三十九 月が綺麗ですね
(前回あらすじ)
キルケは鏡を隠し持っていて囚われの男たちに鏡で姿を確認されるのが不都合なのだと考えた「私」の推論を海豚の顔をした男は、キルケが自分の姿を鏡で映す事に不都合があるから鏡が無いのだと指摘する。そして、鏡を見る事によって自らを客観視したキルケの「観測」によってこのあいまいな時空次元に存在する「島」がキルケごと素粒子に還元される可能性を指摘した。
分からないと叫んでフランソワに全てを吐かせると言い残しトムは部屋を飛び出した。
(登場人物紹介)
【私(二瓶十兵衛)】桃山時代にキルケの島へ漂着した織物商。既婚子あり。妻は子守歌が上手。
島で唯一の人間。島から脱出するための潜水艦に乗船するためキルケの誘惑を交わしながら奮闘中。
【きるけえ(キルケ)】男を獣に変える人さらいとして恐れられる妖女。島で獣に囲まれて一人暮らしの喪女(ただし美人)。見た男すべてに一目ぼれする呪いをイシュタルから掛けられている。
【いしゅたる(イシュタル)】自らを明星の大神と宣言する自信に満ち溢れた美しい女神。バビロニア時代からの恨みつらみがあるようで見た男すべてに一目ぼれ片思いをする呪いをキルケに掛けて海に投げ込んだ犯神。
【とむ(トミー・ビス)】リバプール出身の元潜水艦乗り現オオヤマネコ。人間時代は長身痩躯短髪。短気で気まぐれ飽きっぽい。イシュタルが嫌い。
【海豚の顔をした男】元高僧。キルケの呪いを解こうとしたが撃沈し海豚の顔を持つ獣面人身になる。虚空蔵にアクセスして脱出用の船を設計製造していた所「私」が島にやってくる。モノによっては空から物質化もできる。
【ふらんそわ(フランソワ・ド・ブロア)】シャンパーニュ出身。元十字軍志願者現黄金色の毛並みの犬。エルサレムに向かう途中で難破。キルケにとても懐いており、なぜかしばらく獣にならずに済んでいた。謹厳実直。
【綿菓子のようなふわふわした何か(水神エア)】イシュタルの古い知り合い。飲み比べに負けてイシュタルに水神としての権能以外を奪われる。「私」に呪い除けの水を持たせ、イシュタルとキルケの因縁と、キルケの怒りを防ぐ方法を教える。
「月が綺麗ですね」
その一言に、私ははじめて寝室にきるけえがいることに気が付いた。
私はきるけえを寝室からやんわりと退出させようとしたが、ふとある事を試したくなってしまった。
「今宵の月は一際冷たく見えますな」
私はきるけえの肩を抱き寄せ、その顔を明り取りの窓に映させた。
「懐かしい」
きるけえは、無心で月を見上げていた。
明り取りの窓を気にした風もない。
私は彼女の目を盗むように明り取りの窓を見た。
「今宵の月のごとくに輝く子安貝が欲しゅうございます」
何かの謎かけだろうか。
「海に浮かぶ月ではなくて」
明り取りの窓にはきるけえは映っていないのに、私の肩口にはたしかにきるけえの重みと温かさがあった。
「ええ。ツバメが生んだ子安貝であれば猶の事嬉しゅうございます」
「童のような事を仰る。あなたはそれだけでは飽き足らぬのでしょう」
「龍の首の球でもあれば、皆様を人に戻す事も出来るでしょうに」
きるけえはうなずきながら月を見上げていた。
その横顔がそのまま月に溶けて行きそうで、私は思わずきるけえの実在を確かめるようにその唇を自ら食んだ。
「旦那さま――」
呆然としたような、それでいて月の光にほのかな赤みがさしたように頬を染め、きるけえは私の胸へとしがみついた。
そこからの事は覚えていない。
私が目を覚ました時にはきるけえの姿は無く、ただ彼女の残した浅黄色の薄手の上掛けだけが枕元に転がっていた。
私は自分の体を見、恐る恐る明り取りの窓に自らの顔を映した。
人間の私が、広い額にはっきりとした眉目の私がそこにはあった。
記憶がない間の私は自分をある程度制御できたのだろうかと私は恐怖した。
一体私はきるけえに何をした――。
あれだけ忠告されておきながら、私はちょっとした好奇心でまんまと彼女に自ら手を伸ばしてしまった。
とむにも海豚の顔をした男にも合わせる顔がない。
だが、一つ大きな収穫もあった。
きるけえは窓に姿が映らない――。
これがどのような意味を持つのか私にはまだ分からないが、海豚の顔をした男にでも相談すれば何か良い意見がもらえそうだ。
『今宵の月のごとくに輝く子安貝が欲しゅうございます』
『海に浮かぶ月ではなくて』
海に浮かぶ月など取れる訳もないのだが、私は名残の熱を帯びた体を冷まそうと忍び足で館を抜け出した。
私が初めてこの島で夜を過ごした時には、痩せさらばえた月が闇に消える所だった。
その月が再び闇から生じ育ち行く間に、私はどれだけの年数を過ごしていることになるのだろうか。
この浜辺がすべての始まりだった。
月の光は人の心を鎮静化させるのか、忘我に導くのか、それともその特質は表裏一体なのか――。
私は海面に浮かぶ月を捉えようと素足になって暗い海に身を晒し、海月のように服を着たまま仰向けに浮かんで月を眺めた。
「おくつろぎの所失礼するぜ」
浜辺からの聞きなれた声で、私の夢想は断ち切られた。
「ついに吐かせたぞ。完落ちってやつだ」
私は背泳ぎをしたまま浜辺に近づいた。
ざぶざぶとくるぶしを波が洗う。
海中から夜気に当たると寒さが堪えた。
「寒い」
「もう一発あのくそったれ女に温めてもらうか」
「見てたのか」
「いや。見たくもねえがまあ、何となく空気が、な」
うんざりとしてため息をつくと、私は震えながら流木に腰を掛けた。
「風邪ひくぜ。坊さんを呼んでくるわ」
「その必要はございません」
「おわっ」
とむが進めかけた前足を引っ込めるのと同時に、目の前に大きな焚火が現れた。
「あんた本当に何でも出来るな」
とむが大きな口を開けてあくびをした。
「そうなりたいのは山々ですが、未だ修行の身。ままならぬ事ばかりにございます」
海豚の顔をした男は、焚火の中に手を突っ込んで九字を切った。
良くも火傷をしないものだと呆れ半分に見ていると、『破!』と叫んで月に手を上げた。
「応急措置にはございますが、これである程度は結界が張れる事でしょう。月の力に呑まれたようですが大事に至らず何よりでした」
当然とむが察知したからには、海豚の顔をした男が私がきるけえに手を伸ばした事ぐらい分らぬはずもない。
私はきまりが悪くなって思わずうつむいた。
「フランソワの言うにはあのくそったれ女は単純に鏡を見たがらないんだとよ。とにかく鏡や光って反射するものは苦手らしい。何でも、動揺して心が不安定になっちまうらしいんだ。だから顔や姿が映るものを極力置かないように、館の管理をしている奴らにも伝えてるんだとさ」
ふむ、と海豚の顔をした男がうなずいた。
「きるけえが自分の姿を鏡で見た所できるけえや島自体が消えてしまう訳ではなく、本当に単純な話なんだと言っていた。何でも、金具や食堂の大窓やらでたまに自分の顔が映ってしまった事に気づくらしい。その時には『私は醜いから』『私は愚かだから』とかぶつくさ言いながら泣き出したり震えだしたり、いきなり叫んだりするらしい」
「自らの容姿を異様に嘆く年頃の娘は、さほど珍しくもないですからな」
納得しかける海豚の顔をした男を横目に見ながら私は首をひねった。
なぜならきるけえは――。
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