迎え
アインズビル領主一行の視察が終わり、1週間の間リディルレーネは罵詈雑言や暴力にひたすら耐えた。
何故リディルレーネが引き取られるのか、現領主の長女、ジュリエーレは納得してくれなかった。
そう、グレイザックから気持ち悪いと言われていた女である。
現領主の側近からは、通りすがりざまに水をかけられたりした。水ならまだ良いが、蜂蜜などのときもある。髪の毛についてしまうとそれはそれは洗い流すのも大変なのだ。
そして元々虐げられてきたのもあり、衣服類も少なく着替えにも困った。
あとは領主夫人に扇などでぶたれたりした。
出血もしたし、ミミズ腫れにもなったので、迎えが来るまでに治るか心配だった。
罵詈雑言も暴力も想定していたし、期間も分かっていたから耐えられた。
何でそんな暴言がすらすらと出てくるのか、とさえ感心したほどだ。
そんな自分のことは正直どうでもいい。
心配なのは兄のことだった。
リディルレーネがいなくなった瞬間、兄は食事すら運ばれてこないだろう。
予想はついている。
嘆きたいし、助けられる術があるなら縋りたい。
アインズビルとの交渉に兄のことも含めたかったが、何となく空気を読んだ。
何となく、だが。
兄のことを口にしたら切り捨てられる、と思ったのだ。
完全に保身なのだが。
でもあそこで兄の話をすれば、アインズビル領主や義弟のグレイザックは話を聞いてくれなかっただろう。
恐らく、だが。
恐らく、そんな気がした。
とりあえず出来ることはした。
兄へ痛み止めの薬や保存のきく食料も隠している。
兄を信じるしかないのだ。
ぐ、と拳を握りしめてしまう。
そのせいで手の平には爪が食い込んだ跡がずっとついていた。
あらゆる暴力からひたすら耐え、やっと迎えの日。
天馬車が1台やってきた。
空からふわり、と音もなく到着する。
手綱を握っているのは側近のサムエルと呼ばれていた男性だ。
手綱捌きが素晴らしい。
音もなく到着するなんて、初めて見た。
リディルレーネは感動し、目を輝かす。
カルムクライン城には天馬がいない。
天馬を養えるお金がないし、天馬番を雇う給金も出せないからだ。
馬車からなんと、グレイザックが降りてきた。
それにも驚くリディルレーネ。
使いを寄越すと思っていたので、慌てて跪く。
「ご足労いただきまして、感謝に絶えません」
「良い。ちょうど手が空いていたからな。荷物をもらおう」
だが、荷物という荷物はない。
「これだけですので、持ってもらうほどではございません」
彼女は肩かけカバンと手提げのみだった。
「……少なすぎやしないか?」
グレイザックは片眉を吊り上げる。
「研究資料と両親の形見があれば充分です。衣服は2枚あれば何とかなります」
彼女は自嘲気味に答えた。
それだけ虐げられてきたことが分かり、グレイザックよりサムエルが怖い顔をする。
「サムエル」
グレイザックは睨む彼を止める。
「別れの挨拶があるなら済ませよ」
「ございません」
彼女は即答し、後ろを振り返ってカルムクライン城を見上げる。
現領主家族は忌々しそうに彼女を見ていた。
「それでは、ご機嫌よう」
彼女は微笑み、踵を返した。
振り返ることなく天馬車に乗り込む。
グレイザックと向かい合わせに腰を下ろした。
それを確認するとサムエルが手綱を引っ張り、天馬車は上空へと駆け出していく。
少し興奮し、窓から外を覗く。
「リディルレーネ」
名を呼ばれ、彼女は真面目な顔でグレイザックを見る。
「はい、何でしょうか」
「お前は今からリディオノーレと名乗れ」
本名と変わらない響きの名前で違和感がない。
「かしこまりました」
彼女は答える。
「さて、これからのことだが……」
彼は説明してくれるらしい。
到着してからサムエルに伺うものと思っていたので、グレイザックは案外優しいのかもしれない。
「部屋はサムエルの隣を用意している。あと、アインズビル家の紹介をしておく」
「まず、領主であるライリルムント。35だ。俺の異母兄になる」
「……結構離れているんですね」
確かグレイザックは学院卒業したばかりの筈だ。16になるはず。
「前アインズビル領主が死ぬ前くらいに他所でつくった子どもだからな」
グレイザックは吐き捨てる。
「申し訳ありませんでしたっ」
言ってはならないことを口にしたようだ。
「構わん。そんな私生児に預かられることになって悪いな」
彼は意地悪い顔をする。
「私にとってそんなもの関係ないです。逆境をはねのけ、実力を示したグレイザック様は素晴らしいと思います」
素直な感想を述べる。
「俺はそれをお前にも求めるぞ」
彼はまっすぐ見つめる。
「私生児が後見人の没落カルムクラインの勘当娘。などと呼ばれるだろう。名前を変えても気付かれるだろう」
ものすごい侮蔑のこもった言葉の羅列だ。
でもこれは恐らく彼の優しさだろう。
先に現実をつきつけとけば後が楽だ。
「…分かっています。百も承知です」
彼女もまっすぐ見つめ返した。
「よろしい」
彼はその言葉に満足し、座席に深く座り直す。
「そして、領主夫人はシャイリーネ様だ」
次々と紹介が始まる。
「長男にジャンドバルト、長女にシャーリネーヴェだ。お前とは2つずつ歳が離れている」
ジャンドバルトとシャーリネーヴェ。
よし、覚えた。
「基本は誰に対しても様付けで呼べ」
「はい」
本当に意外と優しい。
ここまで説明してくれると思っていなかった。
「アインズビルに入れば、お前も肩身が狭いだろう。でもやってのけろ。それを見込んで、お前を引き取った」
その言葉に彼女は思わずごくりと唾をのみこむ。
「はい、死ぬ気で食らいつきます」
「……よろしい」
彼はニヤリと笑うと目を伏せ、言葉を続ける。
「アインズビルまでまだかかる。休んでおけ。この1週間休めてないだろう」
「……はいっ」
彼女は目を瞬いて、にこりとした。
彼とは歳が6つしか変わらない。
なのにここまで気を配り、面倒ごとを引き受けてくれた。
(……やるしかない)
彼女は決意を胸に束の間の休息に身を投じた。