四十 旅の僧
(前回あらすじ)
フランソワの言う通りキルケは自分の顔を見るたびに心が不安定になるのだとしても、それだけが鏡や窓を避ける原因とは思い難かった「私」はキルケが明り取りの窓に映らなかった理由を月と同期したせいではないかと推察する。
海豚の顔をした男は寝室での「私」とキルケに意識を合わせると、キルケは月と完全に同期してキルケと同期した「私」と共に月に行っていたのだと言い出す。
道理のないこの島での出来事を道理で読み解く事が無駄であることを痛感していた「私」は海豚の顔をした男の言葉を受け入れ、キルケが完全に月と同期できるならばイシュタルが明星(金星)の力を持っているようにキルケも本来は月の力を持っていたのではないかと考え始める。
そして、鏡(月であるキルケ)と剣(真に愛する男)が交わることで玉(真の愛によって育まれた子)が生まれる事が『心底愛を交し合えれば呪いが解ける』意味ではないかと海豚の顔をした男が返す。
「剣」の役割が出来るとしたらフランソワしか思い浮かばないがすでにフランソワは獣になってしまっていると嘆く「私」に、トムは一度フランソワと肚を割って話をしようと提案する。
(登場人物紹介)
【私(二瓶十兵衛)】桃山時代にキルケの島へ漂着した織物商。既婚子あり。妻は子守歌が上手。
島で唯一の人間。島から脱出するための潜水艦に乗船するためキルケの誘惑を交わしながら奮闘中。
【きるけえ(キルケ)】男を獣に変える人さらいとして恐れられる妖女。島で獣に囲まれて一人暮らしの喪女(ただし美人)。見た男すべてに一目ぼれする呪いをイシュタルから掛けられている。
【いしゅたる(イシュタル)】自らを明星の大神と宣言する自信に満ち溢れた美しい女神。バビロニア時代からの恨みつらみがあるようで見た男すべてに一目ぼれ片思いをする呪いをキルケに掛けて海に投げ込んだ犯神。
【とむ(トミー・ビス)】リバプール出身の元潜水艦乗り現オオヤマネコ。人間時代は長身痩躯短髪。短気で気まぐれ飽きっぽい。イシュタルが嫌い。
【海豚の顔をした男】元高僧。キルケの呪いを解こうとしたが撃沈し海豚の顔を持つ獣面人身になる。虚空蔵にアクセスして脱出用の船を設計製造していた所「私」が島にやってくる。モノによっては空から物質化もできる。
【ふらんそわ(フランソワ・ド・ブロア)】シャンパーニュ出身。元十字軍志願者現黄金色の毛並みの犬。エルサレムに向かう途中で難破。キルケにとても懐いており、なぜかしばらく獣にならずに済んでいた。謹厳実直。
【綿菓子のようなふわふわした何か(水神エア)】イシュタルの古い知り合い。飲み比べに負けてイシュタルに水神としての権能以外を奪われる。「私」に呪い除けの水を持たせ、イシュタルとキルケの因縁と、キルケの怒りを防ぐ方法を教える。
ふらんそわを呼びに館へと戻り行くとむの姿が見えなくなると、海豚の顔をした男は空から取り出した焚火を空に戻した。
月の光のみが私たちを照らした。
「今更だが、名前をお伺いしていなかった」
「ありません」
「有馬の湯の有馬に仙人の仙ですか」
「いやいや、名前を持っておらぬのです」
笑いも嘆きもしなさそうな海豚の顔をした男が、私の勘違いにほんの少し笑ったようだった。
「それはさぞ暮らしにくかった事だろうに」
海豚の顔をした男はそうでもないのだと言った。
「出家にあたって人の名は捨てておりますれば」
「僧侶としての名は」
「その名も捨て、拙僧は山へ海へと一人旅をしておりました」
ふらんそわが『法主様』と呼ぶぐらいの高僧だと聞いていたが、その身分すら捨てたのだろうかと私は思った。
「拙僧は伽藍の外を取り巻く民の骸と怨嗟の声を捨て置けず、伽藍の中に籠る生き方を捨てる事に致しました。そして漂泊の旅に出たのです。空から物を取り出し自在に雨を降らせ雲を吹き払う力を以って、苦しむ民が一人でも少なくなるようにと諸国を回ったものでございました」
海豚の顔をした男は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「日照りに見舞われた土地に雨を降らせれば、下流の村に大水をもたらしてしまう。農作物の収量を増やせば、他の村から強盗に夜盗がやってくる。因果応報を説いて聞かせる身でありながら、拙僧は災いと憎しみの絶えぬ世と何も出来ぬ己に改めて打ちひしがれました。そして若き日に修行をした土佐の洞に籠る事にしたのです」
月に照らされた浜昼顔はぐっすりと眠りについていた。
「拙僧はこの身を土佐の洞に置いたまま、教えを求めて天竺へと旅をしました。ですが意識の中で天竺に行く事に飽き足らず、宋に向かう船に乗る事にしたのです」
明を宋と呼ぶ時代の人間なのかと、私はちらりと思った。
「大輪田泊まで出向いて、宋に向かう船に乗るつもりでした」
浜昼顔の群生を抜けると砂浜が隆起した岩場へと変わる。
その先には、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機が格納された洞窟がある。
「その日はいつにも増して雨風の強い日でした。収穫を前にした五穀が暴風雨に打たれてしまえば、大勢の行き倒れを出してしまいます。私は何度も雨ごいや日ごいに成功して来ましたから、いつもの調子で雨に挑みました」
海豚の顔をした男は、岩場の潮だまりに映る月を見つめた。
「雨は止むことがありませんでした。天に向かって呪文を唱える私の口はまるで水責めをされるようにすぐに塞がり、ほつれた袈裟は風に煽られてちぎれちぎれに空を舞っていきました。風が私を小突くように押し倒すと、私はうっすらと色づきはじめた稲穂と共に空を舞い、鳴門の渦に叩き落されました」
海豚の顔をした男は、再び足を止めた。
「旅の僧のあっけない末路でございました。鳴門の渦に揉まれながら、拙僧は自分の長年にわたる思い違いに気づいたのです」
月に照らされた黒い海に向かい、海豚の顔をした男はしばし読経し瞑目した。
「連れてきたぞ」
黒い海が寄せては返す音の彼方から、とむの声と二つの足音が聞こえてきた。
「キルケ様は就寝中ですが、あまり長くは不在にしない方が宜しいかと。館でお伺いする訳にはいきませんか」
ふらんそわの言葉に、とむはどうするとでも言いたそうに私に目を向けた。
「きるけえがこのままでい続けるのを良しとするか」
「と言いますと」
私の質問にふらんそわは怪訝そうな顔をした。
「きるけえがいしゅたるから掛けられた呪いを解く事が出来たなら、私達はもちろんの事きるけえ自身にとって最高の救いでしょう」
「ならば、本人と直接話すのが最良ではありませんか」
ふらんそわは楽観的な性質らしい。
本人と直接話すには危険がありすぎるから、わざわざ潜水艦の中にこもって話さざるを得ないというのに。
「今はまだその段階では無い。まずあなたに確認したい事がある。ある意味これが肝かもしれない」
私の声はいささか硬くなっていたが、ふらんそわは全く意に介さないようだった。
「何でしょう」
「その問いをここではしたくない」
「分かりました」
どこか納得のいかぬ様子ながら、ふらんそわはハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機の格納された洞窟へと着いてきた。
「二瓶様、開けられませ」
本当に面倒な操作方法だとうんざりしつつ、私は潜水艦の出入り口を開けると念じた。
「どうぞ」
海豚の顔をした男の声に従って、警戒した風を隠すでもなくふらんそわはハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機の中に入っていった。
私を最後尾にして全員が潜水艦の中に入ると、海豚の顔をした男が何事か呪文をつぶやきながら右手でらせんを描き、その手のひらを床に押し当てた。
「これで結界を張りましたので、想念がキルケに伝わる事はないでしょう」
「そこまでして何を隠したいのです」
ふらんそわの瞳が揺れた。
「なあ、フランソワ。お前キルケを愛しているのか」
ふらんそわが雷に打たれたようにとむを見た。
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