五 一人は寂しい~いしゅたるとかつての神殿巫女きるけえ~
きるけえにも二頭の獣にも訊ねたい事が山とあった。
だが、心の中を読めるきるけえ相手に質問をするのは難しそうだ。
結果として私は自分から口を開けずにいた。
「よろしければ湯浴みをなさいませんか。わたくしが背を流しましょう」
おずおずとした素振りで、しかしながらはっきりと欲情の色を浮かべたきるけえが私に声を掛けてきた。
「いや、私一人で出来ますのでお気遣いなく」
島に流れ着いた男に一目で心を奪われる呪いをかけられた哀れなきるけえ――。
彼女は人肌恋しさに身もだえするように、熱を孕んだ目で私をそっと見上げた。
「宜しければ明日、船大工らに会わせてはいただけませんか。私が乗る船ですから彼らと打ち合わせがしたいのです」
強引な話題転換に、きるけえは一瞬逡巡した素振りを見せた。
「かしこまりました。そのように手配を致しましょう」
素振りの割に声色は揺らぐこともなく、きるけえは静かにうなずいた。
ややあってきるけえが手を二度叩くと、蛙の顔に人間の四肢をもった男が広間に現れ、湯屋へと先導した。
「おやすみなさいませ旦那さま」
きるけえの声が、枯野を渡るさやかな風の如く響いた。
「貴殿は人語を解するのでしょうか」
私の問いに、蛙の顔をした男はげろげろとうなるばかりだった。
そもそも蛙の発声では人語はつむげない。
ならば筆談をしようと思ったが、読み書き算盤が出来る者は太閤殿下によって平らかとなった日ノ本広しといえどもまだまだ少ない。
増して元はここいらの漁師であったであろう者相手に筆談は難しかろうと、私はため息をついた。
それきり無言になった私に、蛙の顔をした男は湯屋の入り口で湯上がりの着替えと湯あみの衣などを差し出した。
ヒノキの香りが湯気に混じって私の全身を覆った。
「大儀であった。疲れただろう」
にやにやと半笑いをしているような声が淡い薔薇の香りに運ばれてきた。
「約束通り、あなたの事は口には出しませんでしたぞ」
「きるけえに我がここに来た事を感づかせたのだから、口に出そうと出すまいと同じではないか。まあ良いわ。遊び相手が増えたと思うて、主をしばらくからかおうぞ」
いしゅたるが笑うと鈴のような音が響いた。
「主が励めば、妻子の元に帰れる道も開けようぞ。主が開いた道ならば、我は敢えて引き留めはせぬ」
私をからかうとはっきり宣告した上で告げられた言葉を信じ切る事が出来るほど、私はおめでたい性質ではなかった。
「ふむ、さすがは大商人だけの事はあるわ。我に怯えもせず我の言葉を鵜吞みにもせぬ。面白い男じゃわ。それにしてもあのヤマネコも粋な事をする」
湯舟の辺りに、くちなしの香りが薔薇の香りに混じって漂ってきた。
「あの緑の酒は一種の媚薬でな。愚かなキルケはその力を借りて男と肌を合わせようとするのじゃ。我の呪いは体の欲望を対象にはしておらぬから、媚薬の効果も相まってキルケは簡単に男の体のみは手に入れるのだがな」
いしゅたるの声色からは、してやったりと意地の悪そうな笑い顔が目に浮かぶようだった。
「あの酒やら手製の薬を使わずに男を手に入れる術をキルケは持たぬのよ。あれは散々男に愛を求めては拒まれ続け体だけはホイホイと供して来たものだから、自分自身の魅力一つで男の寝室に忍ぶ事も出来なくなってしもうてな。だから今夜は安心して枕を高くして休むが良い」
いしゅたるが嘘をついていないならば、私と共寝する手段をオオヤマネコに絶たれたきるけえは一人寝の夜を過ごす事にしたようだ。
いつの間にやら薔薇の香りが消えた湯屋から上がると、石造りの壁に囲まれた長い廊下を歩いて寝室へと向かった。
階段を上がると、きるけえが部屋の前で待っていた。
「どうされましたか」
いしゅたるの読みは外れたようだ。
私はきるけえが何を求めているか重々承知の上で空とぼけた。
「一人は、寂しいのです」
きるけえは駆け引きめいた事を一切知らぬのだろう。
知っているのは男の体だけ。
その男の体すら薬やまじないの力を使わねばどうしてよいやらわからず、ただ赤子が母の乳房を探るように男に取りすがるしか出来ない。
きるけえはいしゅたるの呪い通り、体を抜きに男と通い合った経験すらないのであろうと思った。
「妻子とは、家族とはそんなに大切なものなのですか」
そんな事すら分からない境遇に置かれ続けたのかと、きるけえの事を痛ましく思った。
「私には、家族とは何かが分からないのです。遠い、ずいぶん遠い昔にそれらしき人はいたのかもしれませんが私の覚えているかぎり家族はおりませんでしたから」
部屋の扉にもたれてきるけえが目を伏せた。
「失礼ながら、あなたはどのぐらいの年数を過ごしてこられたのですか」
「それすら分かりません。私は父も母も知らずに過ごしてきました。いや、父や母から生まれてきたかも定かではありません。旦那さまもすでにご存じの通り、私は他の方とは違う時の流れにいます」
きるけえの見た目は若い娘そのものだが、その瞳にどれだけの歴史を映してきたのだろうか。
それとも、太古の昔からひっそりと隠れるように小島に引きこもって存外何も知らぬのだろうか。
「あなたは死すべき者なのですか、それとも死を超越した者なのですか」
「それすら分らぬのです。私が覚えているのはこの島に来る前に故郷の島で長く暮らしていた事ぐらいで、その時も今と大して変わらぬ暮らしをしていたのです」
「これからもこの暮らしを続けるつもりですか」
私はいしゅたるときるけえが和解すれば、きるけえの苦しみも消えるのではないかと思った。
「イシュタルに呪いをかけられたらしいことはうっすら覚えています。ですが私が何をしてイシュタルを怒らせたのかも思い出せないのです。旦那さまはイシュタルと話したのでしょう」
私は首を横に振った。
きるけえを見送った私は寝室のドアを開けた。
「よう耐えたな、六十人目。褒めて遣わすぞ」
濃い緋色の衣服に深い紫色の肩掛けを掛けた妙齢の女が、寝台に胡坐をかいていた。
その体は人と変わらぬ大きさだが、明らかに人ならざる後光が射していた。
私は思わず床にひれ伏した。
「良い、良い。今夜は無礼講ぞ。六十人目、面を上げい」
おそるおそる頭を上げると、薄桜色の指と空色の宝石をあしらった指輪が目に入った。
「あれには食指が動かぬか」
けだるげに髪をかき上げ、勝ち誇ったようにいしゅたるは笑った。
「彼女は子供そのものです。何とむごい事を」
「なあに、神とはもとよりむごいものよ」
その言葉に、私は後頭部を思いきり殴りつけられたような衝撃を受けた。
「考えてもみろ。お前の神はお前を救ったか。お前の仲間を救ったか」
「それは、そのような巡りあわせであったとしか答えようがありませぬ」
いしゅたるはけたけたと笑いながら、黄金の杯になみなみと注がれた血色の酒を飲みほした。
「何が起こっても何をされても都合の良いように考えては前を向く。踏まれても踏まれても立ち上がる青人草の何と愛いことよ」
黄金の杯に手酌で血色の酒を注ぐと、ずいと私に差し出した。
私は目をつぶってぐいと葡萄酒を飲み干した。
「良い飲みっぷりだ、六十人目。さあ、近う寄れ。ここに来やれ」
私は言われるがままに寝台によじ登った。
「案ずるな、人の世のお前をそのまま食らう事は叶わぬでな」
「では人の世の男を食らいたくなった時にはどうなさるのですか」
誠に不躾な質問だが、興味には逆らえなかった。
「簡単な事よ。我の神殿に仕える者どもに相手をさせるのみ」
初めて顔が見えた。
きるけえとどこか似た面差しだが、その神威は人の姿をとってなお隠しおおせるものではなかった。
「キルケは主の先祖がまだ土くれであった頃に我が神殿に仕えておった。ある時、我は神から人に降りてでも手ずから愛でたい男を見つけたのだ」
いしゅたるは、柔らかく巻かれた髪をほっそりとした指先でもてあそんだ。
「神である我が死すべき者であるその男を手ずから愛でるには、ある特殊な方法以外にすべがない。その男だけは神殿の巫女に相手をさせるのもしゃくにさわってな」
神は嫉妬や独占欲を超越した存在であるはずなのに、いしゅたるの言はどれもこれも異質さがぬぐえない。
「その男が旬のうちに我が手に抱きたいと思うて、ちょっとした神託を出したのだ」
神託を軽んずれば即命を落としたであろう、気の遠くなるような昔の話だ。
いしゅたるのちょっとした神託とやらで、過去に幾人が命を落としたのだろうかと思うと私はぞっとした。
「巫女は神託を受け取り人に伝えるただの肉の器だ。それをあの愚かな女ときたら分もわきまえず! 死を以って贖うなど生ぬるい」
空になった黄金の杯をぽいっと床に投げ捨てると、いしゅたるはどさりと寝台へ身を投げ出した。
巫女として最も重い罪とは何だろうか――。
私は床に投げ捨てられた黄金の杯を、緩慢な動作で拾い上げ円卓に置いた。
「だからのう六十人目、あれに同情も憐憫も不要なのだ。あれは我から授かった力を己が力と思い上がり、自滅しただけよ」
確かに私はきるけえに同情と憐憫の情を抱き始めていた。
気の遠くなるような年月を過ごしているとは言え、今の彼女は愛情に飢えた孤独な女でしかない。
誰彼となく愛してしまうのに誰からも愛されぬ呪いは、死よりも辛いに違いない。
「それが罠ぞ。獣になりたくないのならキルケの誘いに乗るな」
きるけえはふざけて人を動物にするような存在だとは思えなかった。
「ふざけていないから性質が悪い。あれは我の力を中途半端に身に着けて居るが故、意図せず相手を動物に変えてしまう時があると言っただろうに」
私の脳裏に、波打ち際で鳥になってバタバタともがく己の姿がふと浮かんだ。
必死で他の事を考えようとするが、考えようとすればするほど鳥の目線のように自分の目が回っていった。
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