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孤島のキルケ  作者: モモチカケル
35/53

三十七 鏡がない

(前回あらすじ)

 妻子の顔を思い出そうとするとキルケの顔にすり替わってしまうと嘆く「私」にトムはいっそキルケに手を出してしまったらどうだと提案する。手を出して獣にされたくないと拒否する「私」にトムはキルケの代わりに猫やうさぎを獣人化させた女中に手を出した二人の男の顛末について語る。

(登場人物紹介)

 【私(二瓶十兵衛)】桃山時代にキルケの島へ漂着した織物商。既婚子あり。妻は子守歌が上手。

 島で唯一の人間。島から脱出するための潜水艦に乗船するためキルケの誘惑を交わしながら奮闘中。

【きるけえ(キルケ)】男を獣に変える人さらいとして恐れられる妖女。島で獣に囲まれて一人暮らしの喪女(ただし美人)。見た男すべてに一目ぼれする呪いをイシュタルから掛けられている。

【いしゅたる(イシュタル)】自らを明星の大神と宣言する自信に満ち溢れた美しい女神。バビロニア時代からの恨みつらみがあるようで見た男すべてに一目ぼれ片思いをする呪いをキルケに掛けて海に投げ込んだ犯神。

【とむ(トミー・ビス)】リバプール出身の元潜水艦乗り現オオヤマネコ。人間時代は長身痩躯短髪。短気で気まぐれ飽きっぽい。イシュタルが嫌い。

【海豚の顔をした男】元高僧。キルケの呪いを解こうとしたが撃沈し海豚の顔を持つ獣面人身になる。虚空蔵にアクセスして脱出用の船を設計製造していた所「私」が島にやってくる。モノによっては空から物質化もできる。

【ふらんそわ(フランソワ・ド・ブロア)】シャンパーニュ出身。元十字軍志願者現黄金色の毛並みの犬。エルサレムに向かう途中で難破。キルケにとても懐いており、なぜかしばらく獣にならずに済んでいた。謹厳実直。

【綿菓子のようなふわふわした何か(水神エア)】イシュタルの古い知り合い。飲み比べに負けてイシュタルに水神としての権能以外を奪われる。「私」に呪い除けの水を持たせ、イシュタルとキルケの因縁と、キルケの怒りを防ぐ方法を教える。





 墓場歩きを数時間続けた私は這いずるように湯屋にたどり着いた。

 ひとたび湯船につかると、足からどっと力が抜けて立つのもやっとの状態になった。

 ひのきの湯船に腕を引っかけたままぼんやりと天井を見るが、小刻みに太ももが震えて膝の関節が悲鳴を上げている。

 私はこんなに体が弱かったか。

 商人として下船して陸路を何里も歩く事など日常茶飯事だったし、小一時間ぐらいは蹲踞そんきょの姿勢を取る事もあった。

 ここに来てから太陽の昇り沈みは五日も無いが、私の体の反応からすれば何年も怠惰な生活をしているような体の衰えぶりである。

 私は自分の体を鏡で確認しようとしてある事実を思い起こした。

「そう言えば、この館には鏡がなかった」

 ふらんそわの前で指摘した際に、お気づきになりましたかと小声でつぶやいたのを私は聞き逃していなかった。

「鏡があっては不味い理由があるのか」

 私の頭は久方ぶりに鋭く働き始めた。


 鏡それ自体が無いだけでなく、窓の類もほぼ小さく、半透明の物や模様で彩られて顔全体が映らない物が殆どだ。

 例外と言えば中庭に面した大広間の窓と私のいる寝室の明り取り窓ぐらいだ。

 しかし大広間の窓は日が暮れると布で覆われるし、明り取りの窓は全身を映すには細すぎる。

 きるけえは毎日趣向を凝らした衣服を着ているのだから、その衣服を仕立てる際には鏡を使っているはずだ。

 工場の紡績棟に行けば鏡はあるのだろうか。

 しかし女が鏡を見ずに、どうして毎朝髪を結う事も出来ようか。

 いびつな愛情なれど男を愛している女が、自分の容貌に無頓着でいられるものだろうか――。

「きるけえは囚われの男に鏡を使われたくないのだ」

 私ははやる気持ちで湯船から飛び出した。


 いても立ってもいられなくなった私は、体をぬぐうのもそこそこに寝室のとむの元へと走った。

「眠いんだよ」

 体をゆさゆさと揺さぶると、とむは明らかに不機嫌な声を上げて寝台から飛び降りた。

「なあ、もしかしたら皆人間に戻れるかもしれない」

「何だって?」

 とむがぴくりと耳をひくつかせた。

「鏡だ。この館には鏡がない」

「それがどうしたんだよ」

「だからな。ふらんそわに鏡がないって言ったら小声で『お気づきになられましたか』ってぼそっとつぶやいたんだ」

「ならフランソワに話を聞くのが先だぜ」

 私が扉を開けると、とむは太ましい脚で廊下を蹴って一階へと駆け下りた。


「おい、フランソワ。話があるんだちょっと顔貸せよ」

 食堂前の廊下で、とむがきるけえのそばにいるふらんそわに声を掛けた。

「なあ、獣体同士の会話はきるけえには聞こえないのか」

 私の想念は筒抜けらしいのに、あっけらかんとふらんそわを呼ぶとむの姿に私は思わず問いかけた。

「人体と発語形態自体が違うからな」

 怪訝そうな表情を隠すことなく食堂の外に出てきたふらんそわに、とむは開口一番に尋ねた。

「なあ、鏡の秘密を知ってるんだろ」

「鏡の秘密?」

 ふらんそわは何を言っているのか心底分からない様子で、困惑したように私ととむを交互に見た。

「ニヘイさんが鏡がない事に気が付いた時、何て言ったよ」

 とむはガラの悪そうなうなり声で、態勢を低くした。

 これではまるで喧嘩か素浪人の言いがかりだ。

「とむ、もう少し順を追って話した方が」

「ニヘイさんは黙って飯でも食って来いよ」

 すっかり気が立っているらしいとむに食堂に追いやられると、きるけえがにこやかに私を出迎えた。


「ご飯は良いのかしら」

 二頭の獣をきるけえは心配げに見やった。

「腹が空けば食べに来るでしょう」

 彼らの会話に水を差されては困るので、私はさっさと席についた。

 今日は随分と変わった料理だった。箸すら無い。

「いつもの賄いさんの代わりに、工場の賄いさんが作ったのです」

 工場の賄いさんがが光沢のある深い大皿を運んできた。

 勧進相撲かんじんずもうに出てくる全身が弾力に満ちた球のような大男で、見たことも無い極彩色の鳥の顔が特徴的だった。

 どんと音を立てて置かれた皿の中には赤色の変わり飯が一杯に盛られていた。

「この館に詰めている方以外は工場辺りに住んでおられるのですか」

「ええ。旦那さまが通われている工場の奥に、皆さまの住まいがあるのです」

 給金はいくらかと聞きかけて、きるけえは暮らしを立てると言う言葉の意味も知らなかったぐらいだからただ働きなのだろうと思い直す。

 給金をもらった所で娯楽も金の使い所もないのだから、金はこの島においては何の意味も成さないのではあるが。


「あら、ご飯にしましょうか」

 重大な話を終えて食堂に入ってきたふらんそわととむを見て、きるけえはぽんと手を叩く。

 猫の耳を持つ給仕は慣れたもので、きるけえの足元にふらんそわの飯を、暖炉の前にとむの飯を置いて立ち去った。

「食うか」

 とむに蒸した里芋とほぐした魚を持っていく。

「ありがとよ」

 とむは大きな牙を見せながらうまそうに食いつき始めた。

「こちらは香草の風味が強いですからお気に召されるか」

 光沢のある深い銀器に盛られた赤色の変わり飯は、きるけえの呪いの薬草でも入っているのではないかと言うほど強い芳香を放っていた。

 給仕が平たい皿に取り分けたそれを私は恐る恐る口に入れた。

 きるけえが初日に出した粥以上に表現のしようもない味だった。

 舌がわずかに痺れてきた。

 

 自身の皿を空にしたとむが物欲しそうな目で赤色の変わり飯をじっと見ていた。

「これが好きなのよね」

 きるけえは赤色の変わり飯の上に置かれた鶏の直火焼きを指さした。

「これはとむの体には良くないだろ」

「俺は人間だって言ってるだろ」

 とむが不服そうに唸るので、私は赤色の変わり飯に鶏の直火焼きを片手一杯分取り分けてとむにやった。

「この旨さが分からないとは人生半分損してるぜ」

 人生半分どころかもはやちっぷとやらを入れられて改造人間化しつつある私は、損も何もあったものではない。

 きるけえは赤色の変わり飯に困惑する私を見かねたのか、猫の給仕を呼んだ。

 私用に、蒸した里芋と味噌だれが置かれた。

「変わり飯の大皿を見ろ」

 里芋をつついていた私は、不意にとむの声を拾った。

 はっとした私と、ふらんそわが一声吠えて立ち上がったのはほぼ同時だった。


「どうしたの」

 立ち上がったフランソワにしがみつかれたきるけえは、子供をあやすようにフランソワの背を撫でた。

 猫の耳を持つ給仕はまだ飯を終えていないと言うのに、そそくさと変わり飯の大皿を下げていった。

 確かに、銀製の大皿は鏡ほどではないが周囲を映し出していた。

 私は自分の仮説が正しい事を確信した。

 しかしこのまま頭を働かせればきるけえに私の考えが丸分かりになってしまう。

「ごちそうさまでした」

 私はそれだけ言うと、駄々っ子のようにしがみつくフランソワをあやすきるけえをそのままにしてそそくさと部屋を出た。

「あの野郎邪魔しやがった」

 寝室に入るなりとむが忌々し気に毒づいた。

「ふらんそわの事か」

「それ以外に誰がいるんだっての。今すぐ海豚いるかの坊さんに連絡を取れよ」

 とむは片目を閉じて私に提案した。

「どうやって」

 私は真っ暗な中工場まで行き来すればきるけえに怪しまれると思い、気が乗らなかった。

「チップが入ってるだろ。呼べよ、坊さんをよ」

 ちっぷがあれば何でも出来ると誤解しているんじゃないのかとうんざりしている私の背後から、不意に聞きなれた声がした。

「お呼びになりましたね」

 空中であぐらをかいた状態で、海豚いるかの顔をした男が漂っていた。


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