード・ノートンが、ヘレナ・ボナム=カーター演じる奇妙な女と、なにごとかを話している。――そう言えば、あいつとも観たことあったわね、この映画。
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「まだ、かよってるの?」
「ええ、クロエが死んだわ」
「ああ、クロエか、いつの話?」
「気になるの?」
「いや、会のことは、すっかり忘れてたよ」
「……でしょうね」
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おんなの子ひとり救えなくて、なにが犠牲で、なにが革命よ、ばかばかしい。――ああ、だから、“わたしのせい”なのか。
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「ちょっと、ニアちゃん、起きなさい」と、わたしは言った。「こんなとこで寝てたら、風邪ひくわよ」
「あれえ?」寝ぼけまなこで、居候が言った。「あさがえりじゃー、ないんですかーー?」
「よっぱらった漱吾ひろって、家に送ってやっただけよ」
「なーんだー、つっまんないのーー」
「はいはい、いいからお部屋もどって、お布団はいって、寝ちゃいなさい」
「うーん? だっこーー」
「あなた、いくつよ?」
「だってーー」
「はいはい、かたつかまって」
それからそのまま、彼女を部屋まで運んで、敷きっぱなしのお布団におし込んでやった――この布団も、週末、干した方がよさそうね。
「ねー、ねー、おねえさまーー」部屋を出ようとして、居候が訊いた。「ソウゴさんとはー、ほんとにー、なんにもー、なかったんですかあーー」――うん。やっぱりわたしは、この子が苦手だ。
「そうね」わたしは答えた。「なんにも、なかったわね」
「なあんだ」まくらに顔を突っ込ませながら、彼女は言った。「つっまんないのーー」
「はいはい」そう言って、部屋のとびらを閉めた。「おやすみ、ニアちゃん」
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「それで?」と、わたしは訊いた。
ベンチのまえのグラウンドを、ちいさなイタチみたいのが、目をひからせながら横切って行った。作家的好奇心がなかったと言えばうそになるが、それでも、聞いてやるべきなんじゃないか? そんないいわけを、考えていた。「それであんたは、その、彼女の――」
「それがよ、」ペットボトルの口を、キュッと締め込みながら、漱吾はこたえた。「びっくりしたんだよ、俺」
「ふたばさんにさわったのは、ちかって言うがよ、樫山、ちかって言うが、それが、はじめてだったんだ。だけどよ、びっくりするぜ。ちいさいとか、そんなんじゃねえ、骨と皮だけって、よく言うじゃねえか、あれの意味を、俺は、ほんと、なんにも分かってなかった。ほんとうに、なんにも分かってなかった。髪だってさ、はずかしいからって、頭に布まいたままでさ、肌なんかよ、異様にすべすべしててさ、俺も、ひげは剃って行ったけどよ、顔をよ、よせていいのかもよ、よくわかんなくってさ――」
ぴいぃっ。
と東のほうで、鳥のなくこえがした。
だけれど彼は、それに気付かぬようだった。
「だけどさ、そうしてたらさ、彼女のほうからさ、くそっ、俺をさ、こう、抱き寄せようとしてきてさ、その……、ちくしょう、まだ、感触が、残ってんだよ、せなかに――」
ぴゅういっ。
とこんどは、西のほうで、鳥のうたうこえがした。
だけれど私は、それに気付かぬふりをした。
「それからさ……、それから、そのほっそい腕でさ、俺をさ、ちからなんてぜんぜんはいってないんだぜ? だけどさ、それでもさ、こう、ひっしに俺をだきしめて来てさ、ひっしに、だきしめて来てさ、言ってくるんだよ、「うれしい」って、「ありがとう」って、ちいさな声で、ひっしな声でよ……、でさ、きいてくるんだよ、「わたしのこと、好きですか?」ってよ…………、なんて答えりゃいいんだよ、こんなの……、なんて答えりゃ、よかったんだよ? なあ、おい、樫山?」
さきほどの鳥のうたを想い出しながら、わたしは訊いた。「なんて?」
“よききざし”ならいいのに――そんなことを、想った。
「あんたはなんて、答えたのよ?」
(了)




