前編。
台所におき忘れていた携帯の着信が鳴って、たまたまそのとき、そこにいた居候が、わたしの名前を呼んだ。
わたしは、スリッパにパジャマに部屋着という格好で、いそいで書斎を出て、こんな時間にだれだろう? と想った。
締め切り間際のエッセイなら、昼間に出したし、文代さんの禁酒期間も順調に伸びていて、ここ最近は、八時以降に電話をかけてくることもなくなっている。
「ごめん、ごめん、ニアちゃん」台所にはいりながらわたしは言った。
「ソウゴさんからですよー」にやつきながら居候がこたえた。「こんな時間にー、デートのー、おさそいとかですかーー?」――うん。やっぱりわたしは、この子が苦手だ。
「もしもし? 漱吾?」そう言いかけてからわたしは、「もしもし?」と、あらためて言いなおすことになった。「宋さん?」――近所の、中華料理店の店主だった。
*
「あ、センセ、たすかたよ」みせに入るなり彼女――うるわしの宋玲女士――は言った。あいかわらず、そのたくましい二の腕と大腿部がお美しい。「わたし、かよわいから、どうしていいか分からなくなてたよ」そう言って、洪家拳と八卦掌で鍛え上げられた身体を、こちらに寄せてくる。
うん。やはり、このひとはたいそう魅力的だ。とくに、首すじから鎖骨にかけてのラインはわたしの好みにぴったりだし、ちかくに寄られただけでいい香りが周囲をつつみ込んで――って、いやいや、まてまて、それよりまずは、あのバカだ。
「あいつは?」彼女の肩を、気取られない程度に軽くさわりながらわたしはかえし、「個室のほうで休んでもらてます」と、店主はそのまま、わたしの手を取り、店の奥へと引っ張って行ってくれた。「なんか、やすこセンセのせいだ、ばかり言てます」
*
三尾漱吾との出会いは……、あれ? なんだったっけ?
「そんなもん、俺もおぼえてねえよ」
大学? のときは、大学のときだよね?
「学食でとなりになったとかじゃなかったか? たぶん」
たぶんね。ゼミもサークルもぜんぜんちがったし。
「ま、とにかく、くされ縁ってやつだ」
*
「你回去工作吧! 小劉!!」小宴会用の個室にはいるなり、宋さんが叫んだ。「樫山先生來了!!」
と言うのも、この店のおんなの子が、回転テーブルに突っ伏している漱吾のそばに座り、投げ出されたその手を、いままさに握ろうとしていたからである。
「但……、」と、わたしと宋さんの顔を交互にみながらおんなの子は言ったが、「樫山先生來了!」そう宋さんがくり返したところで、「明白了……」しぶしぶながらもおんなの子は立ち上がり、とびらの方へとあるき出した。
うん。この子はこの子で、おさない感じがまだまだ残っているものの、中国服からのぞく長い足が――って、その目はぜったい、わたしを敵視してる目ね。
「你回去工作吧!」と宋さん。「就交給樫山先生吧」そう言っておんなの子にはやく部屋から出るよううながす。「這對你來說很難」
まあ、このバカが泣かした女の子の数は、十や二十じゃ効かないし、宋さんの言うことはもっともだし、この子が傷付く前に、離しておきたいって気持ちも、十分すぎるくらい十分に、分かりはするけれども、その言い方だと余計に誤解をまねくし、小劉さんの視線は痛いし、出来ることならわたし的には、この子と仲良くなりたいくらいなのだけれど――、
「ソレでは、ソウゴさんおねがいしますね、センセ」と、ふてくされた感じで彼女は出て行って、「またく、だからソウゴさん困るひとね」そんな彼女の背中を見ながら、宋さんは続けた。「だれかれ構わずいい顔して、みんなを誤解させるね」
*
そう。
三尾漱吾は、モテる。
腹が立つぐらいに、モテる。
酒豪で、甘党で――煙草やギャンブルはやらないんだけど――女癖もあんまりよろしくないくせに、モテる。
いちど、知り合いの女性編集者が、「あのモテの秘密を、本にしてみたらどうでしょうか?」みたいなことを言い出して来たので、必死になって止めたこともあるくらいに、モテる。
しかもこれが、そう言ったなにがしかのモテテクニックを駆使しているからだとか、芸能人並みのスキンケアとか自分みがきなどに苦心しているからだとか、催眠術だとか、超スピードだとか、そんなチャチなもんを使っているからだとかではなく、ただただただただ、ひと懐っこい態度と笑顔と、もって生まれたフェロモンだけで、女性にモテていると言うのだから、世界の半分プラス、わたしのような人間全員を敵にまわしてしまってもおかしくはないし、しかも――、
*
「お? なんだ? 樫山? 来たのか?」と、彼にしては珍しい、泥酔一歩手前の目と表情で漱吾。「おっぱい、もんでやろうか?」
*
みたいなセクハラを――あ、これ、酔ってなくてもやります――日常茶飯にかましてくるくせに、
「え? やだー、漱吾さんったら♡」とか、
「もうっ、またそんなこと言って……、本気にしちゃいますよ? あたし」とか、
「あ、あの……、わ、私の……、貧相な胸でもよかったら……」とか、
みたいな感じで?
まわりの女の子もさあ、このバカの発言をさあ、許容しちゃったりするもんだからさあ、そりゃ、まあ、もう、世界の83%ぐらいは、こいつの敵でもいいと想うんですけどね、わたしは。
*
「だから、やすこセンセくらいね、ソウゴさんの魔法効かないの」と、ため息まじりの宋女士。
うん、まあ、わたしはその、アレですから。――が、まあ、それはさておき。
「ったく、なんでこんな酔ってんのよ」と、ぱっと見だけなら、伊勢谷友介に見えなくもないこともない彼のそばに座りながらのわたし。「いつもなら、どんだけ飲んでも酔わないくせに」
「うっせえなあ」と漱吾。「おめえのせえだよ」そう言って目をそらす。
「わたし? なんでわたしよ?」
「あー」そうしてそのまま、むこうの壁の絵に目を向けながら、「はなせば長えんだよ」と、こんどはいすの背にもたれかかると、そのいきおいのまま、「はなせば、長えんだよ」そう言って、天井のほうを見上げた。
困ったなあ、これ、ほんとに長くなるやつじゃん。――宋さんのこまった表情がしんどい。
「じゃあさ、とりあえずさ、お店のめいわくだしさ、」と、彼の肩に手をかけながらのわたし。「宋さんも困ってるしさ、ここは出てさ、別のところではなしは聴くよ」
「……はなし?」
「うん。宋さんも困ってるしさ」
「……宋さん?」
「うん。ほら、ここのオーナーの」
「あー、宋さんね。――おまえの好きなタイプだもんな、彼女」
*
「ダメだぞー、かしやまー」
それから三十分ほどがして、わたしと漱吾は、八号線沿いのファミリーレストランに移動していた。
「好きなら好きって、ちゃんと伝えないと」アルコールの効きが弱くなったのだろうか、すこし活舌のもどった口調で漱吾。「宋さんも、まんざらでもないって顔してたじゃねえか」平田広明さんを彷彿とさせるイケメンボイスで続ける。
「うっさいなあ、あれは困ってたっていうか、動揺してたって顔よ」――明日から、どんな顔して会えばいいのよ。
「言えばいいじゃねえか」
「あんたとちがって、おんなの子は――って言うか、人類の大半は、もうちょっと複雑な人生おくってんのよ」
「あー」とここで漱吾は、わたしから目をそらすと、こいつにしては珍しく、言葉を選んでいたようなのだが、そこに、
「ご注文、お決まりですか?」と、あたらしいウェイトレスの子が声をかけて来たので――って、この子もこの子でステキなお胸をされていますわね――って、まさか、いまの話聞かれてないわよね?――って、おいこら漱吾、あんたもあんたで、そーゆー顔でこの子を見るんじゃない!!
「顔?」厨房にむかう彼女のうしろ姿をながめながら漱吾は訊き、「おれの顔がどうかしたか?」
「あんた、ちょっとでも気に入った子がいると、さっきみたいな顔でその子のこと見るでしょ?」おなじ彼女の、キュートな腰回りを観察しながらわたしは返す。「それでみんな、勘ちがいすんのよ」
「……勘ちがい?」
「「このひと、私のこと好きなのかしら?」って。だれかれ構わずその顔ふりまいてるってことも知らずに」
「……どんな顔だよ?」
「あー、それはー」
*
前述の女性編集者が求めたような、こいつの“モテの秘密”とやらは、きっとこの……、なんだっけ? 笑顔でもなく……、ほほ笑みでもなく……、なんと言うか……、うーん? ま、要は、くり返しになるが、この「このひと、私のこと好きなのかしら?」と、女性に勘ちがい――いや、こいつ的には、本当に好きだと想っているのかも知れないけれど――勘ちがいさせてしまう、この表情にあるのだと、わたしなんかは想うワケですね――よう知らんけど。
で、まあ、このバカ、ときどき同じ顔を、わたしやわたしの友人にすら向けることもあって――、
*
「いや、おまえのことは、好きは好きだけどよ――」と漱吾。届いたばかりの、ピスタチオアイス乗せなんとかサンデーを食べながら言うのだが――だから、そういうとこだぞ、バカやろう。
「――は?」
「だから、そこで言葉を切ったら、あんたのことをよく知らなかったり、おとこに対して免疫のない子とかは、かんちがいしちゃうでしょ? ってはなしよ」
「――うん?」と、こんどは、汚れもないまま星を眺めていた少年のような瞳でわたしを見つめる漱吾。「あー、「おまえのことは、好きは好きだけど――」って部分か?」
「そうよ!」ほんっと、はら立つわね、こいつ。「あんたほんと、いつか大変なことになるわよ」――なんでこいつ、罰とか当たんないのよ。
と、ここでわたしは、わざとらしい長いため息をひとつ吐くと、とどいたコーヒーにミルクをいれ、砂糖をいれ、彼からの反論、あるいは引き続きの、調子っぱずれの返答を待っていたのだが、
「――なに?」と、逆に漱吾に、訊き返すことになる。「――どうかした?」
彼が、アイスを食べる手を止め、とつぜん、その両の手のひらを、目の上のほうにあて、まるでまわりの景色や記憶を、その視神経を麻痺させることで消し去ってしまおうとするかのように、グッと、押さえ出したからである。
店内のBGMが切り替わり、音量がすこしだけ大きくなった。
「わりい」しばらくして、漱吾は言った。伸ばした指が小刻みにふるえ、みょうに繊細で美しいもののように想えた。「――ほんと、そうかも知れねえ」
(続く)